立憲制への道とは? わかりやすく解説

立憲制への道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 04:35 UTC 版)

宮島誠一郎」の記事における「立憲制への道」の解説

この頃修史館御用となっていた宮島は、明治12年1879年12月宮内省御用兼務を命ぜられ、新たに設置され宮内省諸規取調所で帝室典範作成向けた調査岩倉から依頼される岩倉本格的な憲法制定議会設置前に皇室あり方確定させる必要性から宮島らに内外の宮儀礼皇族扱いなどを研究させたものである。またこの時期日本研究のために滞在中で宮島親交のあった黄遵憲も、宮島から日本礼式祭典について詳細に尋ね帰国後の名著日本国志』執筆一助としている。明治13年1880年8月岩倉面談した宮島は、折柄盛り上がっていた国会開設運動憂慮していた岩倉に、かつての国憲編纂事績語り岩倉からそれをまとめるよう依頼され翌年5月国憲編纂起原」として提出した上記明治初年宮島による国憲編纂運動知られるようになったのはこの資料よるものであり、明治初期議会制研究の上重要な資料となっている。 明治14年1881年)に国会開設の詔出されたことにより、翌明治15年1882年)、参議伊藤博文憲法研究のためヨーロッパへ赴いた際には、伊藤送別宴に出席翌年帰国した伊藤に「伊藤参議呈する書」と題する意見書提出日本独自国情踏まえた憲法制定という路線伊藤異なるものではなかったが、宮中からの介入ではなく内閣主導する憲法制定想定していた伊藤は、宮中制度取調局を設置して自ら長官となり憲法制定主導したため、宮島憲法制定参加することはできなかった。その後宮島参事院議官補、宮内省華族局、爵位主事歴任明治29年1896年貴族院議員任命された。明治44年1911年3月死去享年74

※この「立憲制への道」の解説は、「宮島誠一郎」の解説の一部です。
「立憲制への道」を含む「宮島誠一郎」の記事については、「宮島誠一郎」の概要を参照ください。

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