高山寺 歴史

高山寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/24 09:49 UTC 版)

歴史

高山寺のある栂尾は、紅葉の名所として知られる高雄山神護寺からさらに奥に入った山中に位置し、古代より山岳修行の適地として小寺院が営まれていたようである。今の高山寺の地には、奈良時代から「度賀尾寺」「都賀尾坊」などと称される寺院があり、宝亀5年(774年)、光仁天皇の勅願で建立されたとの伝えもあるが、当時の実態は明らかでない。平安時代には近隣の神護寺の別院とされ、神護寺十無尽院(じゅうむじんいん)と称されていた。これは、神護寺本寺から離れた隠棲修行の場所であったらしい。

高山寺の中興の祖であり、実質的な開基とされるのは、鎌倉時代華厳宗の僧、明恵である。明恵房高弁は承安3年(1173年)に紀伊国有田郡(現・和歌山県有田川町)で生まれた。父は平重国という武士であり、母は紀州の豪族湯浅氏の娘であった。幼時に両親を亡くした明恵は9歳で生家を離れ、母方の叔父に当たる神護寺の僧・上覚のもとで仏門に入った。

明恵は法然の唱えた「専修念仏」の思想を痛烈に批判し、華厳宗の復興に努めた。「専修念仏」とは、仏法が衰えた「末法」の時代には、人は菩提心(さとり)によって救われることはなく、念仏以外の方法で極楽往生することはできないという主張であり、これは菩提心や戒律を重視する明恵の思想とは相反するものであった。ただし、明恵はこうした批判をしたにもかかわらず、法然その人とは終生交誼を絶やすことはなかった。

明恵は建永元年(1206年)11月、34歳の時に後鳥羽上皇から栂尾の地を与えられ、また寺名のもとになった「日出先照高山之寺」の勅額を下賜された。この時が現・高山寺の創立と見なされている。「日出先照高山」(日、出でて、まず高き山を照らす)とは、「華厳経」の中の句で、「朝日が昇って、真っ先に照らされるのは高い山の頂上だ」という意味であり、そのように光り輝く寺院であれとの意が込められている。

また明恵は、鎌倉時代初期に臨済宗の開祖栄西から茶の種を貰い、当寺の境内に植えたという伝承がある。この地で栽培された茶は、栄西が南宋へ留学した際にそこで種子を得て、帰国後に明恵の求めに応じて贈ったものと伝える。明恵はこれを初めは栂尾山の深瀬に植え、明恵が没した後も栂尾において栽培が続けられた。また宇治の民の願いによって明恵が宇治に種を撒き、宇治その他の土地に広まったとも伝える。

なお、この栂尾産の茶は鎌倉時代後期にはその味わいの良さが評判となり、金沢貞顕ら東国の武士たちまで争って求めるほどの高評価を得た。このため室町時代初中期に盛んに行われた闘茶においては、「我が朝の茶の窟宅は、栂尾をもて本となすなり」(『異制庭訓往来』)として栂尾産の茶を「本茶」と呼び、その他の地で産出したものを「非茶」と呼んだ[2]

承久元年(1219年)に建立された本堂には、運慶作の丈六盧舍那仏が置かれたというが、室町時代に焼失している。

高山寺は中世以降、たびたびの戦乱や火災で焼失し、鎌倉時代の建物は石水院を残すのみとなっている。

1966年昭和41年)に、当寺は仁和寺当局による双ヶ丘の売却に抗議して真言宗御室派から離脱し、以後は真言宗系の単立寺院となった。


  1. ^ 寺名については、寺の公式サイトでは「こうんじ」と読んでいるが、文化庁の「国指定文化財等データベース」を含め既存の多くの資料において「こうんじ」と読まれ、世界遺産「古都京都の文化財」の登録時の名称もKozan-jiと表記されている(参照:ユネスコのサイトの「古都京都の文化財」のページ(mapsの項にKozan-jiとある。))。以上により、本項では両方の読みを併記する。
  2. ^ ただしこの「本茶」「非茶」は味の評価には関係がなく(つまり本茶がうまく非茶がまずいという意味でなく)、単に産地による呼び名の違いであった。
  3. ^ この「日本最古」は検証されておらず、古くは平安京大内裏に「茶園」が設けられていたし、大津市坂本にも平安時代初期に始まったという「日本最古の茶園」が現存する。栄西も帰国してすぐに九州の背振山地「石上(いわかみ)」に茶の種を蒔いたとの伝えもあり、また平戸市の茶畑には「栄西禅師遺跡の茶畑」との石碑が建つ。現在高山寺境内にある茶畑は、昭和40年代に明恵の功績を讃えるべく宇治の茶業関係者によって整備されたものであるが、当時の茶園跡が山内に現存している。
  4. ^ 平成13年6月22日文部科学省告示第110号
  5. ^ 平成18年6月9日文部科学省告示第79号
  6. ^ 東京国立博物館編『東京国立博物館図版目録彫刻編』、大塚巧藝社、1999、p.151
  7. ^ 法宝重光——日本高山寺旧藏宋版《辨非集》价值浅析”. 西泠印社拍卖有限公司. 2015年5月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年11月2日閲覧。
  8. ^ “重文が100点以上不明 一部は中国に流出? 文化庁緊急調査 国宝発見も把握せず”. 産経新聞. (2013年11月2日). https://www.sankei.com/article/20131102-SA6QJB4HIRL4VLKPUYCR2M6XYM/ 
  9. ^ 『重要美術品等認定物件目録』、思文閣、1972、p.73
  10. ^ 羽田亨「日本に伝はる波斯文に就て」『羽田博士史学論文集 下巻 言語・宗教篇』東洋史研究会、1958年、206-214頁。doi:10.20676/00000267 
  11. ^ 杉田英明『日本人の中東発見――逆遠近法のなかの比較文化史』東京大学出版会、1995年6月20日、25-34頁。ISBN 4-13-025022-1 


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