UWFインターナショナルとは? わかりやすく解説

UWFインターナショナル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/06 16:42 UTC 版)

UWFインターナショナル(ユー・ダブリュー・エフ・インターナショナル)は、かつて存在した日本プロレス団体。正式名称はユニオン・オブ・プロフェッショナル・レスリング・フォース・インターナショナル。略称はUインター(ユー・インター)。

概要

1991年1月、選手会主体で再発足した第2次UWFであったが経営方式を巡って所属選手とフロントの対立が原因で解散したことで高田延彦が設立。5月10日後楽園ホールで旗揚げ戦を開催。

第2次UWFでは前田日明に次ぐポジションであった高田を絶対エースに据えて「プロレスこそ最強」を標榜してゲーリー・オブライトの発掘と躍進[1]、元WBCヘビー級王者のトレバー・バービックとの異種格闘技戦、元横綱北尾光司の参戦、新日本プロレスとの合同興行「激突!!新日本プロレス対UWFインターナショナル全面戦争」など様々な仕掛けで人気を博していた。

しかし、後述するように他団体に対して常に挑発的なスタンスを取っていたため、他団体の選手からの批判が起きてファンが抱くマイナスイメージも少なく無く、良くも悪くも数多くの話題を提供していた。

特色

第2次UWFから分かれたプロフェッショナルレスリング藤原組リングスを比較するとUインターはプロレス回帰の姿勢を打ち出してUWFの象徴であったカール・ゴッチとは一線を引き、ルー・テーズビル・ロビンソンダニー・ホッジが最高顧問に就任、タッグマッチ(「ダブルバウト」と呼称)の採用が挙げられる。

しかし、後述のルールでもわかるように試合内容は従来のUWFスタイルを踏襲して「プロレスこそ最強の格闘技である」、「プロレスラーは現実に強くあらねばならない」との理念の元で本場のタイからムエタイ選手を招聘したりレスリングのコーチも雇うなど練習環境は格闘技を実践するためのものだった。それを裏付けるようにUインターの解散後は元所属選手の多くは総合格闘技のリングに上がっている。

外国人選手の招聘に関してはUWF時代の招聘ルートは藤原組、欧州出身格闘家はリングスが確保してブッキングが出来ないため、宮戸と面識があり、アメリカに在住している新日本プロレス所属であった元プロレスラーの笹崎伸司にブッキングを依頼していた。

この理念は昭和の新日本プロレスと共通する部分が大きい。実際にコンセプトを打ち出して舵を握っていた宮戸成夫(現:宮戸優光)はアントニオ猪木の大ファンであり高田延彦に往年の猪木と同様の絶対エースのポジションを与えて数々のマッチメイクを行った。以下のようなアングルは新日本の常套手段であった。

アントニオ猪木対モハメド・アリ戦と同様のプロレスラー対プロボクサーによる異種格闘技戦。当初マイク・タイソンが候補だったが、タイソンは1990年2月11日の東京ドーム大会ジェームス・ダグラスに敗退。そのダグラスもコンディションが整っておらず、ドン・キング経由でモハメド・アリに勝った戦歴のあるバービックと対戦契約した。試合は高田のローキック攻撃に耐えかねたバービックが1ラウンドで試合放棄。一説にはバービックには「ローキック無し」のルールを提示しておいて本番でいきなり、これを反故にしたとも言われるが、双葉社『俺たちのプロレスVol4』(2015年)のインタビューによれば、海外交渉担当者が契約でローキック禁止はなく、契約後、何度も「契約でもローキックはルール上あり」という内容を伝えたが、バービックは「その前にパンチで倒す。一発でも入れてきたらKOでなく殺す」と言ったと述べている。担当者いわく当時バービックは私生活が荒れていたこと、また海外の契約書は分厚く、生まれ育った環境が原因でバービックは字が読めない可能性もあり、そのため内容を深く理解しないまま試合に臨んだ可能性を語っている。
様々なプロレス団体を渡り歩き空拳道所属選手であった北尾との格闘技世界一決定戦。前哨戦として1992年年5月8日にUインター横浜アリーナ大会で山崎一夫が北尾に敗北して危機感を煽った。北尾が負けブックをどうしても飲まなかったため高田はリングで反故にして無警戒の北尾にハイキックを叩き込んでKO勝利[2]
双葉社『俺たちのプロレスVol4』(2015年)のインタビューではフロント代表の鈴木健氏が、高田vs北尾は両者の間で打撃はシュートでOKという話で決まったと話している。
そして昭和の新日本と同様に常に他団体や他の格闘技に対して挑戦的な姿勢を取った。
これに対して新日本は「どんな試合条件でも受ける」というUインターの発言を言質に取り、数億円の支払いと巌流島決戦を提示。交渉は決裂したが、Uインターがこの水面下での交渉内容をマスコミに公表したため、新日本から絶縁を表明される。
裏事情として、当時蝶野は首を負傷しており試合が困難な状態だったため、新日本の現場監督だった長州力が蝶野を守るためにあえて法外な条件を吹っかけ、交渉を破談に追い込む狙いだったことが明かされている[3]
詳しくは「安生洋二#来歴」を参照。
  • メジャー5団体のエースに参加を呼びかけた「1億円トーナメント」事件
1994年に現金1億円と当時のメジャー5団体のエース(橋本真也三沢光晴天龍源一郎前田日明船木誠勝)への招待状を用意して記者会見を開き「プロレスリング・ワールドトーナメント」の開催を突如発表。記者会見を行う当日に金融機関から1億円を借りて記者団の前でうず高く積まれた現金を見せ付け、その日のうちに返済。金利もきちんと支払ったという。余談だが鈴木健[要曖昧さ回避]が現在経営している飲食店の名「市屋苑(いちおくえん)」はこの出来事に因んでいる。
上述の「1億円トーナメント」は、招待状を送られた橋本、三沢、天龍、船木は返答を出すことはなく拒否したが、前田だけは唯一前向きな反応を示し、リングス対Uインターの対抗戦を逆提案したが、これに対して宮戸がリングスの参戦外国人選手を指して「どこの馬の骨ともわからない選手を参加させるわけにいかない」、「出てほしいのは前田のみ」といった反論を展開。前田も「お前(宮戸)こそどこの馬の骨だって話」などとやり返してマスコミを通じた舌戦に発展。さらには安生も前田に対して「UWFで終わった人間」、「200%勝てる」などと発言して最終的に前田に対して法的手段を執るまでに発展(詳しくは「前田日明との確執」を参照)。

これらの事件は支持を得ると同時にUインターへの反感も高め一連の出来事は1995年10月9日から始まった「激突!!新日本プロレス対UWFインターナショナル全面戦争」の起点となった。

Uインターの試合はBUSHIDO(ブシドー)の名で海外でテレビ放映されてジェフ・トンプソンが実況、テディ・ペルクが解説を務めた。1995年3月2日イスラエルのプロモーターから招聘されてイスラエル大会を開催。日本ではTBSで中継していた。

解散

解散に至るまでにはさまざまな悪材料が積み重なっていた。

UWFルール

第2次UWFで制定された所謂「UWFルール」を以下の様にマイナーチェンジ。減点制、ブリッジの高いスープレックスがポイント対象になるなどが最大の特徴。

  • KO、ギブアップ、レフェリーストップなど以外にも持ち点がゼロになるとTKO負け。持ち点は以下の通り。
    • シングルバウト : 15ポイント
    • ダブルバウト : 21ポイント
    • スペシャルシックスメンバウト : 30ポイント(設立当初は設定されず末期に実施された6人タッグマッチで採用)
  • 減点数
    • ダウン : 3ポイント
    • ロープエスケープ : 1ポイント(ダブルバウトで相手に技をかけられているときにコーナーの味方にタッチするとエスケープと同等とみなされる)
    • スープレックス(ハイブリッジに限る) : 1ポイント(Uインターの解散直前に廃止)
    • フォール : 5ポイント(Uインターの解散直前に採用された)
    • 反則 : レフェリー裁量
    • ダブルバウト、シックスメンバウトの際は通常のプロレスと異なり試合権を持つ者以外はリングに入ることが出来ない。

タイトル

最終所属選手

歴代所属選手

スタッフ

レフェリー

リングアナウンサー

役員

代表取締役社長

取締役

会社経営者でもあったことから経営面をサポートしていた。かつて高田のファンクラブを運営していた。団体崩壊後、事務所を改装する形で焼鳥屋「市屋苑」をオープンし、2020年現在も同店を経営している[4]
帰国子女で英語が堪能なことから外国人選手の招聘の責任を負っていた。現役引退後「市屋苑」の従業員となり、2020年現在も週4日勤務している[4]
コンセプトを打ち出して舵を握っていた。

来日外国人選手

脚注

  1. ^ 日本初来日は新日本プロレスだが広くファンに認知されるようになったのはUインター参戦後。
  2. ^ 『泣き虫』(著者:金子達仁)(幻冬舎
  3. ^ 記者泣かせ…プロレスの話をしない「長州力」秘話 仇敵・藤波辰爾との名勝負で今も語り継がれる名言 - デイリー新潮・2023年11月21日
  4. ^ a b プロレスファンの聖地・焼き鳥「市屋苑」に行ってきた〜後編〜【世田谷とプロレスシリーズ2】 - DeLocal・2020年2月17日

UWFインターナショナル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 03:03 UTC 版)

高山善廣」の記事における「UWFインターナショナル」の解説

大学卒業後、フジサンケイグループ営業マンをやっていたが、プロレスラーの夢を捨てられ悩んでいたところ、宮戸声を掛けられ旗揚げ間も無いUWFインターナショナルに再入門1992年6月金原弘光戦でデビュー1995年10月9日始まったUインターvs新日本プロレス対抗戦流れから、安生洋二山本健一(現:山本喧一)と「ゴールデン・カップス」を結成8月17日Uインター神宮球場大会で行われたバーリトゥード戦でキモ対戦しチョークスリーパー一本負け9月11日Uインター神宮球場大会で全日本プロレス川田利明との対戦実現するも、ジャンピング・ハイキック敗れる。 12月Uインター解散後Uインター関係者立ち上げた受け皿団体キングダム移籍する

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UWFインターナショナル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 14:54 UTC 版)

田村潔司」の記事における「UWFインターナショナル」の解説

UWF崩壊後、UWFインターナショナルに籍を移し頭角を現す1992年5月8日異種格闘技戦ボクシング世界ランカーのマシュー・サード・モハメッドに裸絞め一本勝ち同年末に渡米しルー・テーズのもとでレスリング技術などを学ぶ。 帰国後、UWFインター中心選手成長する中で、1993年旗揚げされたパンクラス影響によりシュート真剣勝負)への渇望募らせる一方ベイダー参戦見られるUWFインタープロレス回帰ジレンマ感じ垣原賢人相手シュート志向試合行った1995年6月18日ゲーリー・オブライト勝利するが、オブライト無気力かつ不可解な戦い方に「お客さん見せ試合ではない」と涙を流す。同日団体エース高田延彦が突然引退宣言、翌7月には参院選出馬するなどして周囲困惑させる。代わってメイン務めた田村は、試合後のコメント高田への反感露にした。 8月18日オブライト再戦勝利した直後リングサイドにいた高田へ「俺と真剣勝負してください」とアピールする。しかし実現することなくUWFインター新日本プロレスとの対抗戦へと突入した田村はこの対抗戦への参加拒否したため(ただしリングス移籍後山崎一夫垣原賢人引退試合花束を渡すゲストとして、新日本リング上がったことがある)、同団体干される格好となる。またこの年資金難にあえぐ会社側と契約問題揉めたこともあり、数か月ノーギャラ過ごし練習一人スポーツジム通って行っていた。この頃は「いつ対抗戦に出るのか」「なぜ出ないのか」と同じ質問ばかりをされ、身近な人を含めて周囲からは自身気に掛ける言葉もなかった。唯一週刊ファイト』のUWF担当記者だった波々伯部哲也が「おこめ券」をくれたため、今でも田村は波々伯部に感謝している。 同年12月9日、K-1のリングで約4か月ぶりの試合を行う。UWFインター所属選手として出場しお互い素手裸足によるアルティメット別ルールパトリック・スミス対戦。この試合消滅秒読みであったUWF最後の希望としての試合であり、田村自分性格上、負けた格闘界を去っていたと後年振り返っている。開始すぐにタックル決めヒールホールド秒殺一本勝ち。後の対談では相手玉袋筋太郎から「パトスミ戦なんてバーリ・トゥード本当先駆けだったわけだしね」とこの試合について語られている。この試合は、バーリ・トゥードにおける日本人プロレスラーの初勝利である。 その後UWFインター大会出場させてもらえるようになったが、後輩桜庭和志格下外国人との試合ばかり、それも第1試合第2試合という前座扱いになる。また、新日本との対抗戦以来続いていた旧プロレス的な試合続け団体との方向性違いにより、田村退団決意固める。1996年5月27日桜庭戦で勝利した後、レガース脱いで客席放り込み、同団体去った

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UWFインターナショナル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 04:42 UTC 版)

髙田延彦」の記事における「UWFインターナショナル」の解説

UWFインターナショナルを設立し社長に就任。「最強」を肩書きにした高田団体絶対的エースとしてゲーリー・オブライト北尾光司スーパー・ベイダーサルマン・ハシミコフ強豪選手との対戦などで人気博し1992年にはプロレス大賞MVPである年間最優秀選手選ばれる1982年北尾光司戦(格闘技世界一決定戦)では、北尾ハダシであるのに対して高田ブーツという凶器所持許され終始ブーツ凶器)を使用した攻撃繰り出し最後は、ブーツ先端北尾の頭を攻撃し勝利している。 1994年4月からはフジテレビスポーツニュース番組スポーツWAVE」のキャスター務めるまでになる(試合があった日も生放送出演していた)。1994年1月タレント向井亜紀挙式した。 高田以外に知名度のある選手がほとんどおらず、スポンサーテレビもついていなUWFインター経営1994年頃に苦しくなり、社長業高田精神的に苦しめるようになる1995年6月に「近い将来引退します」とマイク宣言し、さらに同年7月参議院選挙にはさわやか新党から比例名簿順位2位出馬する落選8月には田村潔司から「僕と真剣勝負してください」と挑戦を受けるが拒否した数々のトラブル選手離脱により倒産現実味帯びたUWFインター新日本プロレスとの対抗戦踏み切り1995年10月9日新日本プロレス VS UWFインターナショナル全面戦争」における大将戦武藤敬司IWGPヘビー級王者)戦に敗北したことで、最強標榜してきた高田UWFインター決定的なイメージダウンを受ける。1996年1月4日東京ドーム武藤破ってリベンジ成功。第18IWGPヘビー級王者となり、IWGPすべての王座獲得した3月1日には、UWFインターナショナルのリング防衛戦が行われ、越中詩郎破って初防衛成功したが、4月29日橋本真也敗れ王座陥落となったその後WAR参戦して交流試合行い天龍源一郎2度シングルマッチ行い天龍との試合プロレス大賞年間最高試合選ばれる。しかし、UWFインター運営混迷し、山崎続いて6月には田村潔司中野龍雄退団8月17日には、プロレス史上初となる真夏昼間の神宮球場大会開催メインイベント高田延彦安生洋二に完全勝利してしまいザ・ゴールデン・カップスが急失速10月にはインディー団体東京プロレス」に参戦し従来路線からすればありえないマッチメイクであったブッチャーとのシングルマッチ行ってまでなんとか団体存続図ったが、1996年12月にUWFインターナショナルは解散した

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UWFインターナショナル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 16:48 UTC 版)

桜庭和志」の記事における「UWFインターナショナル」の解説

1992年7月にUWFインターナショナルへ入門した当初桜庭プロフェッショナルレスリング藤原組入団試験を受けるつもりだったという。UWFインターではレスリング技術加えて打撃関節技習得する1993年8月13日日本武道館大会でスティーブ・ネルソンを相手プロデビューする、Uインター在籍中キックボクサーレネ・ローゼUFCファイターキモらとも対戦した95年には新日本プロレスとの対抗戦に度々出場金原弘光組んで永田裕志石澤常光とのタッグマッチ経験している。この試合は、4人が卓越したレスリング技術駆使したことで完成度高く以降伝説第一試合」と呼ばれている。またこの時期サソリ固め得意技にしており、さらに技を掛ける時は大声出して気合を入れるなど、総合格闘技時代冷静な試合運びとは対照的な戦い方をしていた。一夜限りプロレス復帰果たした2000年12月31日INOKI BOM-BA-YE 2000でも技をかける際に大声出している。K-1のリング行われたパトリック・スミス戦から半年ぶりにUWFインターリング復帰となった田村潔司刺客として前座で3連戦行ったUインター1996年12月解散している。

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