立憲君主制期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 00:59 UTC 版)
「ムハンマド・アリー朝」の記事における「立憲君主制期」の解説
1914年、第一次世界大戦が勃発し、オスマン帝国がイギリスと敵対するドイツ・オーストリアら中央同盟国の側に参戦すると、イギリスはエジプトにおける権益を守るためにエジプトの保護国化を宣言、オスマン帝国の名目的主権からエジプトを離脱させた。 これによりエジプトは正式にイギリスの植民地となったが、大戦後の1919年には民族主義者による大規模な独立運動が起こった。独立は失敗に終わるが、保護国支配の限界を理解したイギリスは方針を転換し、1922年にエジプトの独立を認め、エジプト王国を成立させた。 しかしエジプトは独立を達成したとはいえ、イギリス人の保護や軍事、通信、運輸などの分野でイギリスの特別な権利が保留され、またエジプト経済のイギリスへの依存は依然として深く、独立はほとんど名目的なものに過ぎなかった。翌1923年に憲法が施行され、エジプトはムハンマド・アリー朝の国王を君主とする立憲君主制に移行する。これ以降のムハンマド・アリー朝は、ヨルダンやイラクのハーシム家と同じように、列強によってオスマン帝国に代わる中東の政治体制として成立させられたアラブ諸国体制において、イギリスの意向を受ける支配者側の体制として存続することとなった。 立憲君主制期のエジプトでは、1919年の独立運動時に独立を求めた民族主義運動派がサアド・ザグルールらを中心にワフド党を結成し、これと王党派およびムハンマド・アリー朝の王家との間の対立が政治を動かした。ワフド党はたびたび内閣を組閣して政権を担い、1936年には来るべき第二次世界大戦に備えてエジプトとの関係を改善したいイギリスとの間で同盟条約を結んでイギリス軍の駐留を縮小させることに成功した。しかしワフド党がこの条約でイギリスと妥協したことはイギリス支配の即時打破を目指す人々を失望させ、王制の打倒を含む革命をはかる急進勢力の誕生を促した[要出典]。
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