地名記事について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 14:03 UTC 版)
風土記に記された播磨国内の地名は360例以上に及ぶ。記されているのは郡・里・村・山・川・原・野の他、墓・井・津・社などである。このうち里は81例あり、里の数が最も多いのは揖保郡の18里である。1里の人口は約1,000人と推定されており、揖保郡の人口は約18,000人であったことになる。明石郡・赤穂郡の記載が無いため、風土記編纂当時の播磨国全体の里数は不明であるが、『倭名類聚抄』から仮定すると95里程になり、人口は約100,000人となる。 地名の由来を記した記事には、○○なため□□と呼ばれるようになったというような簡潔なものから、時代が指定され、主人公が登場し、主格的に何かをなすというような説話的なもの、それらが連なって一つの説話を形成しているものまで様々である。 記事において人名などが記されるのは、主格となる場合と年代を指定するための場合があり、当風土記においては、神、天皇(皇族も含む)、人が説話の主格として記されている。このうち、神や天皇が主格的に関わった地名由来の記事は、この土地は由緒のある土地だと主張する意図をもって収録されたと考えられている。他の風土記では『出雲国風土記』は神に関する説話、『常陸国風土記』・『肥前国風土記』・『豊後国風土記』では天皇などの人間に関する説話を多く収録しており、播磨国風土記は両者の折衷といえる。 神が関わる地名記事では、神がその土地にいること自体が由来になったもの、神がその土地で何かをなす、例えば、何かを言う、物を落とす、他の神と土地の占有を争う、荒ぶる神として人の命を奪うというようなものが収録され、それらに因んだ地名であると説明している。登場する神は伊和大神など在地の神が多く見られる。天皇も権威ある存在として神と同じような描かれ方をするが、天皇は基本的に播磨を訪れた巡行の体である。巡行の際に何かを言う、物を落とす、国見をする、狩りをする、といった内容である。神の説話と天皇の説話には共通点があり、天皇に関する説話の中には巡行する神の伝承から変化したものもあると考えられている。 説話内容には地域的な偏りが見られ、大まかに見て播磨の南東部では天皇の名が記されている記事の割合が高く、北西部では神の名が記されている記事の割合が高い傾向がある。畿内に近い南東部ではヤマト王権に対する関心の高かったであろうこと、強い影響を受け発展したことなどが背景として考えられており、北西部においては朝廷の権威よりも播磨の独自性に重きを置く意識があったのであろうと考えられている。 上記のような内容の差に加え、記述の形式にも若干の地域的な差が見られる。これらの差異から、風土記における各郡は、賀古・印南・美嚢、飾磨・神前・託賀・賀毛、揖保・讃容・宍禾の三つのグループに分類される。この三地域の差が生まれた要因として二つの説がある。一つは令制国としての播磨国が成立する以前の、明石国、針間鴨国、針間国の各国造の勢力圏が関係しているのではないかというもので、その勢力圏の影響が風土記編纂の際に集められた伝承や資料に残っていたのではないかと考えている。もう一つの説は、採集された伝承や資料に原因があるのではなく、編纂する側の事情であろうというものである。加古川・市川・揖保川・千種川の各水系や街道などで繋がった関連性の強い地域毎に編集者を分担し、取りまとめた結果生まれた差であると考えるものである。 一般的な人物が登場するものとしては、役人が関わった記事、人・集団の移住に関する記事が収録されている。移住や交流の記事が比較的多いことも『播磨国風土記』の特徴の一つとされ、播磨国内の他地域や周辺諸国からの移住に関する記事や朝鮮半島からの記事もある。渡来に関する記述のほとんどは揖保郡・飾磨郡の記事であり、播磨国での渡来系の遺跡・出土物の多くがこの二郡を中心とした瀬戸内海沿岸の地域で見られることと傾向として一致している。ただし、具体的な里単位での一致はあまり見られていない。朝鮮半島関連で言えば、渡来神として描かれる天日鉾命に関する説話も渡来人を象徴的に語るものとされる。事実としてではなく神話として語っているのは、年月を経てその集団に播磨への土着性が生まれたためであると考えられている。
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