プロレス転向後とは? わかりやすく解説

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プロレス転向後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 07:23 UTC 版)

坂口征二」の記事における「プロレス転向後」の解説

1967年旭化成工業退職して日本プロレス入団2月17日赤坂ホテルニューオータニにて入団発表行い、同夜にハワイでの特訓出発したほどなくしてアメリカ合衆国本土への武者修行敢行デビュー翌月9月20日にはロサンゼルスにてカール・ゴッチ相手時間切れ引き分けその後NWAの主要テリトリー転戦してビッグ・サカ」などのリングネーム活動ジョージアではジョニー・バレンタイントロントではザ・シークダラスではビル・ミラーカンザスシティではパット・オコーナーなど、各地トップスター対戦したタッグでは、アマリロではパク・ソンとの大型東洋人コンビ活躍、セントラル・ステーツ地区ではトーア・カマタとも組んでいる。 武者修行からの凱旋帰国後は、ジャイアント馬場アントニオ猪木に次ぐスターとなった1971年には猪木とのコンビ第2回NWAタッグ・リーグ戦優勝その後1971年12月猪木追放に伴い猪木代役として12月9日ドリー・ファンク・ジュニアNWA世界ヘビー級王座挑戦、好勝負を残す。さらに、猪木保持していたUNヘビー級王座1972年2月11日獲得途中9月6日シーク王座奪われる翌日には奪回ハーリー・レイスベポ・モンゴルワルドー・フォン・エリックジン・キニスキーらの挑戦退けたまた、猪木代わる馬場パートナーとしてタッグチーム東京タワーズ」を結成し1972年5月19日ロサンゼルスにてザ・ファンクスからインターナショナル・タッグ王座奪取以降ボボ・ブラジル&ボビー・ダンカンキラー・コワルスキー&ムース・ショーラックなどのチーム相手防衛続けたが、ほどなくして馬場離脱それ以降日本プロレスエースとなったインターナショナル・タッグ王座は一旦返上するが、12月2日大木金太郎とのコンビキニスキー&ブラジル破り再び戴冠した同年末頃より、NET(のちのテレビ朝日)の斡旋日本プロレス新日本プロレス合併画策するが、大木日本プロレス選手会反対のために果たせず、バレンタイン敗れUN王座から陥落後の1973年4月猪木と全く対等条件という約束で、若手木村聖裔、小沢正志大城勤を連れて新日本プロレス移籍したNETは、坂口合流条件テレビ中継(『ワールドプロレスリング』)を開始テレビ放送がなく観客動員苦しみ倒産時間の問題と言われ新日本プロレス救世主となり、猪木とのタッグチームは「黄金コンビ」と呼ばれた1974年8月16日猪木とのコンビクルト・フォン・ヘス&カール・フォン・ショッツ破りNWA北米タッグ王座獲得米国日本で計4度目挑戦での戴冠だった。その後、この王座ストロング小林長州力パートナー替えて保持する。特に小林との「パワー・ファイターズ」では多く強豪チーム撃破した。しかし、1973年NWF世界ヘビー級王者となっていた猪木とは明確な差がつき、坂口2番手として猪木サポートする側に回るようになる1976年ペドロ・モラレス1977年マスクド・スーパースター下して2年連続ワールドリーグ戦優勝するが、いずれも猪木欠場しており、強い印象残していない。シングル王座保持していなかったため、猪木比べる名勝負といわれるものは少ないが、1975年ワールドリーグ戦メインイベントでの、大木との日本プロレス末期因縁絡んだ壮絶な喧嘩マッチ伝説となっている。また、1976年10月には南アフリカ共和国遠征し同地エースだったジャン・ウィルキンスからEWU世界スーパーヘビー級王座奪取翌月奪還され短命王者終わったものの、日本プロレス以来となるシングル王座および初の世界タイトル戴冠果たしている。1978年2月8日には日本武道館にて、スーパースター・ビリー・グラハム保持していたWWWFヘビー級王座挑戦したが、リングアウト負けして、王座奪取はならず。。 1979年1月26日ジョニー・パワーズ破りNWF北米ヘビー級王座獲得新日本プロレス合流後6年経て、ようやく団体内のシングル王者となり、上田馬之助、クレージー・レロイ・ブラウン、タイガー・ジェット・シンマスクド・スーパースターらと防衛戦行った。この王座同年9月21日シン敗れて失うが、直後11月8日にはパット・パターソン保持していたWWF北米ヘビー級王座奪取その後シンとの王座統一戦が噂されたが実現せずバッドニュース・アレンラリー・シャープ上田ジ・エンフォーサードン・ムラコなどを相手防衛重ねた。このシングルタッグ北米二冠1981年4月IWGP参戦のため返上その後時に存在感を示すこともあったが、概ね一歩退いたポジション身を置くうになる1985年IWGP王座決定トーナメント藤波辰巳敗れ名実共に二番手の座を譲り渡した。しかし、リング上とは異なり、「偉い順番から前に乗ると言われ巡業バスで一番前に(猪木は少し離れて二番目に)乗る姿が目撃されており、当時リングアナウンサーだった田中秀和も、出演したラジオ番組著書そのこと認めている。 1989年新日本プロレス社長に就任その後セミリタイアとなるが、1990年3月15日社長業専念するため地元久留米にて現役引退、かつての付き人だった木村健悟組んでスコット・ホール&コーポラル・マイク・カーシュナー戦が引退試合となった以降社長として東京ドーム興行や「G1 CLIMAX」など数々ビッグイベント成功させ、前社長アントニオ猪木作った借金完済した。後に藤波社長職を譲り会長退きCEO経て相談役務めている。 1992年3月1日横浜アリーナにて開催され新日本プロレス設立20周年記念大会企画として、小林との「パワー・ファイターズ」を再結成してシン&上田とのエキシビション・マッチ出場した2005年10月には、自らが主宰する坂口道場」(後に長男征夫禅譲)をオープンさせ、後進の指導当たっている。 2003年には、高山善廣との遺恨発生し13年ぶりに限定リング復帰9月14日蝶野正洋組んで高山&真壁伸也対戦10月13日にも高山率いる真猪木軍との5対5イリミネーションマッチに出場した。両試合胴着姿で出場しセコンドには次男坂口憲二がついた。 2017年2月現役時代からの古傷であった右肘尺骨悪化により箸や筆が持てなくなったことから入院手術受けた。肘の手自体成功したその際患部細菌入ったことによる感染症罹患してしまい、更に1ヶ月入院して治療受けたことを明らかにしている。坂口本人によると「入院中に体重が13kg減るなどしてヨレヨレになったとのことで、次男の憲二がステッキプレゼントしてくれたが、内心「こんなもん使えるか!」と立腹したという。

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プロレス転向後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 13:42 UTC 版)

ジョン・テンタ」の記事における「プロレス転向後」の解説

相撲廃業後すぐにプロレス入り噂され1986年7月4日新日本プロレス、翌5日全日本プロレス興行連日来場新日本ワールドプロレスリング中継では、アントニオ猪木握手する姿が生放送されるなど歓迎ムードであったのに対し全日本来場した際はジャイアント馬場との接触もなく、あっさりしたものであったという。しかし、7月10日全日本がテンタの入団発表。この経緯には様々な説があるが、プロレスマスコミは「両団体天秤かけられるとはプロレスなめられたものだ」という旨の皮肉をこめた記事書いている。 テンタのプロレス入りを受け、相撲界に迷惑をかけて脱走し廃業したテンタが両国国技館大手を振って力士教育に悪いという観点から、日本相撲協会1986年11月より全日本両国国技館使用禁止通達1986年10月21日最後に2004年7月18日まで全日本両国国技館大会をおこなうことはなかった。両国国技館使用禁止は、同年4月輪島大士プロレス入りをしたのも大きい。 デビュー戦1987年5月1日ジャイアント馬場タッグ組んでラッシャー木村&鶴見五郎対戦した。このデビュー戦のリングコスチュームとシューズ天龍源一郎からプレゼントされた。同年9月には地元ブリティッシュコロンビア州バンクーバーUWAヘビー級王座を、11月には同カナディアン・ヘビー級王座獲得している。 全日本在籍時の1987年には「世界最強タッグ決定リーグ戦」にも参加。テンタのパートナーアメリカで実績豊富なザ・グレート・カブキ務めた。この時期全日本参戦していたブルーザー・ブロディはテンタと対戦した際、テンタが持つアマレス仕込み基礎相撲で培った瞬発力見抜き週刊プロレス記者に「いい選手入ったな。俺とアイツシングルマッチで客が呼べる日も近いぜ」と漏らし、テンタのプロレスラーとして素質高く評価していた。 1989年よりWWF参戦し当初はカナディアン・アースクエイク、後にアースクエイクEarthquake)のリングネームヒールとして活躍マネージャージミー・ハートパートナーにはディノ・ブラボー迎えハルク・ホーガンアルティメット・ウォリアー抗争した。1991年からはタイフーンと「ナチュラル・ディザスターズ」なる超大型タッグチーム結成リージョン・オブ・ドゥームとも激闘展開した1991年には当時WWF提携していたSWSにも参戦その際北尾光司対戦するが、2度目シングル戦が後に語られる不穏試合となった試合内容北尾開始当初から組み合わずに危険行為繰り返し、何とかテンタはプロレスをしようとする中盤からヒートアップ逆に北尾投げ飛ばすなど押す展開となる。結果としてテンタに手出しできない北尾試合中レフェリー蹴り反則負けを宣せられた。敗北後リング降り手にしたマイク北尾は「八百長野郎この野郎!!八百長ばっかりやりやがって!」と発言。さらに観客向かってお前ら、こんなもの見て面白いのか!」と叫ぶなど、非常に後味の悪い結果となった。また控室にいた船木誠勝は、北尾その後さらに当時SWS社長夫人暴言吐き椅子投げつけたと後日証言している。北尾とは1994年再戦するが、互い終始いきり立つ展開となって呆気ない幕切れとなるなど後味悪さ払拭できなかった。 1992年からはベビーフェイス転向し7月タイフーンとのコンビテッド・デビアスIRSのマネー・インコーポレーテッドからWWF世界タッグ王座奪取したその後ヨコズナとの相撲マッチなども行うが、1993年WWF離脱する1994年からはWCWにジ・アバランシュ(The Avalanche)として参戦ケビン・サリバンのダンジョン・オブ・ドゥームに加入し前年WCW移籍していたハルク・ホーガンとの抗争再開するWCWではザ・シャーク(The Shark)とも名乗り、後に本名ジョン・テンタ名義1997年上期まで在籍するが、WWF時代ほど活躍機会には恵まれなかった。 その間1990年代中頃から後期にかけて、日本ではWAR新日本プロレスUWFインターナショナルなどに参戦している。 1998年からは再度WWF登場マスク被り覆面レスラーゴルガ(Golga)に変身しクルガンジャイアント・シルバとの怪物軍団ヒューマン・オディティーズ」で活躍するも、1999年解雇されるその後ヨーロッパで活動するが、セミリタイア態となりフロリダ州サンフォードでプロレスリング・スクールを運営していた。 2001年4月WWFレッスルマニアX-Seven行われたギミック・バトルロイヤルにアースクエイクとして出場2002年からは新体制になった全日本プロレス登場。主に天龍源一郎とのタッグ活躍したが、2004年体調不良機に現役引退2006年6月7日フロリダ膀胱癌のため42歳若さ死去

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