哲学における感覚とは? わかりやすく解説

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哲学における感覚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/25 02:27 UTC 版)

感覚」の記事における「哲学における感覚」の解説

カント純粋理性批判先験的感性論において、我々に表れる感覚全て時間空間形式において現れることに着目し、その形式があらかじめ我々の内に(彼の言葉言えばア・プリオリに)備わっていることを発見した感覚全て例外なく空間の中の何かある物の刺激によって、時間の中で、我々に生じるという性質持っている時間空間そもそもそれ自体が「認識形式であるから、それらは経験待たずして我々の内に備わっている。むしろ、それらの形式あればこそ初め感覚成立するのであるなぜならば時間形式持たない何らかの感覚空間形式持たない感覚と言ったものを具体的に想像することすら不可能であり、我々に認識される感覚はそれらの形式に従わざるを得ないからである。 視覚聴覚については実際そのように感覚空間形式に従って起きていることが誰でも自らの経験確認できる一方でカント具体的に述べているわけではないが、例え肉体内部腹痛頭痛のような自分体内起き感覚であっても頭部腹部といった空間内の具体的な場所に起きた感覚」として認識されるわけであるから感覚は必ず空間に従って発生することが分かる時間については「時間形式とらない感覚」というのは明らかに起こり得ず説明要しないであろう。これは人間感覚についてだけ当てはまるのではなく全ての動物といった神経細胞持ち感覚持っている生物にも言える。もし彼らが時間空間という認識形式有していないとすればが巣を作ったカマキリクモが餌を捕えるという活動不可能になろう。 以上のように、カントは、感覚時間空間形式によって「我々に与えられる」としたが、「先験的感性論」に続く「先験的論理学においては、その与えられ感覚に我々は思考によってカテゴリー呼ばれる12個の概念適用する、と説明している。このカテゴリー外延量内包量因果性可能性などを思考する抽象的概念であるが、実際のところ我々の経験本当にそのような手続き経ているのかは疑問が残るというのも、もしも抽象的概念適用による推論によって経験発生するであればそのような思考方式持たない動物には経験発生し得ない、という結論導かれるであろう例えば、人間トンボ捕まえようとすると逃げるが、トンボの眼に映るのは「単に空間形式をとって発生した現象」であり、網膜生じたその刺激が「外部からの原因によって発生したもの」という(無意識的な推論含まないことになる。従って、「逃げる」という行動起こす説明がつかなくなる。なぜなら原因性が「概念による思考作用」であるならば、動物といった概念による抽象的認識作用持たない生物にこれは不可能であることになるから、刺激外部客観)と関連づけることが発生しなくなり刺激対応して逃げる」という行動不可能になる。さらに、時間空間形式で「経験が我々に与えられる」という点については、具体的にどのようなプロセス経て感覚経験一般が我々に与えられるのかということについて、一切説明なされていない。 同じドイツの哲学者であるショーペンハウアーは、以上の難点について、主著意志と表象としての世界」の付録である「カント哲学批判」で吟味批判し概念一種であるカテゴリーによる認識否定し新たな説明を加えた。彼はカント先験的感性論については「人類最大叡智一つであり不朽の功績」であると絶賛しこれを受け入れているが、カント先見論理学述べたように「客観空間と時間の中でとにかく我々に与えられ、我々は思惟によって概念適用する」という点については全く見解異にし、この致命的な間違いは「主観無ければ客観存在しない」という真理カント受け入れなかったのが原因である、としている。彼の主張論旨大体において以下の通りである。 「経験が我々に与えられる」ためには、時間空間だけでは説明つかない例え網膜何らかの像が映ったとして、我々は必ず「空間のうちにある客観によって」発生していると認識している。もちろんこれは人間限らずもそうである。例え近づく逃げるが、網膜映った像は、網膜起きた単なる身体内部変化ではなく、「外部による刺激によって」生じたという推論無意識的適用されなければ、どうしても逃げるという行動起きえない。 このことから明らかなように、「~によって感覚発生する」という認識仕方は、既にその内に「因果関係」を推論する形式介入している。この形式カントの言うような抽象的な概念による推論ではなく時間空間と同様、経験経験として成立するための条件であり、我々を含む動物に共通の、認識一般生じさせるための条件である。つまり、カントが言うように、時間空間生じ経験はただ「与えられる」のではなく時間空間と同様、因果性適用される手続き経て初め認識一般生じのである言い換えると、感覚はそれ自体で我々に与えられるではなく知覚として認識可能な形式になって初め発生する感覚が「外部刺激受けて生じるものである」という説明仕方は、人間動物知覚機能とは独立して物が存在している、という考え方基づいている。つまり、認識作用よりも「先に」物が確固として存在していて、感覚は「後から」それを感受するのである。しかし、網膜鼓膜といった感覚器官刺激受容する機能は持つが、その刺激が「外部客観によって発生した」と因果性含みながら判断する機能は、認識作用である脳など神経系統に属す作用である。「外部によって感覚発生した」と見るのであれば、それは既に無意識的に(つまりカントの言うような抽象的思考推論ではなしに)因果関係感覚適用され後で初めて我々に認識可能な客観、つまり知覚として表れるということ意味している。我々は概念用いて物事説明した理解する際に必ず因果関係基づいて「~だから~である」というように思考を行うが、因果関係思考を行う神経系統の活動形式由来し、脳による思考というのは物事因果関係推測していく作業である。もちろん、動物このような抽象的思考をする能力持ってはいないが、感覚生じる際には人間同じく無意識的因果性感覚適用して初め感覚認識可能になる。もちろん、神経細胞発達度合いによって因果関係認識明瞭さ違ってくるという事情のために、羽虫が火に飛び込むということ起こりうるのであるが、無意識的感覚因果関係適用しているという点では共通である。 感覚に関する上の議論正しいとすれば神経系統を経て知覚される客観は「無意識的因果性設定する知覚機能によって生じたもの」であり、「認識作用から独立して物が外部客観として、感覚される事物それ自体存在している」という一般に広く浸透している考え方否定される。よって、全ての客観認識担い手である主観認識作用依存して成立しているという結論導かれる。以上が大体においてショーペンハウアー主張である。

※この「哲学における感覚」の解説は、「感覚」の解説の一部です。
「哲学における感覚」を含む「感覚」の記事については、「感覚」の概要を参照ください。

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