中世の財賀寺とは? わかりやすく解説

中世の財賀寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 04:22 UTC 版)

財賀寺」の記事における「中世の財賀寺」の解説

縁起によれば当初鉢形ノ峯」山頂にあった堂宇頽廃するに及び、征夷大将軍源頼朝建久年中今宮」に堂地を移し再建したとする。また、近世地誌三河刪補』 は源範頼三河守の時、鎌倉幕府の有力御家人三河守護にもなった安達盛長監督して造営した三河七御堂」の一つとして財賀寺観音堂挙げている。 中世財賀寺活動伝えるより確実な史料としては、岡崎市にある天台宗滝山寺に伝わる『滝山寺縁起』(14世紀初頭成立近世写本伝存)が挙げられる。それによると、嘉禄元年1225年)の滝山寺本堂再建落成供養請僧として、船形寺(現在の普門寺 (豊橋市))や鳳来寺(新城市)と並んで財賀寺大音坊が記され、これら当時有力な顕密寺院の間で交流があったことが知られる12世紀末には背後観音山山頂観音山経塚築かれたほか、旧境内からは鎌倉時代後期密教法具銅製飲食器(おんじきき) も出土するなど、平安時代末から鎌倉時代にかけての財賀寺隆盛出土品からも窺われる。そして、12世紀代の経塚造営に始まる財賀寺旧境内中世墓群の展開は、かつて出土した多数蔵骨器石塔年代などから、戦国期までその造営継続していたと推定され東谷中心とする中世墓群の規模の大きさから、当時財賀寺納骨供養旨とする霊地霊場であった可能性指摘されている。 南北朝室町時代では康暦2年1380年)の豊川市白鳥神社所蔵大般若経応永2年1395年)の石巻神社所蔵大般若経それぞれ財賀寺内の坊で書写されたものが含まれるほか、寺大般若経には応永121327年書写されたものが含まれる先述の『滝山寺縁起』にある「財賀寺大音坊」に加え、これらの大般若経奥書には「財賀寺東谷得明坊」「財賀寺西谷慈親坊」といった表現見られることから、西谷東谷といった「谷」組織多数坊院群が存在していたことが窺え、これは同時期の真福寺 (岡崎市)などと同様、中世山寺山内組織を示す一例考えられている。 なお現在、財賀寺高野山真言宗属し、『縁起』にも弘法大師による中興説かれるが、嘉慶元年1387年)の「葛川惠光院文書証文」の中に山門惠光院末寺三河國財賀寺」との記載があり、山門とは比叡山延暦寺を指すことから、この当時財賀寺天台宗寺院であった考えられている。このことは、同寺に現存する宝冠阿弥陀如来坐像(平安末~鎌倉初、愛知県指定文化財)が天台宗常行三昧堂本尊形式であることからも窺える永禄3年1560年)に財賀寺寺領権限安堵した今川氏真判物によれば、「八幡供僧国分寺供僧七仏供僧一宮供僧惣社供僧稲束供僧平尾山供僧」が財賀寺所属とされている。供僧とは寺院において神仏供奉(給仕)する僧を指し、住坊や田畑を持つことが許されていた。中世後期には、財賀寺からこうした供僧諸施設派遣されたか、坊院所属する僧がこうした諸施設供僧兼ねていたと推定され当時東三河平野部豊川右岸域において財賀寺一定の宗教的な勢力保持した証と考えられる加えて一宮砥鹿神社)や国分寺十六世紀初頭再興され三河国分寺)、八幡宮総社とのつながりから、中世後期三河牧野氏を有力檀越迎え以前財賀寺には、近在国衙勢力関与していた可能性指摘されている。

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