中世の金融
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 07:21 UTC 版)
利子付の貸借を利銭や借銭と呼び、債権者は銭主、債務者は負人や借主と呼ばれた。12世紀から13世紀にかけては借上と呼ばれる金融業者が活動して、13世紀以降は土倉や酒屋が現れた。借上や土倉の経営は、荘園の代官請負が基盤であり、初期の金融は副業的なものだった。荘園の領主が、幕府や守護から課せられる負担や自然環境の悪化により破綻すると、荘園領主が担っていた地方金融も崩壊した。このため地方の借り入れ需要は都市部の土倉が受け入れ、祠堂銭という外部からの資金運用も行われる。14世紀には京都の土倉は300から400軒が営業しており、荘園経営ではなく金融業が主軸となって身分も上がるが、15世紀には都市部の債権者と地方の債務者という格差が拡大した。室町幕府が衰退するまでは、そうした業者が徴税委託機関である納銭方も行って利益を得た。当時の利率は年利6割や7割2分が多く、それ以上の場合もあった。債務証書の一種として借書があり、債権者が寺社に寄進したり、債権者が財産を没収された際には借書が第三者に寄進されていた。相互扶助的な金融としては、頼母子や無尽と呼ばれる方法があった。月に一度の頻度で参加者が現金を持ち寄り、くじなどの抽選で当たった者が集まった現金を総取りする。一度総取りをした者も継続して参加することが必要で、地域の信頼関係に基づいていた。 手形 代銭納によって金属貨幣や商品流通が増えると、金属貨幣よりも軽量で迅速な取り引き方法が求められるようになった。鎌倉時代からは、年貢を運ぶ手間を省略するために為替(かわし)や割符という手形が用いられるようになり、室町時代からの割符は商業取引にも流通した。決済されるものに応じて、替銭や替米とも呼ばれた。割符は京都や畿内近国で多く用いられ、現地で銭に換金できた。1個で10貫文(現在の約100万円相当)と5貫文という高額のものが多く定額の割符が通用しており、本来なら1回の個別送金用である替銭と区別する記述も見られる。このため、割符には不特定の人々のあいだで流通して紙幣に近い機能を持っていたという説もある。割符が近世の為替手形と異なる点としては、本店と支店間のようなネットワークは存在していなかった。現地で現金を融通する利息附替銭もあり、京都や大津の商人が主に利用した。利息附替銭は現地で現金を借りるときに割符や替銭を使い、京都で返済するという方法が取られた。初期の為替手形については、伊勢に参詣する信徒が利用した記録がある。地方の信徒は地元で為替手形を振り出してもらい、伊勢に行って換金をしていた。 徳政令 鎌倉時代から室町時代にかけて御家人の債務問題が深刻となると、土地の返還や債務免除を行う徳政令が出された。鎌倉幕府による御家人救済の債務廃棄として徳政令が出され、室町時代に入ると徳政を要求する人々によって徳政一揆も起き、金融業者が標的とされた。前述の債権者と債務者による経済格差も、債務廃棄を求める人々による徳政一揆の原因となった。
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