西夏学 西夏学の概要

西夏学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/18 02:15 UTC 版)

タングート人は中国北西部に西夏(1038〜1227)を建国したが、やがてモンゴル帝国により倒された。1036年に考案された西夏文字は、西夏・(1271〜1368)の時代に、刊本や記念碑の碑文に広く使用されたが、(1368〜1644)の時代に西夏語は絶滅した。知られている最新の西夏語の記録例は、河北省保定市の寺院の2本の石幢英語版に書かれた1502年付けの仏典の碑文である[3][4](1644〜1911)の時代までに、西夏語と西夏文字の知識はすべて失われ、西夏文字の例や説明は、・元・明王朝の現存する中国語の本に保存されていなかった。19世紀に入って、西夏語と西夏文字が再発見された。

西夏学の誕生

西夏語の最も早い確認

14世紀半ば、北京近郊の居庸関雲台中国語版内壁に刻まれた西夏語の仏典

近現代で最も早く西夏文字が確認されたのは、1804年に中国の学者張澍(1781〜1847)が甘粛省武威市の護国寺にある重修護国寺感通塔碑中国語版という石碑に刻まれた、中国語と西夏語が併記された碑文中の中国語で書かれた部分に西夏の年号があることを発見し、それに対応する碑文に書かれた未知の文字は西夏文字であり、したがって、北京北方の万里の長城居庸関雲台中国語版にある同じ文体の未知の文章も、西夏文字に違いないと結論付けた時である[1]

ただし、張澍が西夏文字を確認したことはあまり知られておらず、半世紀以上後になっても、学者たちはまだ雲台に見られる未知の文字が何であるかについて議論していた。1343年〜1345年に仏塔の基壇として建立された雲台には、6つの異なる文字(漢字サンスクリットを表記したランジャナー文字パスパ文字チベット文字ウイグル文字、西夏文字)で仏典が刻まれているが、当時の中国や西洋の学者に知られていたのは前の5種の文字だけであった。1870年、アレクサンダー・ワイリー英語版(1815〜1887)は、未知の文字は女真文字であると主張する「An ancient Buddhist inscription at Keu-yung Kwan(居庸関の古代仏教碑文)」と題した有力な論文を書いたが、スティーヴン・ウートン・ブッシェル英語版(1844-1908)がその未知の文字が実はタングートであることを決定的に証明する論文を発表したのは、1899年になってからだった[5]

西夏語の仮解読

ブッシェルによる37の西夏文字の解読

1868年から1900年にかけて北京の英国公使館の医師を務めたブッシェルは、熱心な貨幣学者で、西夏国が発行した西夏文字が刻まれた多数のコインを収集した。これらのコインの銘文を読むために、彼は涼州の中国語と西夏語の二言語表記の石碑を比較することで、できるだけ多くの西夏文字を解読しようとした。1896年、彼は37の西夏文字と中国語で対応する意味を載せた表を公開し、これを鍵として、西夏のコインの4文字の碑文を「大安時代(1076〜1085)の貴重なコイン(中国語の大安寶錢 (Dā'ān Bǎoqián)に対応)」として解読することができた[6]。長さ4文字ではあるが、未知の西夏語の文章が翻訳されたのはこれが初めてだった[7]

ブッシェルが西夏の貨幣の銘文解読に取り組んでいたのとほぼ同時期に、北京にあったフランス公使館の外交官ジャン=ガブリエル・デヴェリア英語版は、西夏語-中国語の二言語表記の涼州碑を研究しており、死の前年である1898年に、西夏文字と涼州碑に関する二つの重要な論文を発表した。

北京のフランス公使館通訳ジョルジュ・モーリス(Georges Morisse)が中国で西洋人三人目となるタングートの研究に着手し、法華経 (サンスクリット:Saddharma Puṇḍarīka Sūtra)の中国語版のテキストと、義和団の乱後の1900年に北京で発見された西夏語の写本三巻のテキストを比較したことで、西夏文字の解読は進歩を遂げた[8]。西夏語版の経典を対応する中国語版の経典と比較することで、モーリスは約200の西夏文字を同定し、西夏語の文法規則を導き出して1901年に発表した[1][9]

西夏学の発展(1908年から1930年代)

現存する西夏語のテキストと碑文の不足、特に西夏語の辞書や語彙集の欠如は、学者がブッシェルとモーリスによる西夏文字の解読に関する予備的研究を超えることが困難であることを意味した。1908年、ピョートル・コズロフ内モンゴルゴビ砂漠の端にある放棄された西夏の要塞都市カラ・ホトを発見したとき、西夏研究の突破口がついに生まれた。カラ・ホトは明朝初期に突然放棄され、一部は砂に覆われていたため、500年以上にわたってほとんど手付かずのままだった。コズロフは、町の壁の外にある大きなストゥーパの中で、中国語と西夏語を中心とする約2000冊の刊本や写本、多くの西夏仏教美術品を発見し、保存と研究のためにサンクトペテルブルクのロシア地理学協会ロシア語版に送り返した。その後、資料は科学アカデミーのアジア博物館(Asiatic Museum)、後のロシア科学アカデミー東洋研究所サンクトペテルブルク支部(現在の東洋写本研究所英語版)に移された[10]。コズロフによるこの前例のない西夏語資料の発見が、東洋学分野における独立した学問分野としての西夏学の発展につながった[1][2][11]

ロシア

カラ・ホトのタングート仏教絵画

1909年秋にカラ・ホトの資料がサンクトペテルブルクに到着した後、中国学者アレクセイ・イワノヴィチ・イワノフ英語版(1878-1937)は、西夏文字で書かれた何百冊もの本や写本の保存と識別に取り組んだ。程なくして、番漢合時掌中珠英語版 (Fān-Hàn Héshí Zhǎngzhōngzhū)という中国語-西夏語の二言語の語彙集を発見し、それが西夏語を解読するための鍵であることをすぐに理解した。彼は後にカラ・ホトの資料の中で3つの西夏語単一の辞書・用語集、音同(Yīntóng)・文海(Wénhǎi)・雜字(Zázì)を発見した。イワノフは、1909年から1920年にかけて、西夏文字に関する多くの記事を発表した。これは、西夏文字の知識を広めるのに役立ち、他の学者が西夏語を研究するようになった。1916年、イワノフが発行した資料に基づいて、ドイツの東洋学者ベルトルト・ラウファー(1874〜1934)は、いくつかの文字の発音の再構を試みた西夏語の研究を発表し、西夏語はチベット・ビルマ語族ロロ・モソ語派に属すると提唱した[1]

イワノフは番漢合時掌中珠や他の辞書に基づき、約3000の西夏文字からなる短い辞書を編集することができた。辞書は1918年に完成したが、当時の政情不安のために出版されなかった。イワノフは辞書の原稿をアジア博物館に預けたが、1922年に家に持ち帰り、1937年に彼がスターリン大粛清で逮捕・処刑された後に行方がわからなくなった[10]

イワノフに続いてニコライ・アレクサンドロヴィチ・ネフスキー(1892〜1937)が登場した。ネフスキーは1915年から日本に居住し、日本語アイヌ語ツォウ語を研究していたが、1925年にイワノフと中国で出会ったのを機に、カラ・ホトの西夏語のテキストの研究と西夏文字の解読に着手した。1929年にネフスキーはソ連に戻ってレニングラードにある東洋学研究所で働き、カラ・ホトで見つかった語彙資料に基づいて西夏語の辞書編纂に取り組んだ。しかし、1937年の晩秋、辞書出版の準備が整わないうちに日本人の妻とともに逮捕、処刑され、ソ連での西夏語の研究は残酷な終わりを告げた[12]

中国

1912年に古物学者として名高い羅振玉(1866〜1940)はサンクトペテルブルクでイワノフに出会い、同年中国で出版した番漢合時掌中珠から9ページの複製を作ることを許された。彼は1922年に天津でイワノフと再会し、番漢合時掌中珠の完全な複製を入手した。その後1924年に複製は長男の羅福成中国語版(Luó Fúchéng, 1885〜1960)によって出版された。羅福成は1935年に『同音』の最初のファクシミリ版も出版している[1]。羅振玉の三男の羅福萇中国語版(Luó Fúcháng, 1896〜1921)は、家族と西夏への関心を分かち合い、弱冠18歳で西夏文字の有力なハンドブックを執筆した。

中国では西夏語のテキストがさらに発見された。最も顕著なのは、1917年に寧夏霊武で発掘された5つの陶器の壺の中に隠された仏教の経典である。これらのテキストは北平に送られ、中国国家図書館西夏コレクションの中心を形成した。1932年には、これらのテキストに特化した国立北平図書館の紀要の特別号が発行され、中国、日本、ロシアのさまざまな学者ら(羅福成、王静如中国語版石濱純太郎、イワノフ、ネフスキー)による論文が掲載された[1]

他の国々

1920年代後半から1930年代初頭にかけて、ロシアのネフスキー、ドイツのラウファー、中国の王静如(1903〜1990)、アメリカカリフォルニア大学バークレー校スチュアート・N・ウルフェンデン英語版(1889〜1938)を含む多くの学者は、西夏語の音声的特徴のいくつかを再構できる、チベット語の音声の注釈があるカラ・ホトのいくつかの写本に注目した。

一方、イングランドでは、ジェラード・クローソン英語版(1891〜1974)が、1913年から1916年の間にオーレル・スタインがカラ・ホトで収集し、ロンドンの大英博物館に寄託された数千もの西夏語写本の断片の研究を始めていた。1937年から1938年にかけて、クローソンはSkeleton dictionary of the Hsi-hsia language(西夏語の骨格辞書)を書き[13]、2016年にファクシミリで公開された[14]

しかし、極東での日中戦争の激化、ソビエト連邦での政治的弾圧により、1930年代後半に西夏学は中国、日本、ソビエト連邦で停滞した。第二次世界大戦が始まると、ヨーロッパやアメリカでも西夏学が停滞した。


  1. ^ a b c d e f g h Nie, Hongyin (1993). “Tangutology During the Past Decades”. Monumenta Serica 41: 329–347. ISSN 0254-9948. http://bic.cass.cn/english/InfoShow/Arcitle_Show_Forum2_Show.asp?ID=307. 
  2. ^ a b Kessler, Adam T. (2012). Song Blue and White Porcelain on the Silk Road. Volume 27 of Studies in Asian Art and Archaeology. Brill. p. 21. ISBN 9789004218598. https://books.google.com/books?id=iABEQXUfmhIC 
  3. ^ Dunnell, Ruth (1992). “The Hsia Origins of the Yüan Institution of Imperial Preceptor”. Asia Major 5: 85–111. 
  4. ^ a b Ikeda, Takumi (2006). “Exploring the Mu-nya people and their language”. Zinbun (39): 19–147. 
  5. ^ Bushell, S.W. (Oct 1899). “The Tangut script in the Nank'ou Pass”. The China Review 24 (2): 65–68. 
  6. ^ Bushell, S.W. (1895–1896). “The Hsi Hsia Dynasty of Tangut, their Money and Peculiar Script”. Journal of the North China Branch of the Royal Asiatic Society 30: 142–160. 
  7. ^ Nishida, Tatsuo (1966). A Study of Hsi-Hsia Language. Tokyo: The Zauho Press. p. 519 
  8. ^ Pelliot, Paul (1932). “Livres reçus: N. A. Nevskii, Očerk istorii tangutovedenya ("Histoire des études sur le si-hia")”. T'oung Pao 29 (1): 226–229. 
  9. ^ Morisse, M. G. (1901). “Contribution preliminaire à l'étude de l'écriture et de la langue Si-hia”. Memoires présentés par divers savants à l'Académie des Inscriptions et Belles-Lettres 11 (2): 313–379. 
  10. ^ a b Kychanov, Evgenij Ivanovich (1996–2000). “preface”. 俄藏黑水城文献 [Heishuicheng Manuscripts Collected in the St.Petersburg Branch of the Institute of Oriental Studies of the Russian Academy of Sciences]. 1. Shanghai Guji Chubanshe. ISBN 7-5325-2036-6 
  11. ^ Nishida, Tatsuo (2005). “Editor's Preface”. Xixia Version of the Lotus Sutra from the Collection of the St. Petersburg Branch of the Institute of Oriental Studies of the Russian Academy of Sciences. 創価学会. p. 167 ). http://www.iop.or.jp/0515/nishida1.pdf 
  12. ^ a b Kychanov (2005年11月5日). “Tangut Studies at the Institute of Oriental Manuscripts”. 2012年10月26日閲覧。
  13. ^ Clauson, Gerard (1964). “The future of Tangut (Hsi Hsia) studies”. Asia Major 11 (1): 54–77. http://www.ihp.sinica.edu.tw/~asiamajor/pdf/1964/1964-54.pdf. 
  14. ^ Gerard Clauson's Skeleton Tangut (Hsi Hsia) Dictionary: A facsimile edition. With an introduction by Imre Galambos. With Editorial notes and an Index by Andrew West. Prepared for publication by Michael Everson. Portlaoise: Evertype. ISBN 978-1-78201-167-5.
  15. ^ a b c Grinstead, Eric (December 1974). “Hsi-Hsia: News of the Field”. Sung Studies Newsletter 10: 38–42. http://www.humanities.uci.edu/eastasian/SungYuan/JSYS/Archive/SSN10.pdf. 
  16. ^ Nishida, Tatsuo (1986). “西夏語『月々楽詩』の研究”. 京都大学文学部紀要 (Memoirs of the Faculty of Letters Kyoto University) 25: 1–116. 
  17. ^ van Driem, George (2001). Languages of the Himalayas. 1. BRILL. p. 456. ISBN 978-90-04-12062-4 
  18. ^ Shi, Jinbo. “The Pillar of Tangutology: E.I. Kychanov’s Contribution and Influence on Tangut Studies”. In Popova, Irina. Тангуты в Центральной Азии: сборник статей в честь 80-летия проф. Е.И.Кычанова [Tanguts in Central Asia: a collection of articles marking the 80th anniversary of Prof. E. I. Kychanov]. Oriental Literature. pp. 469–480. ISBN 978-5-02-036505-6 
  19. ^ He Lulu 賀璐璐 (2008年5月4日). “古塔廢墟下的宝藏” (Chinese). 中央人民広播電台. 2012年10月23日閲覧。
  20. ^ Shi Jinbo (史金波) (1997). (Chinese)北京圖書館館刊 (Journal of Beijing Library) (1): 67–80. ISSN 1006-9666. 
  21. ^ Gaowa (2007年6月21日). “A Review of Tangut Buddhism, Art and Textual Studies”. 国際敦煌プロジェクト. 2012年10月25日閲覧。
  22. ^ McKay. “Buddhism and State Foundation in Eleventh Century Xia”. International Institute for Asian Studies. 2012年10月26日閲覧。
  23. ^ Kepping, Ksenia (2003). “Zhuge Liang's «The general's garden» in the Mi-Nia translation”. Last Works and Documents. St. Petersburg. pp. 13–24. http://www.kepping.net/pdfs/main/Ksenia_Kepping_Last_Works.pdf 
  24. ^ Grinstead, Eric (October 1972). “The Tangut Tripitaka, Some Background Notes”. Sung Studies Newsletter (6): 19–23. http://www.humanities.uci.edu/eastasian/SungYuan/JSYS/Archive/SSN06.pdf. 
  25. ^ a b c Cook. “Tangut (Xīxià) Orthography and Unicode : Research notes toward a Unicode encoding of Tangut”. 2012年10月23日閲覧。
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  27. ^ Mair, Victor H. (2010–2011). “The Impact of IDP on Dunhuang Studies”. IDP News (International Dunhuang Project) (36–37): 4–5. ISSN 1354-5914. 
  28. ^ IDP Statistics”. International Dunhuang Project. 2012年10月26日閲覧。
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