異種格闘技戦
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異種格闘技戦(いしゅかくとうぎせん)は、広義では異なった格闘技の競技者同士が何らかのルールの下で対戦すること。
- ^ ただし同サイトではペリーの遠征記に記載があるとしている(実際は触れられていない)
- ^ 元祖MMA 知られざる「柔拳」の歴史
- ^ 池本, 2018年
- ^ 加来, 1993年
- ^ 中田瑞彦「本部朝基先生・語録」、小沼保『琉球拳法空手術達人 本部朝基正伝』所収。1978年
- ^ 「寸止めはやめなさい!」顔面打ちアリ&絞め技も…60年前の早すぎた“幻の総合格闘技”日本拳法空手道とは?
- ^ 西洋格闘技に20秒で惨敗した中国伝統武術の現実
- ^ a b 『1984年のUWF』文藝春秋、日本 (原著2017年1月25日)、54-55頁。ISBN 978-4-16-390594-5。
- ^ 註:一般的な対戦ルールの場合、PRIDEは、頭突き、金的、凶器などの反則を除く他のどんな形式の攻撃も有りのルールで、バーリトゥード形式で行われている。一方、K-1は立ち技系であり、打撃中心で寝技がない。詳細は、各リンク項目を参照のこと。
- ^ テレビ朝日から新日本プロレスに出向していた永里高平によると、異種格闘技戦はアメリカからタダのようなギャラで対戦相手を呼べる一方で、「水曜スペシャル」として高い視聴率を叩き出したため、経費が掛からない上にテレビ局に高く売りつけることができた。新日本プロレスがアリ戦実現でテレビ朝日に対して負っていた4億円の負債はあっという間に返すことができたという。
- ^ 1979 NJPW Big Fight SeriesPURORESU.com 2022年11月1日閲覧
- ^ 1979年4月3日に福岡スポーツセンターで開催されたレフトフック・デイトン戦では、猪木は開催中であった「'79ビッグ・ファイト・シリーズ」を、4月2日開催の岩手県千厩町大会と翌4月3日開催の宮城県亘理町大会の2戦を藤原喜明、木戸修、ジョージ高野と共に欠場した。
- ^ “俺たちの熱狂バトルTheヒストリー〈G馬場“唯一の異種格闘技戦”〉 (2016年4月9日)”. エキサイトニュース. 2021年4月30日閲覧。
- ^ 『全日本プロレス超人伝説』21頁 門馬忠雄著、文春新書 2014年。ISBN 9784166609819
異種格闘技戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 23:07 UTC 版)
新日本プロレスは、「プロレスこそ全ての格闘技の頂点である」という「ストロングスタイル」を標榜。その後のプロレスに大きな影響を与える。猪木は自身の最強を証明するため、パキスタンの英雄アクラム・ペールワン、「熊殺し」の異名をとる空手家ウィリー・ウィリアムスとの対戦など、異種格闘技路線への挑戦を続け、後年の総合格闘技の礎を築いた。 中でもプロボクシング統一世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリとの一戦は世界各国に中継され話題を呼んだ。日本では、昼間の生中継と同日のゴールデンタイム19時からのNETテレビでの録画中継という形で2度放送された(詳しくはアントニオ猪木対モハメド・アリを参照)。1979年(昭和54年)1月にはアフリカの元ボクシングヘビー級チャンピオンでウガンダの元大統領であるイディ・アミンとの異種格闘技戦の計画が浮上した。アミンは猪木戦を承諾したが、その後クーデターを受けサウジアラビアに亡命したため、結局対戦は実現しなかった。
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異種格闘技戦
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遠藤幸吉の証言 大山の異種格闘技戦について、遠藤幸吉は1995年発売の「大山倍達とは何か?」というムックの中で、アメリカでの大山は試し割りなどのデモンストレーションだけで実際に闘ってはいないと語り、そのインタビューの時は「私が知らないところでやったんじゃないか」としていたが、後年「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」で改めて当時の発言について聞かれ、再び否定し、「大山倍達とは~」内での「私が知らないところでやったのでは」との部分すら、「何年後かに東郷が日本に来たでしょう? でもそこまでやったなら大山のところに連絡が行くだろうに、何もないんだから」と完全に否定している。強さそのものを否定しているわけではなく、その演武を見て「間違いなく威力があると思った」としており、「空手については『強かったんでしょうね。』としか言いようがないけどね」と語っている。また遠藤は大山のみならず力道山についても、米国修行時代の戦績を「年間300試合」と喧伝していた事について、年間300試合をこなすのに一日何試合のペースで試合をしなければならないか、という数字上の矛盾を挙げて否定し、「だから大山だけを責められない」と嘆息している。 木村政彦の証言 木村が本格的にプロレスラーに転向する前、昭和26年から28年頃、大山倍達は一緒に地方巡業に回っている。その際、木村と遠藤幸吉らがプロ柔道の試合をやったりプロレスの試合をやったりしていた。試合が終わると「誰か挑戦する人はいませんか」と観客の飛び入りを求めた。相手をするのは大山であった。 ある地方興行で元大相撲の力士が挑戦してきた。大山はこれを簡単に倒してしまった。次に名の知られた全日本クラスの柔道家が挑戦してきた。大山はこれも簡単に料理してしまった。大山は今度は「2人同時でいいですよ」と言った。大山の強さを知る木村政彦は客に「もう危ないからやめた方がいい」と止めたが、この相撲取りと柔道家は大山が当時まだ名を知られていなかったのでまた「やらせろ」と上がってきた。後ろから柔道家が、前から相撲取りが迫ってくるのを、大山はまずは後ろ蹴りで柔道家を倒し、前蹴りで相撲取りをKOしてしまった。どちらも一発であった。そのあまりの技の速さに観客たちは騒然となった。2人ともそのまま病院送りとなった。相撲取りは肋骨が2本折れていた。 この木村政彦の証言は「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」に出てくる。著者によると木村は他の格闘家の強さという物に厳しく、自分が「本当に強い」と思った格闘家しか絶対に認めない男で、その木村が言うのだからこのエピソードは間違いなく事実だとしている。また大山が当時の大学柔道チャンピオンとの喧嘩に勝ったことも、柔道家や空手家への取材で事実だろうと書いている。 中村頼永の証言 US修斗の中村頼永は、1990年にロサンゼルスで出会ったミツ山下という柔術家から「大山倍達の異種格闘技戦を見たことがある。彼は凄い」という話を聞かされた。当時、山下はグレイシー柔術の中級者であり、ホリオン・グレイシー(ヒクソン・グレイシーの長兄)の道場でアシスタント指導員をしていた。山下から聞かされた話を中村は次のように語る。 「 40年くらい前に中学生の頃、ミツ山下氏はテレビで見たそうです。大山総裁は空手着でリングに上がり、相手は大柄なボクサーだった。大山総裁は素手でどっしりと腰を落として構え、フットワークは使わない。その周りを長身のボクサーがジャブを出しながら、フットワークを使い、回るという展開から始まりました。ボクサーはなかなかスピードのあるパンチを出すので、大山総裁も構えたままスキをうかがう展開が続きましたが、そのうち、なかなか飛び込めないので大山総裁はあきらかにイライラした表情になってきたそうです。大山総裁はしびれを切らしたように、相手に向かってジャンプ。これは前に鋭く飛び込んだのを外人(ミツ山下)だからこう表現したのでしょう。飛び込むや否やボクサーのボディーになんと貫手を一撃。みぞおちにモロに決まり、一発でボクサーはKOされたそうです。山下氏はグレイシー柔術をやっているため、空手や打撃系の格闘技はあまり認めない立場ですが、「あの試合だけは凄かった。それは凄かった」とマス大山に関しては別格の存在として尊敬しているようです。また、ゴッドハンドが実際に戦ったときの様子を見たことを誇らしげに思っているようです。山下氏は格闘技の専門家であり、立場もある人物であり、さらに立場としては空手の敵役にある人物。その彼が話すことなので、これは信憑性のある話として受け取っていいと思います。 」 以上が中村の証言だが、大山茂はこの話を聞いて、「大山総裁の現役時代は、貫手はほとんど目を狙って出しており、右中段逆突きが非常に強く、それを喰って立ってられる人間はいないだろうというほどの威力だったから、おそらく、正拳だったであろう」と語っている。ただ、素手で手を開いて構えたところから、握りながら突き、即引き手をとると、空手を見慣れていない人(当時のアメリカ人で見慣れた人物がいるとは考えにくい)にとっては、貫手に見えることがある。いずれにしても仮にボクサーを倒したのが貫手ではなく正拳だったとしても、この話の価値や信憑性が全くさがるものではない。
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