ソユーズ一号の墜落、コマロフの死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 14:03 UTC 版)
「ウラジーミル・コマロフ」の記事における「ソユーズ一号の墜落、コマロフの死」の解説
1967年、コマロフはソユーズ一号の指揮官に任命され、ユーリイ・ガガーリンがコマロフの控えの宇宙飛行士として任命された。宇宙飛行の準備期間中、2人は1日に12時間から14時間働いていた。4月23日、コマロフは単独でソユーズ一号に搭乗し、宇宙へ向けて打ち上げられた。 軌道投入の際、ソユーズ宇宙船の太陽電池計器盤が変化を見せず、機体への電力の供給が不十分で、操縦機器の一部が見えなくなった。コマロフは以下のように報告した。 「まずい状況になった。船室の設定値は正常だが、左側の太陽電池計器盤の様子は変わらない。電気導体は13 - 14アンペアしか無い。HF(高周波)通信は機能せず、宇宙船を太陽がある側に向けることができない。『DO-1』の方位内燃機関を用いて、手動で宇宙船を太陽がある方向に向けようとしたが、『DO-1』の残圧は180まで低下してしまった」 コマロフは5時間にわたってソユーズ一号の方向付けを試みたが、成功しなかった。機体は信頼性の低い信号情報を送信していた。そして、機体が超高周波地上受信機の範囲外にある間に無線連絡を維持するはずであった高周波送信機が故障したことで、軌道13から15で通信は失われた。その結果、ソ連政府は、宇宙飛行士にソユーズ一号の船外活動(Extravehicular Activity)を遂行させる予定であったソユーズ2号の打ち上げを断念し、宇宙任務を打ち切ったのであった。 コマロフは、軌道15 - 17でイオン流動感知機を用いて機体の方位を再転換するよう指令を受けるも、イオン感知器は故障した。軌道19まで宇宙船の大気圏への再突入を手動で試みるための十分な時間は、もはやコマロフには無かった。手動での方向転換の際には、宇宙船に据え付けられていたVzor潜望鏡装置を頼りにすることになるが、そのためにはコマロフが太陽を視認できる必要があった。着陸地点に指定されていたのはオルスク(オレンブルク州の東部)であり、ここに到達するためには、地球の夜側で逆方向に噴射せねばならない。コマロフは、機体を手動で地球の昼側に方向付けることにし、回転儀装置を基軸として活用し、地球の夜側で逆噴射を遂行するための宇宙船の方向付けに成功した。 機体は19回目の周回軌道で地球の大気圏への再突入には成功したが、機体に備わっていた減速用落下傘と常用の制動落下傘が正常に開かなかった。 4月24日、ソユーズ一号はオレンブルク州アダモフスキー地区に墜落した。まもなく機体から火の手が上がり、炎上した。 ニカラーイ・カマーニンは自身の日記の中で、ソユーズ一号は「秒速30 - 40mの速度」で地上へ墜落し、コマロフの遺骸については「直径30㎝、長さ80㎝、原型をとどめていない物体の塊が残っていただけだった」と記述した。 宇宙船の墜落から3時間以内に、ムスチスラフ・ケルディシュ(Мстисла́в Ке́лдыш)を始めとする宇宙計画委員会の委員たちが墜落現場に赴いた。21時45分、ニカラーイ・カマーニンは、コマロフの遺体を乗せてオルスク飛行場に向かい、ここで遺体は「IL-18」に積み込まれた。出発の10分前に、ニカラーイ・ドゥミートリエヴィチ・クィズニェツォフ(Николай Дмитриевич Кузнецов)と、宇宙飛行士を数人乗せたAn-12が着陸した。カマーニンは航空機を操縦し、翌朝早く、モスクワに到着した。モスクワ周辺の全飛行場は、天候が原因で離着陸が禁止されていたため、シェレミーチェヴァ国際空港に迂回せざるを得なかった。コンスタンチン・ヴィエルシーニン(ロシア語版)の命令により、コマロフの遺体は写真撮影の直後に火葬され、クレムリンの壁に埋葬されることとなった。 コマロフの遺骸はその日の朝に簡単な検死作業が行われ、その後に火葬された。 4月25日、コマロフの死に対する宇宙飛行士仲間による以下のような回答が、『プラヴダ』(Правда)に掲載された。 「先駆者にとって、これは常に険しい道程である。その道は一直線ではなく、急激な旋回、仕掛け、危険も潜んでいる。しかし、軌道に乗った者は、決してそこから離れようとはしない。そして、たとえどんな困難や障壁が待っていようとも、そのような人が自分の選んだ道から逸れてしまうほどの存在では決してない。宇宙飛行士は、心臓が動いている限り、常に宇宙に挑み続けるのだ。ヴラジーミル・コマロフは、この、移ろいやすく過酷な道のりに挑んだ最初の一人であった」 5月17日、ロシアの日刊紙『カムサモリスカヤ・プラヴダ』(Комсомольская Правда)による取材訪問に応じたユーリイ・ガガーリンは、宇宙飛行士団が特定していたソユーズ宇宙船の規格化部品の不安材料に耳を貸そうとしなかったソ連政府について仄めかし、コマロフが死んだことで、試験と評価をより厳格に実施するよう政治家に学ばせるべきだ、と主張した。ガガーリンは「宇宙船における全ての機構、検査と試験運転の全段階において、より注意深く、未知なるものとの遭遇に、より一層警戒することだ。彼は宇宙への道のりがどれほど危険を伴うものであるかを、身をもって示してくれた。彼の宇宙飛行とその死は、我々の勇気を奮い起こしてくれるだろう」と述べた。 1967年5月、ガガーリンとリェオーノフは、計画の最高責任者、ヴァシーリー・ミーシュン(Васи́лий Ми́шин)の「ソユーズ宇宙船とその運用の詳細に関する知見の無さ、宇宙飛行や訓練活動における宇宙飛行士との協調の欠如」を糾弾し、ニカラーイ・カマーニンに対して、墜落事故の公式報告書で彼の名前を参考人として示すよう要請した。
※この「ソユーズ一号の墜落、コマロフの死」の解説は、「ウラジーミル・コマロフ」の解説の一部です。
「ソユーズ一号の墜落、コマロフの死」を含む「ウラジーミル・コマロフ」の記事については、「ウラジーミル・コマロフ」の概要を参照ください。
- ソユーズ一号の墜落、コマロフの死のページへのリンク