立憲制への道
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この頃、修史館御用掛となっていた宮島は、明治12年(1879年)12月、宮内省御用掛兼務を命ぜられ、新たに設置された宮内省諸規取調所で帝室典範作成に向けた調査を岩倉から依頼される。岩倉は本格的な憲法制定・議会設置を前に、皇室のあり方を確定させる必要性から宮島らに内外の宮廷儀礼・皇族の扱いなどを研究させたものである。またこの時期、日本研究のために滞在中で宮島と親交のあった黄遵憲も、宮島から日本の礼式祭典について詳細に尋ね、帰国後の名著『日本国志』執筆の一助としている。明治13年(1880年)8月、岩倉と面談した宮島は、折柄盛り上がっていた国会開設運動を憂慮していた岩倉に、かつての国憲編纂の事績を語り、岩倉からそれをまとめるよう依頼され、翌年5月「国憲編纂起原」として提出した。上記の明治初年の宮島による国憲編纂運動が知られるようになったのはこの資料によるものであり、明治初期の議会制研究の上で重要な資料となっている。 明治14年(1881年)に国会開設の詔が出されたことにより、翌明治15年(1882年)、参議・伊藤博文が憲法研究のためヨーロッパへ赴いた際には、伊藤の送別宴に出席。翌年帰国した伊藤に「伊藤参議に呈する書」と題する意見書を提出。日本独自の国情を踏まえた憲法制定という路線は伊藤と異なるものではなかったが、宮中からの介入ではなく内閣が主導する憲法制定を想定していた伊藤は、宮中に制度取調局を設置して自ら長官となり憲法制定を主導したため、宮島が憲法制定に参加することはできなかった。その後、宮島は参事院議官補、宮内省華族局、爵位局主事を歴任。明治29年(1896年)貴族院議員に任命された。明治44年(1911年)3月、死去。享年74。
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