プロレス転向後
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1967年、旭化成工業を退職して日本プロレスに入団。2月17日に赤坂のホテルニューオータニにて入団発表を行い、同夜にハワイでの特訓に出発した。 ほどなくしてアメリカ合衆国本土への武者修行を敢行、デビュー翌月の9月20日にはロサンゼルスにてカール・ゴッチを相手に時間切れ引き分け。その後もNWAの主要テリトリーを転戦して「ビッグ・サカ」などのリングネームで活動。ジョージアではジョニー・バレンタイン、トロントではザ・シーク、ダラスではビル・ミラー、カンザスシティではパット・オコーナーなど、各地でトップスターと対戦した。タッグでは、アマリロではパク・ソンとの大型東洋人コンビで活躍、セントラル・ステーツ地区ではトーア・カマタとも組んでいる。 武者修行からの凱旋帰国後は、ジャイアント馬場とアントニオ猪木に次ぐスターとなった。1971年には猪木とのコンビで第2回NWAタッグ・リーグ戦に優勝。その後、1971年12月の猪木追放に伴い、猪木の代役として12月9日にドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に挑戦、好勝負を残す。さらに、猪木が保持していたUNヘビー級王座を1972年2月11日に獲得、途中、9月6日にシークに王座を奪われるも翌日には奪回、ハーリー・レイス、ベポ・モンゴル、ワルドー・フォン・エリック、ジン・キニスキーらの挑戦を退けた。また、猪木に代わる馬場のパートナーとしてタッグチーム「東京タワーズ」を結成し、1972年5月19日にロサンゼルスにてザ・ファンクスからインターナショナル・タッグ王座を奪取。以降、ボボ・ブラジル&ボビー・ダンカン、キラー・コワルスキー&ムース・ショーラックなどのチームを相手に防衛を続けたが、ほどなくして馬場も離脱、それ以降日本プロレスのエースとなった。インターナショナル・タッグ王座は一旦返上するが、12月2日に大木金太郎とのコンビでキニスキー&ブラジルを破り再び戴冠した。 同年末頃より、NET(のちのテレビ朝日)の斡旋で日本プロレスと新日本プロレスの合併を画策するが、大木ら日本プロレス選手会の反対のために果たせず、バレンタインに敗れUN王座から陥落後の1973年4月、猪木と全く対等の条件という約束で、若手の木村聖裔、小沢正志、大城勤を連れて新日本プロレスに移籍した。NETは、坂口合流を条件にテレビ中継(『ワールドプロレスリング』)を開始。テレビ放送がなく観客動員に苦しみ倒産も時間の問題と言われた新日本プロレスの救世主となり、猪木とのタッグチームは「黄金コンビ」と呼ばれた。 1974年8月16日、猪木とのコンビでクルト・フォン・ヘス&カール・フォン・ショッツを破り、NWA北米タッグ王座を獲得。米国と日本で計4度目の挑戦での戴冠だった。その後、この王座はストロング小林、長州力とパートナーを替えて保持する。特に小林との「パワー・ファイターズ」では多くの強豪チームを撃破した。しかし、1973年にNWF世界ヘビー級王者となっていた猪木とは明確な差がつき、坂口は2番手として猪木をサポートする側に回るようになる。 1976年にペドロ・モラレス、1977年にマスクド・スーパースターを下して2年連続でワールドリーグ戦に優勝するが、いずれも猪木が欠場しており、強い印象は残していない。シングル王座を保持していなかったため、猪木と比べると名勝負といわれるものは少ないが、1975年のワールドリーグ戦メインイベントでの、大木との日本プロレス末期の因縁の絡んだ壮絶な喧嘩マッチは伝説となっている。また、1976年10月には南アフリカ共和国に遠征し、同地のエースだったジャン・ウィルキンスからEWU世界スーパーヘビー級王座を奪取。翌月に奪還され短命王者で終わったものの、日本プロレス以来となるシングル王座および初の世界タイトル戴冠を果たしている。1978年2月8日には日本武道館にて、スーパースター・ビリー・グラハムが保持していたWWWFヘビー級王座に挑戦したが、リングアウト負けして、王座奪取はならず。。 1979年1月26日、ジョニー・パワーズを破りNWF北米ヘビー級王座を獲得。新日本プロレス合流後6年を経て、ようやく団体内のシングル王者となり、上田馬之助、クレージー・レロイ・ブラウン、タイガー・ジェット・シン、マスクド・スーパースターらと防衛戦を行った。この王座は同年9月21日にシンに敗れて失うが、直後の11月8日にはパット・パターソンが保持していたWWF北米ヘビー級王座を奪取。その後、シンとの王座統一戦が噂されたが実現せず、バッドニュース・アレン、ラリー・シャープ、上田、ジ・エンフォーサー、ドン・ムラコなどを相手に防衛を重ねた。このシングルとタッグの北米二冠も1981年4月にIWGP参戦のため返上。その後は時に存在感を示すこともあったが、概ね一歩退いたポジションに身を置くようになる。 1985年のIWGP王座決定トーナメントで藤波辰巳に敗れ、名実共に二番手の座を譲り渡した。しかし、リング上とは異なり、「偉い順番から前に乗る」と言われた巡業バスで一番前に(猪木は少し離れて二番目に)乗る姿が目撃されており、当時リングアナウンサーだった田中秀和も、出演したラジオ番組や著書でそのことを認めている。 1989年、新日本プロレスの社長に就任。その後はセミリタイアとなるが、1990年3月15日、社長業に専念するため地元の久留米にて現役を引退、かつての付き人だった木村健悟と組んでのスコット・ホール&コーポラル・マイク・カーシュナー戦が引退試合となった。以降、社長として東京ドーム興行や「G1 CLIMAX」など数々のビッグイベントを成功させ、前社長のアントニオ猪木が作った借金を完済した。後に藤波に社長職を譲り会長に退き、CEOを経て相談役を務めている。 1992年3月1日、横浜アリーナにて開催された新日本プロレス設立20周年記念大会の企画として、小林との「パワー・ファイターズ」を再結成してシン&上田とのエキシビション・マッチに出場した。 2005年10月には、自らが主宰する「坂口道場」(後に長男の征夫に禅譲)をオープンさせ、後進の指導に当たっている。 2003年には、高山善廣との遺恨が発生し、13年ぶりに限定リング復帰。9月14日に蝶野正洋と組んで高山&真壁伸也と対戦、10月13日にも高山率いる真猪木軍との5対5イリミネーションマッチに出場した。両試合胴着姿で出場し、セコンドには次男の坂口憲二がついた。 2017年2月に現役時代からの古傷であった右肘尺骨の悪化により箸や筆が持てなくなったことから入院・手術を受けた。肘の手術自体は成功したがその際に患部に細菌が入ったことによる感染症に罹患してしまい、更に1ヶ月入院して治療を受けたことを明らかにしている。坂口本人によると「入院中に体重が13kg減るなどしてヨレヨレになった」とのことで、次男の憲二がステッキをプレゼントしてくれたが、内心「こんなもん使えるか!」と立腹したという。
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プロレス転向後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 13:42 UTC 版)
相撲廃業後すぐにプロレス入りが噂され、1986年7月4日の新日本プロレス、翌5日の全日本プロレスの興行に連日来場。新日本のワールドプロレスリング中継では、アントニオ猪木と握手する姿が生放送されるなど歓迎ムードであったのに対し、全日本に来場した際はジャイアント馬場との接触もなく、あっさりしたものであったという。しかし、7月10日に全日本がテンタの入団を発表。この経緯には様々な説があるが、プロレスマスコミは「両団体が天秤にかけられるとはプロレスもなめられたものだ」という旨の皮肉をこめた記事を書いている。 テンタのプロレス界入りを受け、相撲界に迷惑をかけて脱走して廃業したテンタが両国国技館で大手を振っては力士の教育に悪いという観点から、日本相撲協会は1986年年11月より全日本の両国国技館使用禁止を通達。1986年10月21日を最後に2004年7月18日まで全日本は両国国技館大会をおこなうことはなかった。両国国技館使用禁止は、同年4月に輪島大士がプロレス入りをしたのも大きい。 デビュー戦は1987年5月1日、ジャイアント馬場とタッグを組んで、ラッシャー木村&鶴見五郎と対戦した。このデビュー戦のリングコスチュームとシューズは天龍源一郎からプレゼントされた。同年9月には地元ブリティッシュコロンビア州のバンクーバーでUWAヘビー級王座を、11月には同カナディアン・ヘビー級王座を獲得している。 全日本在籍時の1987年には「世界最強タッグ決定リーグ戦」にも参加。テンタのパートナーはアメリカでの実績が豊富なザ・グレート・カブキが務めた。この時期、全日本に参戦していたブルーザー・ブロディはテンタと対戦した際、テンタが持つアマレス仕込みの基礎と相撲で培った瞬発力を見抜き、週刊プロレスの記者に「いい選手が入ったな。俺とアイツのシングルマッチで客が呼べる日も近いぜ」と漏らし、テンタのプロレスラーとしての素質を高く評価していた。 1989年よりWWFに参戦し、当初はカナディアン・アースクエイク、後にアースクエイク(Earthquake)のリングネームでヒールとして活躍。マネージャーにジミー・ハート、パートナーにはディノ・ブラボーを迎え、ハルク・ホーガンやアルティメット・ウォリアーと抗争した。1991年からはタイフーンと「ナチュラル・ディザスターズ」なる超大型タッグチームを結成、リージョン・オブ・ドゥームとも激闘を展開した。 1991年には当時WWFと提携していたSWSにも参戦。その際に北尾光司と対戦するが、2度目のシングル戦が後に語られる不穏試合となった。試合内容は北尾が開始当初から組み合わずに危険行為を繰り返し、何とかテンタはプロレスをしようとするも中盤からヒートアップ。逆に北尾を投げ飛ばすなど押す展開となる。結果としてテンタに手出しできない北尾が試合中にレフェリーを蹴り反則負けを宣せられた。敗北後、リングを降り手にしたマイクで北尾は「八百長野郎この野郎!!八百長ばっかりやりやがって!」と発言。さらに観客に向かって「お前ら、こんなもの見て面白いのか!」と叫ぶなど、非常に後味の悪い結果となった。また控室にいた船木誠勝は、北尾がその後さらに当時のSWS社長夫人に暴言を吐き椅子を投げつけたと後日証言している。北尾とは1994年に再戦するが、互いが終始いきり立つ展開となって呆気ない幕切れとなるなど後味の悪さは払拭できなかった。 1992年からはベビーフェイスに転向し、7月にタイフーンとのコンビでテッド・デビアスとIRSのマネー・インコーポレーテッドからWWF世界タッグ王座を奪取した。その後はヨコズナとの相撲マッチなども行うが、1993年にWWFを離脱する。 1994年からはWCWにジ・アバランシュ(The Avalanche)として参戦。ケビン・サリバンのダンジョン・オブ・ドゥームに加入し、前年にWCWに移籍していたハルク・ホーガンとの抗争を再開する。WCWではザ・シャーク(The Shark)とも名乗り、後に本名のジョン・テンタ名義で1997年上期まで在籍するが、WWF時代ほど活躍の機会には恵まれなかった。 その間、1990年代中頃から後期にかけて、日本ではWAR、新日本プロレス、UWFインターナショナルなどに参戦している。 1998年からは再度WWFに登場。マスクを被り覆面レスラーのゴルガ(Golga)に変身し、クルガンやジャイアント・シルバとの怪物軍団「ヒューマン・オディティーズ」で活躍するも、1999年に解雇される。その後はヨーロッパで活動するが、セミリタイア状態となりフロリダ州サンフォードでプロレスリング・スクールを運営していた。 2001年4月、WWFのレッスルマニアX-Sevenで行われたギミック・バトルロイヤルにアースクエイクとして出場。2002年からは新体制になった全日本プロレスに登場。主に天龍源一郎とのタッグで活躍したが、2004年、体調不良を機に現役を引退。 2006年6月7日、フロリダで膀胱癌のため42歳の若さで死去。
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