UWFインターナショナル
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UWFインターナショナル(ユー・ダブリュー・エフ・インターナショナル)は、かつて存在した日本のプロレス団体。正式名称はユニオン・オブ・プロフェッショナル・レスリング・フォース・インターナショナル。略称はUインター(ユー・インター)。
概要
1991年1月、選手会主体で再発足した第2次UWFであったが経営方式を巡って所属選手とフロントの対立が原因で解散したことで高田延彦が設立。5月10日、後楽園ホールで旗揚げ戦を開催。
第2次UWFでは前田日明に次ぐポジションであった高田を絶対エースに据えて「プロレスこそ最強」を標榜してゲーリー・オブライトの発掘と躍進[1]、元WBCヘビー級王者のトレバー・バービックとの異種格闘技戦、元横綱の北尾光司の参戦、新日本プロレスとの合同興行「激突!!新日本プロレス対UWFインターナショナル全面戦争」など様々な仕掛けで人気を博していた。
しかし、後述するように他団体に対して常に挑発的なスタンスを取っていたため、他団体の選手からの批判が起きてファンが抱くマイナスイメージも少なく無く、良くも悪くも数多くの話題を提供していた。
特色
第2次UWFから分かれたプロフェッショナルレスリング藤原組とリングスを比較するとUインターはプロレス回帰の姿勢を打ち出してUWFの象徴であったカール・ゴッチとは一線を引き、ルー・テーズ、ビル・ロビンソン、ダニー・ホッジが最高顧問に就任、タッグマッチ(「ダブルバウト」と呼称)の採用が挙げられる。
しかし、後述のルールでもわかるように試合内容は従来のUWFスタイルを踏襲して「プロレスこそ最強の格闘技である」、「プロレスラーは現実に強くあらねばならない」との理念の元で本場のタイからムエタイ選手を招聘したりレスリングのコーチも雇うなど練習環境は格闘技を実践するためのものだった。それを裏付けるようにUインターの解散後は元所属選手の多くは総合格闘技のリングに上がっている。
外国人選手の招聘に関してはUWF時代の招聘ルートは藤原組、欧州出身格闘家はリングスが確保してブッキングが出来ないため、宮戸と面識があり、アメリカに在住している新日本プロレス所属であった元プロレスラーの笹崎伸司にブッキングを依頼していた。
この理念は昭和の新日本プロレスと共通する部分が大きい。実際にコンセプトを打ち出して舵を握っていた宮戸成夫(現:宮戸優光)はアントニオ猪木の大ファンであり高田延彦に往年の猪木と同様の絶対エースのポジションを与えて数々のマッチメイクを行った。以下のようなアングルは新日本の常套手段であった。
- 元WBC世界ヘビー級王者のトレバー・バービック戦 (1991年12月22日の両国国技館大会)
- アントニオ猪木対モハメド・アリ戦と同様のプロレスラー対プロボクサーによる異種格闘技戦。当初マイク・タイソンが候補だったが、タイソンは1990年2月11日の東京ドーム大会でジェームス・ダグラスに敗退。そのダグラスもコンディションが整っておらず、ドン・キング経由でモハメド・アリに勝った戦歴のあるバービックと対戦契約した。試合は高田のローキック攻撃に耐えかねたバービックが1ラウンドで試合放棄。一説にはバービックには「ローキック無し」のルールを提示しておいて本番でいきなり、これを反故にしたとも言われるが、双葉社『俺たちのプロレスVol4』(2015年)のインタビューによれば、海外交渉担当者が契約でローキック禁止はなく、契約後、何度も「契約でもローキックはルール上あり」という内容を伝えたが、バービックは「その前にパンチで倒す。一発でも入れてきたらKOでなく殺す」と言ったと述べている。担当者いわく当時バービックは私生活が荒れていたこと、また海外の契約書は分厚く、生まれ育った環境が原因でバービックは字が読めない可能性もあり、そのため内容を深く理解しないまま試合に臨んだ可能性を語っている。
- 様々なプロレス団体を渡り歩き空拳道所属選手であった北尾との格闘技世界一決定戦。前哨戦として1992年年5月8日にUインター横浜アリーナ大会で山崎一夫が北尾に敗北して危機感を煽った。北尾が負けブックをどうしても飲まなかったため高田はリングで反故にして無警戒の北尾にハイキックを叩き込んでKO勝利[2]。
- 双葉社『俺たちのプロレスVol4』(2015年)のインタビューではフロント代表の鈴木健氏が、高田vs北尾は両者の間で打撃はシュートでOKという話で決まったと話している。
- そして昭和の新日本と同様に常に他団体や他の格闘技に対して挑戦的な姿勢を取った。
- これに対して新日本は「どんな試合条件でも受ける」というUインターの発言を言質に取り、数億円の支払いと巌流島決戦を提示。交渉は決裂したが、Uインターがこの水面下での交渉内容をマスコミに公表したため、新日本から絶縁を表明される。
- 裏事情として、当時蝶野は首を負傷しており試合が困難な状態だったため、新日本の現場監督だった長州力が蝶野を守るためにあえて法外な条件を吹っかけ、交渉を破談に追い込む狙いだったことが明かされている[3]。
- 安生洋二のヒクソン・グレイシーの道場破り事件
- 詳しくは「安生洋二#来歴」を参照。
- メジャー5団体のエースに参加を呼びかけた「1億円トーナメント」事件
- 1994年に現金1億円と当時のメジャー5団体のエース(橋本真也、三沢光晴、天龍源一郎、前田日明、船木誠勝)への招待状を用意して記者会見を開き「プロレスリング・ワールドトーナメント」の開催を突如発表。記者会見を行う当日に金融機関から1億円を借りて記者団の前でうず高く積まれた現金を見せ付け、その日のうちに返済。金利もきちんと支払ったという。余談だが鈴木健[要曖昧さ回避]が現在経営している飲食店の名「市屋苑(いちおくえん)」はこの出来事に因んでいる。
- 上述の「1億円トーナメント」は、招待状を送られた橋本、三沢、天龍、船木は返答を出すことはなく拒否したが、前田だけは唯一前向きな反応を示し、リングス対Uインターの対抗戦を逆提案したが、これに対して宮戸がリングスの参戦外国人選手を指して「どこの馬の骨ともわからない選手を参加させるわけにいかない」、「出てほしいのは前田のみ」といった反論を展開。前田も「お前(宮戸)こそどこの馬の骨だって話」などとやり返してマスコミを通じた舌戦に発展。さらには安生も前田に対して「UWFで終わった人間」、「200%勝てる」などと発言して最終的に前田に対して法的手段を執るまでに発展(詳しくは「前田日明との確執」を参照)。
これらの事件は支持を得ると同時にUインターへの反感も高め一連の出来事は1995年10月9日から始まった「激突!!新日本プロレス対UWFインターナショナル全面戦争」の起点となった。
Uインターの試合はBUSHIDO(ブシドー)の名で海外でテレビ放映されてジェフ・トンプソンが実況、テディ・ペルクが解説を務めた。1995年3月2日、イスラエルのプロモーターから招聘されてイスラエル大会を開催。日本ではTBSで中継していた。
解散
解散に至るまでにはさまざまな悪材料が積み重なっていた。
- メガネスーパーの支援があったプロフェッショナルレスリング藤原組やWOWOWの支援があったリングスと違い、大口のスポンサーや支援者がいなかったため、旗揚げ当初から資金面で問題があった。
- 来日外国人選手のファイトマネー高騰。
- 大きい試合会場での興行にこだわったための経費増大。
- 1995年7月、運営に情熱を失った高田延彦が参議院選挙にさわやか新党からの立候補したことによる長期離脱。
- 9月、コンセプトを打ち出して舵を握っていた宮戸成夫(現:宮戸優光)が退団。
- 1996年1月4日、安生洋二、高山善廣、山本健一(現:山本喧一)によるエンターテイメント色の濃いユニット「ザ・ゴールデン・カップス」の結成。
- 5月27日、次世代のエースと期待された田村潔司の退団。
- 8月17日、プロレス史上初の真夏の昼間に神宮球場大会を開催するも高田延彦に、ザ・ゴールデンカップスの安生洋二が痛恨の完敗を喫した。
- 10月8日、東京プロレス大阪府立体育会館第1競技場大会で組まれた高田延彦対アブドーラ・ザ・ブッチャー戦などによる方向性の迷走により「プロレスこそが最強」の理念が消失して従来の最強路線を支持していたファンの失望。
- 12月27日、後楽園ホール大会を最後に解散。
UWFルール
第2次UWFで制定された所謂「UWFルール」を以下の様にマイナーチェンジ。減点制、ブリッジの高いスープレックスがポイント対象になるなどが最大の特徴。
- KO、ギブアップ、レフェリーストップなど以外にも持ち点がゼロになるとTKO負け。持ち点は以下の通り。
- シングルバウト : 15ポイント
- ダブルバウト : 21ポイント
- スペシャルシックスメンバウト : 30ポイント(設立当初は設定されず末期に実施された6人タッグマッチで採用)
- 減点数
- ダウン : 3ポイント
- ロープエスケープ : 1ポイント(ダブルバウトで相手に技をかけられているときにコーナーの味方にタッチするとエスケープと同等とみなされる)
- スープレックス(ハイブリッジに限る) : 1ポイント(Uインターの解散直前に廃止)
- フォール : 5ポイント(Uインターの解散直前に採用された)
- 反則 : レフェリー裁量
- ダブルバウト、シックスメンバウトの際は通常のプロレスと異なり試合権を持つ者以外はリングに入ることが出来ない。
タイトル
最終所属選手
- 高田延彦
- 安生洋二
- 佐野友飛(現:佐野巧真)
- 垣原賢人
- 金原弘光
- 高山善廣
- 桜庭和志
- 山本健一(現:山本喧一)
- 松井駿介(現:松井大二郎)
- 上山龍紀
- ボーウィー・チョーワイクン(スタンディングバウト)
- ゴーン・ユタチャイ(スタンディングバウト)
歴代所属選手
スタッフ
レフェリー
- 和田良覚
- 清水清安
リングアナウンサー
役員
代表取締役社長
取締役
- 鈴木健[要曖昧さ回避]
- 会社経営者でもあったことから経営面をサポートしていた。かつて高田のファンクラブを運営していた。団体崩壊後、事務所を改装する形で焼鳥屋「市屋苑」をオープンし、2020年現在も同店を経営している[4]。
- コンセプトを打ち出して舵を握っていた。
来日外国人選手
- アイアン・シーク
- キモ
- ゲーリー・オブライト
- コバ・クルタニーゼ
- サルマン・ハシミコフ
- ジェームズ・ストーン
- ジョー・マレンコ
- スーパー・ベイダー
- ダン・スバーン
- チャンプア・ゲッソンリット
- トレバー・バービック
- ノーマン・スマイリー
- バッドニュース・アレン
- パトリック・スミス
- ビッグ・ジョン・テンタ
- ペーズ・ワットレー
- ボブ・バックランド
- レネ・ローゼ
脚注
UWFインターナショナル
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「高山善廣」の記事における「UWFインターナショナル」の解説
大学卒業後、フジサンケイグループで営業マンをやっていたが、プロレスラーの夢を捨てられず悩んでいたところ、宮戸に声を掛けられ旗揚げ間も無いUWFインターナショナルに再入門。1992年6月、金原弘光戦でデビュー。 1995年10月9日に始まったUインターvs新日本プロレスの対抗戦の流れから、安生洋二、山本健一(現:山本喧一)と「ゴールデン・カップス」を結成。 8月17日、Uインター神宮球場大会で行われたバーリトゥード戦でキモと対戦し、チョークスリーパーで一本負け。 9月11日、Uインター神宮球場大会で全日本プロレスの川田利明との対戦が実現するも、ジャンピング・ハイキックで敗れる。 12月のUインター解散後、Uインター関係者が立ち上げた受け皿団体のキングダムに移籍する。
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UWFインターナショナル
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「田村潔司」の記事における「UWFインターナショナル」の解説
UWF崩壊後、UWFインターナショナルに籍を移し、頭角を現す。1992年5月8日、異種格闘技戦でボクシング世界ランカーのマシュー・サード・モハメッドに裸絞めで一本勝ち。同年末に渡米し、ルー・テーズのもとでレスリング技術などを学ぶ。 帰国後、UWFインターの中心選手に成長する中で、1993年に旗揚げされたパンクラスの影響によりシュート(真剣勝負)への渇望を募らせる。一方、ベイダー参戦に見られるUWFインターのプロレス回帰にジレンマを感じ、垣原賢人を相手にシュート志向の試合を行った。 1995年6月18日、ゲーリー・オブライトに勝利するが、オブライトの無気力かつ不可解な戦い方に「お客さんに見せる試合ではない」と涙を流す。同日、団体エースの高田延彦が突然引退宣言、翌7月には参院選に出馬するなどして周囲を困惑させる。代わってメインを務めた田村は、試合後のコメントで高田への反感を露にした。 8月18日にオブライトと再戦、勝利した直後、リングサイドにいた高田へ「俺と真剣勝負してください」とアピールする。しかし実現することなく、UWFインターは新日本プロレスとの対抗戦へと突入した。田村はこの対抗戦への参加を拒否したため(ただしリングス移籍後、山崎一夫、垣原賢人の引退試合で花束を渡すゲストとして、新日本のリングに上がったことがある)、同団体を干される格好となる。またこの年、資金難にあえぐ会社側と契約の問題で揉めたこともあり、数か月間ノーギャラで過ごし、練習も一人でスポーツジムに通って行っていた。この頃は「いつ対抗戦に出るのか」「なぜ出ないのか」と同じ質問ばかりをされ、身近な人を含めて周囲からは自身を気に掛ける言葉もなかった。唯一『週刊ファイト』のUWF担当記者だった波々伯部哲也が「おこめ券」をくれたため、今でも田村は波々伯部に感謝している。 同年12月9日、K-1のリングで約4か月ぶりの試合を行う。UWFインターの所属選手として出場し、お互い素手と裸足によるアルティメット特別ルールでパトリック・スミスと対戦。この試合は消滅が秒読みであったUWFの最後の希望としての試合であり、田村は自分の性格上、負けたら格闘界を去っていたと後年振り返っている。開始すぐにタックルを決め、ヒールホールドで秒殺一本勝ち。後の対談では相手の玉袋筋太郎から「パトスミ戦なんてバーリ・トゥードの本当の先駆けだったわけだしね」とこの試合について語られている。この試合は、バーリ・トゥードにおける日本人プロレスラーの初勝利である。 その後、UWFインターの大会に出場させてもらえるようになったが、後輩の桜庭和志や格下外国人との試合ばかり、それも第1試合や第2試合という前座の扱いになる。また、新日本との対抗戦以来続いていた旧プロレス的な試合を続ける団体との方向性の違いにより、田村は退団の決意を固める。1996年5月27日の桜庭戦で勝利した後、レガースを脱いで客席に放り込み、同団体を去った。
※この「UWFインターナショナル」の解説は、「田村潔司」の解説の一部です。
「UWFインターナショナル」を含む「田村潔司」の記事については、「田村潔司」の概要を参照ください。
UWFインターナショナル
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「髙田延彦」の記事における「UWFインターナショナル」の解説
UWFインターナショナルを設立し、社長に就任。「最強」を肩書きにした高田は団体の絶対的エースとして、ゲーリー・オブライト、北尾光司、スーパー・ベイダー、サルマン・ハシミコフら強豪選手との対戦などで人気を博し、1992年にはプロレス大賞のMVPである年間最優秀選手に選ばれる。1982年の北尾光司戦(格闘技世界一決定戦)では、北尾がハダシであるのに対して、高田はブーツという凶器の所持が許され、終始、ブーツ(凶器)を使用した攻撃を繰り出し、最後は、ブーツの先端で北尾の頭を攻撃し勝利している。 1994年4月からはフジテレビのスポーツニュース番組「スポーツWAVE」のキャスターを務めるまでになる(試合があった日も生放送に出演していた)。1994年1月にタレントの向井亜紀と挙式した。 高田以外に知名度のある選手がほとんどおらず、スポンサーやテレビもついていないUWFインターの経営は1994年頃に苦しくなり、社長業が高田を精神的に苦しめるようになる。1995年6月に「近い将来、引退します」とマイクで宣言し、さらに同年7月の参議院選挙にはさわやか新党から比例名簿順位2位で出馬するも落選。8月には田村潔司から「僕と真剣勝負してください」と挑戦を受けるが拒否した。数々のトラブルと選手離脱により倒産が現実味を帯びたUWFインターは新日本プロレスとの対抗戦に踏み切り、1995年10月9日「新日本プロレス VS UWFインターナショナル全面戦争」における大将戦・武藤敬司(IWGPヘビー級王者)戦に敗北したことで、最強を標榜してきた高田とUWFインターは決定的なイメージダウンを受ける。1996年1月4日、東京ドームで武藤を破ってリベンジに成功。第18代IWGPヘビー級王者となり、IWGPすべての王座を獲得した。3月1日には、UWFインターナショナルのリングで防衛戦が行われ、越中詩郎を破って初防衛に成功したが、4月29日、橋本真也に敗れ王座陥落となった。その後、WARに参戦して交流試合を行い、天龍源一郎と2度のシングルマッチを行い天龍との試合はプロレス大賞の年間最高試合に選ばれる。しかし、UWFインターの運営は混迷し、山崎に続いて、6月には田村潔司や中野龍雄が退団。8月17日には、プロレス史上初となる真夏の昼間の神宮球場大会開催。メインイベントで高田延彦が安生洋二に完全勝利してしまいザ・ゴールデン・カップスが急失速。10月にはインディー団体「東京プロレス」に参戦し、従来の路線からすればありえないマッチメイクであったブッチャーとのシングルマッチを行ってまでなんとか団体の存続を図ったが、1996年12月にUWFインターナショナルは解散した。
※この「UWFインターナショナル」の解説は、「髙田延彦」の解説の一部です。
「UWFインターナショナル」を含む「髙田延彦」の記事については、「髙田延彦」の概要を参照ください。
UWFインターナショナル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 16:48 UTC 版)
「桜庭和志」の記事における「UWFインターナショナル」の解説
1992年7月にUWFインターナショナルへ入門した。当初桜庭はプロフェッショナルレスリング藤原組の入団試験を受けるつもりだったという。UWFインターではレスリング技術に加えて、打撃と関節技を習得する。1993年8月13日の日本武道館大会でスティーブ・ネルソンを相手にプロデビューする、Uインター在籍中はキックボクサーのレネ・ローゼ、UFCファイターのキモらとも対戦した。95年には新日本プロレスとの対抗戦に度々出場。金原弘光と組んで永田裕志、石澤常光とのタッグマッチも経験している。この試合は、4人が卓越したレスリングの技術を駆使したことで完成度は高く、以降「伝説の第一試合」と呼ばれている。またこの時期はサソリ固めを得意技にしており、さらに技を掛ける時は大声を出して気合を入れるなど、総合格闘技時代の冷静な試合運びとは対照的な戦い方をしていた。一夜限りのプロレス復帰を果たした2000年12月31日のINOKI BOM-BA-YE 2000でも技をかける際に大声を出している。K-1のリングで行われたパトリック・スミス戦から半年ぶりにUWFインターのリング復帰となった田村潔司の刺客として前座で3連戦を行った。Uインターは1996年12月に解散している。
※この「UWFインターナショナル」の解説は、「桜庭和志」の解説の一部です。
「UWFインターナショナル」を含む「桜庭和志」の記事については、「桜庭和志」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
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