奥羽列藩への招請
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 01:15 UTC 版)
慶応4年3月23日、奥羽鎮撫総督府は仙台到着後、仙台藩に対し、強硬に会津藩討伐を催促し、仙台藩は会津藩境まで出兵したものの、本気で戦うつもりはなく、会津藩の謝罪歎願を奥羽鎮撫総督府に周旋するために、米沢藩とともに会津藩との交渉を優先していた。 再三に渡って、会津藩と降伏条件を交渉したが、謀主の首級は出せないという会津藩の態度は変わらず、これ以上の進展はないと見た仙台藩首脳は奥羽列藩重臣に参集を求め、列藩の力で会津の歎願を薩長政府に認めさせる戦略をとることになった。 そこで、閏4月4日仙台藩の家老但木土佐・坂英力、米沢藩の家老竹股美作・千坂太郎左衛門、四家老の名で「会津降伏謝罪の歎願申出あるに付、評議致したく、ついては重臣を白石陣所まで出張されたし。」という列藩会議への招請状を東北諸藩に発した。
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