修道女として
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「アリス・オブ・バッテンバーグ」の記事における「修道女として」の解説
1947年4月、アリスはイギリスへ戻り、11月には海軍大尉となっていた息子フィリッポス(フィリップ・マウントバッテンと姓名を改め、英国国教会に改宗して、ギリシャ・デンマークの王位継承権を放棄した)と、ジョージ6世の後継者エリザベス王女(のちのエリザベス2世)の結婚式に出席した。アリスはバッテンベルク家の年長者として、ウェストミンスター寺院の北側に国王夫妻と向かい合って座った。この挙式には、国民の反ドイツ感情を考慮し、アリスの娘たちは招待されなかった。 1949年より、アリスは正教会の修道女として、看護をする修道女の組織を設立した。1953年に行われたエリザベス2世の戴冠式では、修道女の装いで出席した。 1967年4月、軍事クーデターが起こったのをきっかけに、アリスは息子夫婦の住むバッキンガム宮殿へ移り住んだ。同年12月、王党派のクーデターが失敗し、ギリシャ王コンスタンティノス2世夫妻は亡命した。 1969年12月、アリスはバッキンガム宮殿で亡くなった。遺言で、イスラエル・オリーヴ山の麓のゲッセマネにあるマグダラのマリア教会に埋葬して欲しいと言い残していた。墓を詣でるのに遠すぎるという親族の反対もあり、彼女の遺志がかなえられたのは、1988年のことだった。
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修道女として
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「ゲルベルガ・フォン・ザクセン」の記事における「修道女として」の解説
959年、ロテールが成年に達した後、ゲルベルガはソワソンにあるベネディクト会のノートルダム修道院の修道院長となった。それでも、ゲルベルガは政治活動を継続した。961年、ゲルベルガは新しいランス大司教にオダルリックを選出することに関与した。965年、ロテールがオットー1世の義理の娘エマ(オットー1世妃アーデルハイトの初婚の娘)と結婚するとき、ケルンの帝国宮廷に姿をあらわした。
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修道女として
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「ジュゼッピーナ・バキタ」の記事における「修道女として」の解説
1896年に修道誓願を宣立。1902年、カノッサ修道女会の修道女となったバキタは北イタリアのスキーオに配属され、残りの人生を過ごした。彼女が長期間スキーオを留守にしたのは1935年から1938年までのことで、この時期はイタリアのミラノに滞在し、アフリカで働く若い修道女たちの準備を手伝っていた。 スキーオで暮らした45年間、料理人、聖具室係、ポートレス(ドアの番人)として務め、地元のコミュニティと頻繁に連絡を取っていた。彼女の優しさ、穏やかな声、絶えない笑顔はよく知られるようになり、彼女は特別な献身と高潔さを持つと評判を得た。ヴィチェンツァ住民らは今も彼女を『ラ・ノストラ・マードレ・モレッタ』(La nostra madre moretta、私たちの小さな褐色の母)と呼ぶ。彼女は回顧録を書くこと、自身の経験を他人に話すことを命じられた。伝記の出版後、彼女はイタリア中で有名となった。最晩年、バキタは苦痛と病が著しかったが、彼女は朗らかさを保ち、何かを尋ねられるといつも笑みを浮かべて『主のお望みのままに』と答えた。死が迫ったとき、彼女の記憶は奴隷だった頃に逆戻りし、錯乱の中で『どうか鎖を外してください・・・重すぎるのです。』と叫んだ。彼女の最後の言葉は「マドンナ!マドンナ!」であった。
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修道女として
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「ハッケボルンのメヒティルト」の記事における「修道女として」の解説
10年後の1258年、メヒティルトは姉に続いて修道女となった。姉であるハッケボルンのゲルトルードはその時、彼女たちの兄弟であるルートヴィヒとアルブレヒトから譲られたヘルフタの土地に修道院を移し、その修道院長となっていた。メヒティルトは修道女として、謙遜と情熱において、すぐに他と際立つようになった。そして幼児期からの特徴だった、とても気立てが良い点、ほぼ一族の遺伝ともいえるその信仰の深さなどの点についても、他と際立っていた。 メヒティルトはきわめて若かった時期より修道院で指導的役割につくようになった。修道院学校長、聖歌隊指揮者、修練長を務め、これらの職務を才能と熱意をもって果たした。それは修道女たちのためだけでなく、自分の知恵といつくしみに触れたいと望むすべての人に役立つためでもあった。 メヒティルトは修道院において、図書館に関する業務、自身の文章をラテン語で記述する業務などに従事した。メヒティルトはたくさんの祈りを書き残している。 メヒティルトは信仰の教えと深い謙遜を教え、助言し、慰め、識別を指導した。そしてきわめて多くの祈りを書き、また教えた。『特別な恩寵の書』によるとその祈りをすべて集めるなら、一巻の詩編集を超える分量となるとする。 メヒティルトの書いた祈りは、神からの神秘的観想によるものとされる。神の言葉を聞くためにメヒティルトが行う説教の周りには、修道女が集まった。メヒティルトは人々の逃れ場・慰め手となった。また、人の心の秘密も思いのまま明らかにできる天恵も受けていたとも言われている。『特別な恩寵の書』によると、修道院内外の人々が、メヒティルトが自分たちを苦しみから解放してくれたこと、彼女のもとで得たほどの多くの慰めを受けたことがないことについて、証しているとする。 1261年には、修道院長より5歳の子供を、その面倒を慎重に見るようにと命じられた。その子供は後世、聖大ゲルトルードとして知られるようになる。メヒティルトは預けられた子供に霊的生活を教え、導いた。この子供は後に優れた弟子となったばかりでなく、メヒティルトの相談相手ともなった。1272年にはマクデブルクのメヒティルトもヘルフタの修道院に入った。
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