中世の財賀寺
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『縁起』によれば当初「鉢形ノ峯」山頂にあった堂宇が頽廃するに及び、征夷大将軍源頼朝が建久年中「今宮」に堂地を移し再建したとする。また、近世の地誌『三河刪補松』 は源範頼が三河守の時、鎌倉幕府の有力御家人で三河守護にもなった安達盛長が監督して造営した「三河七御堂」の一つとして財賀寺観音堂を挙げている。 中世財賀寺の活動を伝えるより確実な史料としては、岡崎市にある天台宗滝山寺に伝わる『滝山寺縁起』(14世紀初頭成立、近世の写本が伝存)が挙げられる。それによると、嘉禄元年(1225年)の滝山寺本堂再建の落成供養の請僧として、船形寺(現在の普門寺 (豊橋市))や鳳来寺(新城市)と並んで財賀寺大音坊が記され、これら当時有力な顕密寺院の間で交流があったことが知られる。 12世紀末には背後の観音山山頂に観音山経塚が築かれたほか、旧境内からは鎌倉時代後期の密教法具の銅製飲食器(おんじきき) も出土するなど、平安時代末から鎌倉時代にかけての財賀寺の隆盛は出土品からも窺われる。そして、12世紀代の経塚造営に始まる財賀寺旧境内の中世墓群の展開は、かつて出土した多数の蔵骨器や石塔の年代などから、戦国期までその造営が継続していたと推定され、東谷を中心とする中世墓群の規模の大きさから、当時、財賀寺が納骨供養を旨とする霊地・霊場であった可能性も指摘されている。 南北朝~室町時代では康暦2年(1380年)の豊川市白鳥神社所蔵大般若経、応永2年(1395年)の石巻神社所蔵大般若経にそれぞれ財賀寺内の坊で書写されたものが含まれるほか、寺蔵の大般若経には応永12、13、27年に書写されたものが含まれる。先述の『滝山寺縁起』にある「財賀寺大音坊」に加え、これらの大般若経奥書には「財賀寺東谷得明坊」「財賀寺西谷慈親坊」といった表現が見られることから、西谷・東谷といった「谷」組織と多数の坊院群が存在していたことが窺え、これは同時期の真福寺 (岡崎市)などと同様、中世山寺の山内組織を示す一例と考えられている。 なお現在、財賀寺は高野山真言宗に属し、『縁起』にも弘法大師による中興が説かれるが、嘉慶元年(1387年)の「葛川惠光院文書某証文」の中に「山門惠光院末寺三河國財賀寺」との記載があり、山門とは比叡山延暦寺を指すことから、この当時、財賀寺は天台宗寺院であったと考えられている。このことは、同寺に現存する宝冠阿弥陀如来坐像(平安末~鎌倉初、愛知県指定文化財)が天台宗常行三昧堂の本尊の形式であることからも窺える。 永禄3年(1560年)に財賀寺の寺領と権限を安堵した今川氏真判物によれば、「八幡供僧国分寺供僧七仏供僧一宮供僧惣社供僧稲束供僧平尾山王供僧」が財賀寺の所属とされている。供僧とは寺院において神仏に供奉(給仕)する僧を指し、住坊や田畑を持つことが許されていた。中世後期には、財賀寺からこうした供僧が諸施設に派遣されたか、坊院に所属する僧がこうした諸施設の供僧を兼ねていたと推定され、当時の東三河平野部の豊川右岸域において財賀寺が一定の宗教的な勢力を保持した証と考えられる。加えて、一宮(砥鹿神社)や国分寺(十六世紀初頭に再興された三河国分寺)、八幡宮、総社とのつながりから、中世後期に三河牧野氏を有力檀越に迎える以前の財賀寺には、近在の国衙勢力が関与していた可能性も指摘されている。
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