タイタニック号沈没事故 1912年4月15日

タイタニック号沈没事故

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1912年4月15日

船を捨てる準備 (0時05分–0時45分)

タイタニックの船長エドワード・J・スミス(1911)

4月15日の0時05分に、スミス船長は救命ボートをカバーから出すよう命じ、乗客が集合した[37]。船長は無線オペレーターに救難信号を送るよう命じたが、この信号により船が氷帯の西側にいると誤認され、救援にきた人々は13.5海里(15.5 mi / 25 km)ほど離れた場所に向かってしまった[1][47]。デッキの下では水が船の最下部の数層に流れ込んできていた。郵便室が浸水し、仕分け係はタイタニックで運搬中だった400,000もの郵便物を救おうとしたが、結果としては無駄な努力であった。他の場所では、流入する水で空気が押し出される音を聞くことができたという[48]。タイタニックには一斉呼びかけを行うシステムがなかったので、上の階では客室係が各室を回って眠っている乗客やクルーを起こし、ボートデッキに行くよう伝えた[49]

非常召集の成果は乗客の等級に左右された。一等船室の客室係は数室のみを担当していたが、二等と三等船室の客室係は大勢の人々をさばかなければならなかった。一等の客室係は直接的な支援を行い、客が服を着るのを手伝い、デッキまで誘導した。しかし、二等と三等の客室係のほとんどはドアを開け放ち、救命胴衣をつけて上に来るよう乗客に伝えるのが精一杯だった。三等船室に至っては、おおむね乗客自身の判断で行動するほかなかった[50]

乗客やクルーの多くは問題が発生したことを信じないか、あるいは冷え込みの厳しいデッキに出るよりも、室内で暖かくしているほうが良いと、命令に従うのを渋った。船が傾いているのに気付いた者も少しはいたが、船が沈みかけているとは知らされていなかった[49]。0時15分頃、客室係は乗客に救命胴衣を着用するよう命じ始めた[51]。しかしながら、多くの乗客はこの命令を馬鹿げたことだと受け取った[49]。この頃、甲板に散らばっていた氷の塊で即席のサッカーを始める者までいた[52]

ボートデッキではクルーが救命ボートを準備していたが、煙突から排出される高圧蒸気の騒音で会話が困難になったため[53]、クルーは身ぶり手ぶりで意思疎通していた[54]

タイタニックには全部で20艘の救命ボートがあり、吊り柱に木製のボートが16艘(船の両側に8艘ずつ)、底が木で脇がキャンバスの折りたたみボートが4艘という内訳であった[49]。折りたたみボートは脇を内側に折り込んだ状態で逆さまに収納されていて、進水のためには組み立てたのちに吊り柱に移動させるようになっており[55]、2艘は木製ボートの下に、他の2艘は上級船員区域の上に縛り付けてあった[56]。これらを使用するにはボートデッキまで人力で降ろす必要があったが、いずれも数トンの重量がある上、後者の2艘は収納場所の事情もあり、進水には大変な労力を必要とした[57]。救命ボートは1艘あたり平均68人を乗せることができ、全部で1,178人が乗ることができたが、これはかろうじて乗船者の半分程度、船の最大積載人数の3分の1であった。

救命ボートの不足は場所やコストのせいではなかった。タイタニックは68艘まで救命ボートを載せられるように設計されていた[58]。これは乗客全員を乗せるのに充分な数であり、もう32艘救命ボートを買うには16,000ドルほどかかるだけで、タイタニックの船体に会社が払った7,500,000ドルに比べればほんのわずかな額であった。当時、緊急時における救命ボートは、乗客を遭難船から近くの船まで運ぶために使われており[59]、クルー全員を乗せることは想定しておらず、当時イギリスで運行していた 10,000ロングトン (10,000 t)を超える39隻の定期船のうち33隻は、乗客全員を乗せるには乏しい数しか救命ボート置き場を作っていなかった[60]。ホワイト・スター・ラインは、海を見るための広い遊歩デッキを計画しており、いくつもの救命ボートを置くと視界の妨げになる可能性があった[61]

スミス船長は40年を海で過ごし、そのうち27年は船員を指導する立場にあったという経験ある船乗りであった。もし全ての救命ボートに定員ぎりぎりまで人を乗せたとしても、1,000人もの人々が沈没時に船に取り残されることを理解していたに違いない[37]。これから起こることの重大さを把握しはじめるにつれて、スミスは優柔不断で動けなくなっていったようであった。 乗客とクルーには集合するよう命じたが、救命ボートへの搭乗指示は出さなかった。適切にクルーを組織できず、部下たちに重要な情報を伝えることもできず、時として曖昧で実際的ではない命令を下し、船を捨てろという命令は全く出さなかった。ブリッジに詰めていた船員の中にも、船が沈みかけている事実に気付いていない者がいた。四等航海士ジョセフ・ボクソールは1時15分、船が沈む1時間ほど前までこのことを伝えられていなかった[62]。操舵員のジョージ・ロウは緊急事態に全く気付かず、避難が始まった後にブリッジから電話をかけ、自分の監視所に救命ボートが出されている理由を問い合わせた[63]。スミスは船員たちに、船には全員を救うに足る数の救命ボートがないことを伝えていなかった。救命ボートへの搭乗を監督せず、命令が守られているか確認することもしていなかったようである[62][64]

タイタニックの救命ボート訓練。左端にスミス船長の姿が見える。(1912年4月10日)

クルーたちも緊急時への対応ができていなかった。救命ボート訓練はサウサンプトン碇泊時に行なわれたが、その内容は通り一遍のもので、2艘の救命ボートを降ろし、それぞれ船員1人と男性4人ずつを乗せて、数分間埠頭を漕ぎまわったのちに船に戻るというものだった。結局訓練はその1度きりで[65]、船が沈む前の日曜日の朝にも予定されていたものの、スミス船長により不明な理由で中止された[66]。ボートには緊急用物資が蓄えられているはずであったが、船のパン焼き係主任であったチャールズ・ジョーキンと部下の努力にもかかわらず、十分な物資がなかったことを乗客たちは後に知った[65]。非常時にクルーのメンバーを救命ボートステーションに割り振るリストも掲示されていたが、読んだ者はほとんどおらず、何をすべきか分かっていた者はほぼいなかったようである。クルーのほとんどは船乗りではなく、ボートを漕いだ経験の無かった者もいた。このような人々がこの時、総員1,100人もの人々を乗せた20艘のボートを船の脇から協力して21mも降ろすという複雑な業務に直面した[57]。あまりにも避難の段取りが悪かったため、たとえ乗客全員分の救命ボートがあったとしても全員救命することはできなかったかもしれないという指摘をする歴史家すらいる[67]

衝突から40分後の0時20分頃までには、救命ボートへの搭乗が開始されていた。二等航海士ライトラーは、スミスがトランス状態であるかのように呆然としてブリッジのそばに立ち、海を見やっていたと後に回想している。ライトラーが船長に「女性と子供をボートに乗せた方が良いのではないでしょうか。」 ("Hadn't we better get the women and children into the boats, sir?") と提案したところ、船長は「女性と子供を乗せて降下させよう。」 ("women and children in and lower away.") と答えた[68]。ライトラーは左舷側のボートを担当し、マードックは右舷側のボートを担当した。一等航海士マードックと二等航海士ライトラーはそれぞれ「女性と子供を優先する」ことについて異なる解釈をした。マードックはまず女性と子供から乗せると解釈したが、ライトラーは女性と子供だけを乗せると解釈した(一説によると、ライトラーは救命ボートが足りないのを知っていて仲間である船員を助けるために意図的に命令を曲解した説もある)、そのため、ライトラーは女性と子供が全員乗り込んだのを確認すると、スペースに余裕があっても救命ボートを降ろしたが、マードックは女性と子供の他にわずかながら男性も乗せた[56]。ほかのクルーも1艘あたりの定員を知らず、気を配るあまり上限まで乗せないという過ちを犯した。その日は天気も海の状態も非常に安定していたため、上限の68人を乗せても十分安全に降ろせたはずであった[56]。もし定員まで乗せていたら、もう500人ほどの人命が救えたであろうと考えられている。結局、救命ボートは多くの空席を残したまま進水し、数百人の人々(大部分が男性)が船に取り残された [54][67]

当初は救命ボートに乗ろうとする乗客がほとんどおらず、避難を仕切っていた船員は乗客をなかなか説得できなかった。百万長者であるジョン・ジェイコブ・アスターは「あんな小さなボートよりもここにいたほうが安全だ」と言い張った[69]。ボートへの移乗をきっぱり断る客もいた。J・ブルース・イズメイは事態の重大さに気付いて右舷のボートデッキをまわり、乗客とクルーにボートに乗るよう促した。少数の女性・夫婦・独身男性が説得を受け入れて右舷7番救命ボートに乗り、これが最初に降ろされた救命ボートとなった[69]

救命ボート乗船(0時45分–2時05分)

「悲しい別れ」、1912年

0時45分に7番ボートが28人の乗員(定員65人)を乗せ、手漕ぎでタイタニックから離れた。次いで左舷の6番ボートが0時55分に降ろされた。このボートに乗船していた28人には「不沈の女」マーガレット・"モリー"・ブラウンも含まれていた。ライトラーはこのボートに船乗りが1人(操舵員ロバート・ヒッチェンス)しか乗っていないことに気付いてボランティアを募り、王立カナダヨットクラブのアーサー・ゴドフリー・ピューチェン少佐が申し出てロープを伝い、救命ボートに乗った。少佐は左舷側でライトラーが避難させた唯一の男性乗客であった[70]。このことは、避難時にボートに乗り込める船乗りがほとんどいなかったという、重大な問題を浮き彫りにしている。船内通路のドアを開けて乗客に避難を呼びかけるため、下に降りたまま、戻らなかった船員もいた。おそらくは下のデッキで揚がってきた水に捕らわれ、溺死したものと考えられる[71]

デッキ下に浸水が進む中、不可欠な作業を続けようとしていたクルーもいた。機関士や機関助士たちは、冷たい水との接触で爆発が起こらないようボイラーから蒸気を逃がす作業をしており、水流を減らすために余分にポンプを出そうとして防水扉を再び開けたが、これは無駄な試みであった。客室係のF・デント・レイは、自分の担当区域とEデッキの三等船室の間の木の壁が崩壊して流れ込んだ水が腰まで達し、あやうく押し流されそうになった[72]。エンジニアのハーバート・ハーヴィとジョナサン・シェパード(少し前に左足を骨折していた)は、浸水していた第6ボイラー室のドアが崩れて流出した水に呑まれ、0時45分頃に第5ボイラー室で亡くなった[73]

1時20分頃には第4ボイラー室でも下から浸水が始まったが、これは船の下部にも氷山の影響で穴が開いていたことを意味する。浸水量が忽ちポンプを圧倒し、機関助士や積み荷係は前側のボイラー室から退避せざるを得なくなった[74]。さらに船尾側では、機関士長のウィリアム・ベルと同僚の機関士たち、志願した数人の機関助士や機関員が浸水していない第1・第2・第3ボイラー室やタービン、レシプロエンジンのある場所に残り、船の照明やポンプ、無線機器に電力を供給するため、ボイラーと発電機を動かし続けた[22]。彼らは最後まで持ち場に留まっていたため、タイタニックの電気系統は沈没するまで生きていたが、35人の機関士や電気工は1人も助からなかった[75]。また、5人の郵便係も浸水した郵便室から避難させた郵便袋を守ろうとしているところを目撃されたのが最期となり、Dデッキのどこかで揚がってきた水に呑まれたと考えられる[76]。また、三等船客の多くは自力でE、F、Gデッキに入ってくる水に立ち向かうこととなった[77]

救命ボートは船の左右から数分おきに降ろされていたが、そのほとんどが定員に満たない状態だった。5番ボートは41人しか乗っておらず、3番ボートは32人、8番ボートは39人しか乗らずに船から離れた[78]。1番ボートは定員40人に対し12人しか乗っていなかった[78]。避難は滞り、乗客は事態が進行するにつれて事故やケガに見舞われるようになった。ある女性は10番ボートと本船の間から落ちたが、かかとをつかまれて遊歩デッキに助け上げられ、再びボートに乗ることができた[77][79]。一等船室の乗客アニー・ステンゲルは、5番ボートに飛び降りた太ったドイツ系アメリカ人医師とそのきょうだいの下敷きになり、意識不明に陥り、肋骨を数本折った[80][81]。救命ボートの降下にも危険が伴った。6番ボートは船の側面から排出された水で水浸しになったが、なんとか船から離れることができた[78][82]。3番ボートはあわや大惨事になりかけた。1本の吊り柱が絡まり、乗客がボートから投げ出されそうになったのである[83]

1時20分までには、デッキ上の客も事態の深刻さを感じ取り、夫たちは妻や子を救命ボートまで連れて行き、別れを告げ始めた。遭難信号用の発炎筒が数分おきに焚かれ、無線オペレーターは繰り返し遭難信号CQDを発信した。無線オペレーターのハロルド・ブライドは、同僚のジャック・フィリップスに「使う最後のチャンスになるかもしれないから」と、新しいSOS信号を使うよう伝えた。2人のオペレーターは他の船に救援を求めたが、応答した船のうちカルパチアは(58マイル (93 km)離れたところにいた[84])タイタニックより船足が鈍く、最高速度でも 17 kn (20 mph; 31 km/h)しか出ず、沈みつつある船に到着するまで4時間かかるということであった[85]。他に応答した船としてはマウント・テンプルがあり、進路を変えてタイタニックがいる方角に向かったが途中で叢氷に阻まれてしまった[86]

カリフォルニアンはもっとずっと近くにおり、数時間前にタイタニックに氷山の通告をしていた。拡がった流氷に自分の船が阻まれていたため、船長のスタンリー・ロードは22時00分頃、氷原を出る経路を見つけるため、明け方まで一晩碇泊することにした[87]。タイタニックが氷山に衝突する10分前の23時30分に、カリフォルニアンのただ1人の無線オペレーターであったシリル・エヴァンズは、無線機器をシャットダウンして就寝していた[88]。ブリッジでは三等航海士チャールズ・グローヴズが右舷方向に10 - 12 mi (16 - 19 km)離れたあたりで大きな船を目撃していた。この船は突然左舷に旋回して止まった。もしカリフォルニアンの無線オペレーターがもう15分長く持ち場にいれば、数百名の命が救えた可能性もある[89]。1時間あまりのち、カリフォルニアンの二等航海士、ハーバート・ストーンは停まった自船の上に5回、ロケット信号弾が白く炸裂するのを見た。しかし信号の意味がよくわからず、ロード船長を呼んだ。船長は海図室での休息中に信号の目撃報告を受けた[90]が、何も対処しなかった。ストーンは不安になって同僚に相談した[91]。後日、ロード船長は事故後の査問委員会にて、同船はタイタニック沈没地点から同船の最大船速13.5ノットにて2時間程度の場所に碇泊していたが、0時から2時頃にかけ船長や他の船員が3mi先に発光信号を使用する船影を確認し、流氷注意のために発光信号を数回送ったが、返答なくそのまま航行していった。明らかに貨物船でタイタニックではなかったと証言している。尚、同査問員会の結論としては同信号はタイタニックによるものであったと結論付けられている[92]

この頃までにタイタニックに乗っている人々には、船が沈みつつあり、全員が乗れるだけの救命ボートがないことは明らかになっていた。しかし、最悪の事態は起こらないだろうという希望にしがみついている者もいた[93]。自分は後から行くと嘘をついて、妻だけを救命ボートに乗せ、永遠の別れを遂げた夫もいた[93]

別れるのを拒んだ夫婦もいた。メイシーズ百貨店の共同経営者であったイジドー・ストラウスはすでに67歳の高齢だったため、救命ボートに乗れるのは女性と子供が優先という状況にあっても特別に救命ボートに乗り込むことを認められたが、彼はあくまでも男性の自分が女性と子供を差し置いてボートに乗るわけにはいかないと主張し、彼の妻アイダ・ストラウスも夫と別れて自分だけがボートに乗ることはできないと主張し、夫妻ともに救命ボートに乗ることを拒否した[93]。夫妻は一対のデッキチェアに座って、世の終わりを待った[94]。企業家のベンジャミン・グッゲンハイムは、救命胴衣とセーターといういでたちからトップハットイブニングに着替え、紳士らしく船と運命を共にしたいと述べた[22]

この時点で、救命ボートに乗った乗客のほとんどは一等船室及び二等船室の乗客で占められていた。船尾の三等船室にいた乗客はほとんどデッキまでたどり着けず、通路で迷い、三等船室を一等や二等の区域と隔離する壁や仕切りに阻まれて動けなかった[95]。この隔離は単なる社会的理由だけではなく、アメリカ合衆国移民法の条件によるものでもあった。この法は、移民をコントロールし、感染症の広がりを防ぐため三等船客を隔離するよう定めていた。大西洋航路の定期船に乗る一等と二等の船客はマンハッタン島の主桟橋で降りるが、三等船室の乗客は、エリス島で健康診断と手続きを経なければ降りることはできなかった[96]。少なくともいくつかの場所では、タイタニックのクルーは三等船客の避難を積極的に妨害した。錠をかけてクルーが見張っていた壁もあり、明らかに三等船客が救命ボートに殺到することを阻んでいた[95]

CからGまでのデッキにある三等船室はいずれもデッキの末尾部分にあったため、乾舷までたどり着くには曲がりくねった長い通路を通る必要があり、救命ボートまで最も遠かった。反対に一等船室は上甲板にあり、最短距離だった。したがって、救命ボートまでの距離はボートに乗ることができた者を定める重要な要因となった。さらなる困難として、多くの三等船客は外国人で、英語が理解できなかった。助かった三等船客の中に、英語を話すアイルランド系の移民が多くを占めていたのは偶然ではない[97]。また、生き残った三等船客の多くは同船室の客室係エドワード・ハートのおかげで命拾いしている。ハートは船内で三等船客のグループをボートデッキまで連れて行くことを3度も行った。開いている壁を抜けたり、緊急用の梯子を昇って逃げた者もいた[98]

おそらくは状況に圧倒されてしまい、逃げる試みを全くせずに船室にとどまっていたり、三等船室の食堂に集まって祈っていた人々もいた[99]。機関助手長のチャールズ・ヘンドリクソンは、まるで誰かに導かれるのを待つかのようにデッキ下に三等船客たちがトランクや持ち物を手に集まっているのを目撃した[100]心理学者のウィン・クレイグ・ウェイドは、何世代にもわたって自分がすべきことを社会的地位が上の者に命じられてきたために培われた「禁欲的受動性」によるものではないかと述べている[76]

最後の救命ボート

15番ボートはあやうく13番ボートの上に降ろされるところだった。(チャールズ・ディクソンによる絵).
1時40分頃にタイタニックの無線オペレーター、ジャック・フィリップスからロシアの船である「ブリマ」に送信された遭難信号。これはタイタニックから送られた最後の解読可能な無線メッセージのひとつである。

1時30分までに、タイタニックは前傾の角度を増して船首を沈めつつあり、左舷側にもそれよりわずかに大きく(5度を越えない程度)傾いていた。状況の悪化は船から送られたメッセージにも反映されている。1時25分には「女性をボートに乗せて降ろしている」、1時35分には「エンジンルーム浸水」、1時45分には「エンジンルームはボイラーまで満水」であった[101]。これはタイタニックが発信した、解読できる最後の信号で、船の電気系統が故障しつつある頃に送られた。続くメッセージはごちゃごちゃとして不完全であった。2人の無線オペレーターはそれにもかかわらず、遭難信号をほぼ最後の最後まで送り続けた[102]

残ったボートには定員近くまで人が乗り、だんだんと人々が殺到するようになった。11番ボートは定員よりも5人超過しており、降ろす時に船から排出された水をかぶった。13番はかろうじて浸水を免れたが、乗員が船を降ろすためのロープから適切にボートを離すことができずに後ろに押し流され、そこに15番ボートが降りてきた。すんでのところでロープが切られ、ボートは2艘とも何とか無事に船から離れた[103]

40人が乗った左舷側の14番ボートに乗客の一団が殺到しようとした時がパニックの最初の兆候であった。ボートを担当していた五等航海士ハロルド・ロウが群衆をコントロールするために3度、空に向けて警告射撃を行ったため、ケガ人は出なかった[104]。5分後に降ろされた16番ボートに乗っていた客室係のヴァイオレット・ジェソップは4年後、第一次世界大戦中にタイタニックの姉妹船であるブリタニックの沈没から生き延びた際、同じ経験をすることとなった[105]。1時40分には折りたたみボートCが降ろされた。このボートを降ろしたデッキは、ほとんどの乗客が船尾に移動していたためほぼ無人となっていた。ホワイト・スター・ラインの取締役であったJ・ブルース・イズメイはこのボートに乗って船から逃げ出し、のちにタイタニックの最も物議を醸した生存者として糾弾されている[101]

1時45分に2番ボートが降ろされた[106]。ライトラーはこのボートにたくさんの男性が乗っているのを見て、「英語を喋る人々ではなかった[107] 」と述べている。リボルバーで脅してこの男性たちを立ち退かせたが、ライトラーはこのボートを満たすだけの女性と子供を見付けることができなかった[107]。ライトラーは定員40人のボートに25人を乗せて降ろした[106]。ジョン・ジェイコブ・アスターは1時55分に4番ボートで妻が安全に避難するのを見送ったが、60席中20席が空いていたにもかかわらず、ライトラーは男性のアスターをボートに乗せなかった[106]

2時05分、最後に進水した折りたたみボートDは、25人を乗せて船を離れた[108]。ボートが降ろされる時に2人の男性が飛び乗った[109]。水がボートデッキにまで達しており、船首は深く水に浸かっていた。一等船客イーディス・エヴァンズはボートに乗るのを諦めて結局亡くなったが、一等船客で沈没により死亡した女性は彼女を含め4名のみであった。スミス船長は最後にデッキをまわり、無線オペレーターと他のクルーに「今や自分の身を守る時だ」と告げた[110]

乗客とクルーは船尾に向かったが、そこではトーマス・バイルズ神父懺悔を聴いて罪の赦しを与えていた。タイタニックの楽団は体育室の外で演奏していた[111]。タイタニックは2つの楽団を抱えていた。一つはウォレス・ハートリー率いる五重奏団で、夕食後や宗教的な礼拝の際に演奏しており、もう一つは三重奏団でレセプションエリアやカフェ、レストランの外で演奏していた。2つの楽団はそれぞれレパートリーもアレンジも異なっており、沈没の前には一緒に演奏したことがなかった。氷山との衝突後30分ほどしてから、2つの楽団はスミス船長の命で一等船室のラウンジで演奏をした。そこにいた乗客の記憶によると、楽団は『アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド』のような明るい曲を演奏していた。2人のピアニストがこの時楽団と一緒にいたかどうかはわかっていない。正確な時刻は不明だが、音楽家たちは後にボートデッキのある階に移動し、そこで演奏した後、デッキに出ていった[112]

タイタニックの沈没にまつわる根強い伝説として、船が沈む時に、音楽家たちが賛美歌『主よ御許に近づかん』を演奏していたというものがあるが、これは疑わしい[113]。この主張は沈没直後の報告にも見受けられる[114]。この賛美歌はタイタニックの事故にあまりにも密接に結びつけられているため、この最初の小節が、タイタニックの楽団長で亡くなった犠牲者の1人であるハートリーの墓碑にも刻まれた[115]。1934年にヴァイオレット・ジェソップは事故の回想で、この賛美歌が演奏されているのを聞いたと述べている[113]

対照的に、アーチボルド・グレイシーは沈没直後にこれを強く否定する説明をしており、無線オペレーターのハロルド・ブライドは「ラグタイム」の後で『秋』が演奏されているのを聞いたと述べた[116]。これはアーチボルド・ジョイスによる当時人気のあったワルツの『秋の夢』だったのかもしれない。救助にきたカルパチアの楽団長で生存者とも話したジョージ・オレルは、『主よ御許に近づかん』が演奏されていたと聞いた、と述べている[117]。グレイシーはデッキが沈むまで楽団の近くにいて、「明るい曲」を楽団が演奏していたが、どれも聞き覚えのない曲であり、新聞に出てくるように『主よ御許に近づかん』が演奏されていればすぐ気付いたはずだと主張している [118]。船を最後に離れた者のうち、複数の生存者が楽団はデッキの傾斜により立てなくなるまで演奏を続けたと述べているが、グレイシーは船が沈む遅くとも30分前には演奏をやめたと主張している。一等船客A・H・バックワースなどの乗客がこれを裏付ける証言をしている[112]

ブライドは無線室を離れる時に楽団が演奏するのを聞いていたが、その頃までにはその付近は水に浸かっていた。もう1人の無線オペレーター、ジャック・フィリップスも一緒にいた。ブライドによると、フィリップスは自分の救命胴衣を奪おうとした男を打ち倒したところだったという[119]。2人の無線オペレーターはそれぞれ反対の方角に行き、フィリップスは船尾へ、ブライドは船首の方にあった折りたたみボートBに向かった[119]

グレイシーも船尾に向かったが、群衆に阻まれてしまった[120]。数百人もの三等船客が、最後の救命ボートが出発する間際にデッキにたどり着いていた。グレイシーは船尾に向かうことをやめ、群衆から離れるため海に飛び込んだ[120]。全く逃げようとしなかった者もいた。船の設計者であるアンドリューズは、報告によると一等船室の喫煙室で最後に目撃されており、救命胴衣は外してマントルピース上の絵を見つめていたという[105][121]。スミス船長の最期については矛盾する報告があり、よくわかっていない。ブリッジの操舵室に入ってそこが水に呑みこまれた時に亡くなったという証言と、ブリッジが沈む直前に水に飛び込み、その後おそらく折りたたみボートBの側で亡くなったとする証言がある[122][123][124][125][126][127][128][129]

沈没の最後の瞬間(2時15分–2時20分)

主よ御許に近づかん」(1912年のイラスト)

2時15分頃、デッキのハッチから、今まで浸水していなかった部分に水が入ってきたことで、タイタニックの水に対する傾き角度は急速に増していった[130]。急に船が傾いていったため、生存者が「巨大な波」と呼ぶ現象が生じ、ボートデッキの船首方向から船を水が覆っていき、多くの人が水に呑まれた[131]。首席航海士ヘンリー・ワイルド、一等航海士マードック、二等航海士ライトラー、グレイシーなど、折りたたみボートA・Bを降ろそうとしていた人々は、2艘のボートと共に水に呑まれ、ボートBはハロルド・ブライドが下に押し込められたままの状態で逆さまに浮かび、ボートAは脇のキャンバスが立っていない状態で部分的に浸水してしまった。ブライド、グレイシー、ライトラーはボートBまでたどり着いたが、マードックとワイルドは海で亡くなった[132][133]

ライトラーは増える群衆から逃げるために持ち場を離れ、上級船員区域の屋根から水に飛び込んだ。通風シャフトの入り口に吸い込まれたが、「恐ろしい熱い爆風」ですっかり吹き飛ばされ、ひっくりかえった救命ボートの脇に浮かび上がった[134]。前方の煙突は自重で崩れ、水に落ちる時に数人をつぶしたが、救命ボートには当たらなかった[135]。 煙突はライトラーをかすめ、立った波でボートが50ヤード (46 m)ほど沈没船から遠くへ流された[134]。まだタイタニックに残っていた人々は、強い圧力がかかって船が震えるのを感じた[136][137]

目撃者によると、船首が水に沈むにつれてタイタニックの船尾は空中に高く上がった。角度は30-45度ほどに達していたという[138][139]。多くの生存者が大きな音を聞いており、これはボイラーの爆発によるものと考える者もいた[140][139]。少し経ってから船の灯りが一度明滅したのを最後にタイタニックは完全に真っ暗闇になった。

ヘンリー・ロイテルダール「タイタニックの沈没」

タイタニックは反対の2方向から極端な力をかけられていた。浸水した船首は船を下に引っ張り、一方で空中に上がった船尾は船を海面に保とうとしていた。この2つの力が船の構造上最も弱い場所であるエンジン室ハッチのあたりに集中した。灯りが消えた直後、船体が折れた。浸水した船首は短期間、竜骨で船尾に繋がっていたかもしれず、船尾を高角度で引っ張った後に離れて、船尾は数分長く浮いていた。船尾の前方はすぐさま浸水し、傾いた後に短い間止まったが、沈んだ[141][142][143]。船は2時20分、氷山衝突の2時間40分後に見えなくなった[144]

タイタニックの事故から生還した航海士や多くの著名な生存者は、船はそのままのひとつながりの状態で沈んでいったと証言した。これは英米の災害調査でも裏付けられている[145]。しかしながらロバート・バラードによると、沈む時は既に2つに分かれていたという証言も多数ある[146]。今では、エンジンはボイラーの大部分と共にそのままの場所にあったことがわかっており、目撃者が聞いた「大きな音」と船尾の一瞬の落ち着きは、おそらく船の建材の緩みやボイラーの爆発によるものではなく、船が折れたために生じた[147]

水面下に潜ってからたった数分のうちに船首と船尾は3,795メートル (12,451 ft)沈降し、吐き出された重機[訳語疑問点]、何トンもの石炭、内部から生じた大量の瓦礫がその後を追った。船の2つの部分は600メートル (2,000 ft)離れてゆるやかに起伏している海底に落ちた[148]。流線型の船首部分は海面にあった時と同じような角度で沈下し続けて、推定25–30 mph (40–48 km/h)ほどの速さで舳先から浅い角度で海底に衝突した[149]。はずみで海底に深い穴ができ、堆積物の中に20メートル (66 ft)ほど埋まった後急停止した。突然の減速のため、船首部分はブリッジのすぐ前あたりで多少曲がった。船首部分最後尾のデッキは折れた際に既に弱くなっており、次々と崩れた[150]

船尾部分はほぼ垂直に、おそらく回転しながら沈んでいった[149]。空のタンクとコファダム(タンク間にある、水や油の混ざりを防止するための空間)は降下につれて内側に破裂し、船に穴があいて船尾楼甲板が裂けた[151]。船尾部分は強い力で海底に衝突し、の部分が15メートル (49 ft)ほど埋まった。デッキは互いに重なった状態で潰されて落ち、船殻の外壁は両側に広がった。沈没後も瓦礫が数時間海底に降り続けた[150]

水中の乗客とクルー (2時20分–4時10分)

2時28分を指して止まっている、所有者不明の懐中時計

沈没の結果として、数百名の乗客とクルーはすぐさま船の瓦礫に囲まれて冷たい海で死を待つだけの状態に置かれた。タイタニックが海底に降下しながら分解したため、木の梁、ドア、家具、パネルや隔壁に使われていたコルクなど瓦礫の塊が浮いて海面に急速に上がってきた。この瓦礫によって泳いでいた人々がケガをしたり、おそらく亡くなったりした。浮いているために瓦礫につかまった者もいた[152]

海水はマイナス2℃という温度で、命に危険を及ぼす冷たさであった。二等航海士ライトラーは、海に入ると体に「1,000本ものナイフに突き刺されたように感じた」と述べている[151]循環器官への急激なストレスのため、心臓発作を起こしてほぼすぐに亡くなった人もいたと考えられる[153]。最初はひどい震えがきて、体温が低下するとともに脈拍が遅く弱くなり、意識を失って死亡するという典型的な低体温症が進行していった人もいた[153]。救命ボートに乗っていた人々は、海に落ちた人々の苦しみの声にひどく脅え、大きなショックを受けた[154][155]

アーチボルド・グレイシーは折りたたみボートBにたどり着いた生存者の1名であった。しかしながらこの災難から回復することはできず、沈没の8か月後に亡くなった。

水中にいた人の中で助かったのはごくわずかであった。そのうち、アーチボルド・グレイシー、ジャック・セイヤー、チャールズ・ライトラーの3名は、ひっくり返った折りたたみボートBにたどり着いた。折りたたみボートBには12人ほどのクルーが上り、出来る限り救出を行ったが、35人の男性がひっくり返った船殻に不安定にしがみついた。周りで多数の人が泳いでいたためにボートが浸水する危険があることに気付き、ボート上の人々は、乗せてくれと言いながら泳ぐ何十人もの人々の願いを無視してゆっくり漕いでその場を離れた[156]。おそらく20人以上の人々が泳いで折りたたみボートAにたどり着いたが、側面がきちんと立てられていなかったため部分的に浸水していた。このボートに乗った人々は、浸水した極めて冷たい水の中に足を突っ込んだまま何時間も座って待たねばならず、その夜のうちに多くの人が低体温症で死亡した[122]

さらに遠いところでは、他の18艘の救命ボートがいた(そのほとんどには空席があった)が、泳いでいる人々を救助するために何をすべきか乗船者同士で議論しながら漂い続けていた。4番ボートは沈没現場から50メートルほど離れた場所に留まっており、沈没箇所の最もそばにいた。このため、船が沈む前に2人がボートに飛び降り、さらにもう1人を海から拾うことができた[157]

沈没後に7人を海から引き上げたが、2人は後に死んでしまった。折りたたみボートDは降ろされた直後、海に飛び込んでボートまで泳いだ男性乗客を救助した。残りのボートは転覆を恐れ、戻らないことに決めた。もっとぶっきらぼうに反対した者もいた。6番ボートを指揮していた操舵員ヒッチェンスは自分のボートに乗っている女性たちに、「あそこにはたくさんの死体があるだけ」だから戻っても無駄だと言った[158]

20分ほどたって、泳いでいる者たちは意識を失っていったため、叫びは消え始めた[159]。14番ボートに乗っていた五等航海士ロウは叫びが収まってから水中の人々の救出に向かった[160]。5艘の救命ボートを集め、乗船者を移して14番に空きを作った。ロウは7人のクルーとボランティアの男性客1人を集めて、沈没した場所に漕ぎ戻った。これには45分ほどかかった。14番ボートが沈没箇所に戻った頃には、水中の者はほぼ皆亡くなり、声はわずかしか聞こえなかった[161]。ロウのクルーは4人の男性がまだ生きているのを見つけたが、そのうちの1人は直後に亡くなった。

他のボートでは、救助船が来るのを待つ以外、生存者は何もできなかった。刺すような寒さで、浸水したボートもあった。生存者はボートにまったく食べものや飲み水がないと知り、また灯りもほとんどなかった[162]。折りたたみボートBは状況が特に悪く、ひっくり返った船体の裏で少しずつ小さくなっていくエアポケットのおかげで浮いているというような有様であった。夜明けが近づくと風が起こり、海がどんどん荒れるようになったため、折りたたみボートの人々はバランスを保つために立たねばならなくなった。苦難に疲れ果て、海に落ちて溺れた者もいた[163]。残った者たちにとっても、波をかぶりながら船殻でバランスを取ることが困難になっていった[164][165]。泳いで折りたたみボートAにたどり着いた者の中には、ボートの上に登るだけの体力が残っていなかった者もおり、ボートの脇につかまるしかなかった。夜の間に亡くなった人々の遺体の多くは、生存者の場所を空けるため海に落とされた。

救助と出発 (4時10分–9時15分)

1912年4月15日の朝にカルパチアから撮影された折りたたみボートD。

タイタニックの生存者は、4月15日の4時00分頃にカルパチアによって救助された。カルパチアは多数の氷山を避けつつ、最高速でかなりの危険を冒してやってきた[164]。3時30分頃、カルパチアの船灯がはじめて目撃されてからは生存者の士気が非常に上がったが、全員がカルパチアに乗り込むまでにはさらに何時間もかかった[164]

折りたたみボートBに乗っていた30人以上の人々は結局他の2つの救命ボートに乗り込むことができたが、移乗が済む直前に1人が亡くなった[166]。折りたたみボートAでも問題が起こっていた。ほとんど波に洗われたも同然の状態であったため、かなり多く、おそらくは半分以上の乗船者がその夜のうちに亡くなった[151]。残った生存者の数は不明で、10~11人から20人以上の間くらいの数の男性と、1人の女性と考えられているが、折りたたみボートAから他の救命ボートに移動した。折りたたみボートAには3人の遺体が残り、海に浮かんで漂うままに残された。1か月後、遺体がまだ乗っている状態でホワイト・スター・ラインの船「オーシャニック」に発見された[166]

カルパチアに乗っていた人々は、日の出とともに目撃した氷だらけの海の光景に大変驚いた[167]。カルパチアのアーサー・ロストロン船長は、200フィート (61 m)以上ある20もの大きな氷山と多数の小さな氷山、浮氷、タイタニックの瓦礫からなる氷だらけの海を目撃した[167]。カルパチアの乗客には、自分たちの船は大きな白い氷原のど真ん中にいて、遠くには丘のような氷山が点在しているように見えたという[168]

カルパチアの救助(絵葉書)

救命ボートがカルパチアのそばに寄り、生存者はさまざまな方法でカルパチアに乗った。ロープばしごを登る体力がある者もいたが、そうでない者は吊り索で、子供は郵便袋で引き上げられた[169]。最後に船にたどり着いたのはライトラーの12番ボートで、定員65人に対し74人も乗っていた。この最後の生存者たちも9時00分までには全員カルパチアに移った[170]。助かった者たちには家族や友人と再会を果たす場面もあったが、ほとんどの場合は親しい者を見つけられずに、希望が潰えることとなった[171]

9時15分にもう2隻、マウント・テンプルとカリフォルニアンが到着した。カリフォルニアンは無線オペレーターが仕事に戻った時にやっと事故を知った。しかしながらこの頃までには既に救助が必要な生存者はいなくなっていた。カルパチアはオーストリア=ハンガリー帝国のフィウメ(現在のクロアチアリエカ)に行く予定であったが、生存者に提供する備蓄も医療設備もなかったため、ロストロン船長は、生存者が適切な保護を受けられそうな場所であるニューヨークへ戻る航路を検討するよう命じた[170]。カルパチア号は現場を出て、他の船は最後に2時間捜索を行ったが、成果はなかった[172][173]


注釈

  1. ^ 2017年時点ではドニャ・パス号(異説あり)、ジョラ号江亜(戦没艦を含めるとゴヤヴィルヘルム・グストロフ)の事故の犠牲者数が上回っている。

出典

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