蘇軾 蘇軾の概要

蘇軾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/27 13:10 UTC 版)

蘇軾
各種表記
繁体字 蘇軾
簡体字 苏轼
拼音 Sū Shì
ラテン字 Su1 Shih4
和名表記: そ しょく
発音転記: スー シー
英語名 Su Shi
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蘇軾(『晩笑堂竹荘画伝』)
『赤壁の月』(月岡芳年『月百姿』)赤壁に遊ぶ蘇軾
黄州寒食詩巻』(部分)蘇軾筆

号は東坡居士(とうばこじ)、子瞻しせんは文忠公。号から蘇東坡そとうばとも呼ばれ、坡公坡仙などの名で敬慕された。

蘇洵の長男で、弟は蘇轍であり、この三名に韓愈柳宗元欧陽脩曽鞏王安石を加えた八人を「古文」の唐宋八大家という[2]。子に蘇邁・蘇迨・蘇過・蘇遯ら。曾孫は蘇公弼(威州刺史)、玄孫娘に耶律楚材の夫人(蘇公弼の娘で、耶律鋳の生母)がいる。

生涯

眉州眉山県(現在の四川省眉山市東坡区)の出身[3]。8歳で道士張士簡の塾に入り勉学に励み、13歳で弟の蘇轍と共に劉巨という人の門徒となり作詩を学んだ[4]。また20歳までの間に経史に博通しており、賈誼や陸贄の書を好んでは、『荘子』を読んで甚く感銘を受けたとされている[5][注釈 1]

嘉祐2年(1057年)22歳のときに弟の蘇轍とともに進士となる[3]。このときの科挙は、欧陽脩が試験委員長を務め、当時はやりの文体で書かれた答案は全て落とし、時流にとらわれない達意の文章のみ合格させるという大改革を断行した試験であり、蘇軾・蘇轍・曽鞏の3名のみ合格した[2]。合格後、地方官を歴任し、英宗の時に中央に入る。この時期に親子三人で唱和し作成した「南行集」は、杜甫梅堯臣の詩を学び五言古詩が多く収録されている。しかし現存しておらず、50巻の詩集(合註本)の巻一に収める42首が面影を残しているのみである[6]治平3年(1066年)に父の蘇洵が亡くなってからは、政界から一度離れ故郷に帰って喪に服す。再び政界に復帰したのは煕寧2年(1069年)、蘇軾34歳であった[7]

次代の神宗の時代になると、唐末五代の混乱後の国政の立て直しの必要性が切実になってきた[8]。その改革の旗手が王安石であり、改革のために「新法」と呼ばれる様々な施策が練られた[8]。具体的には『周礼』に説かれる一国万民の政治理念すなわち万民を斉しく天子の公民とする斉民思想に基づき、均輸法・市易法・募役法・農田水利法などの経済政策や、科挙改革や学校制度整備などの教育政策が行われた[8]。蘇軾は、欧陽脩・司馬光らとともにこれに反対したため[9]、2度にわたり流罪を被り辺鄙な土地へ名ばかりの官名を与えられて追放された[3]

最初の追放は元豊2年(1079年)蘇軾44歳で湖州知州の時代である[3]。国政誹謗の罪を着せられて逮捕され、厳しい取り調べを受ける事になる。この時、御史台の取り調べの際に蘇軾が残した供述書は、後に「烏台詩案」と呼ばれ、問題とされた蘇軾の作品への彼自身の解釈が述べられている。この「烏台詩案」を書き残した時は死を覚悟していたが、神宗の特別の取り計らいで黄州へ左遷となった[3]

左遷先の土地を東坡と名づけて、自ら東坡居士と名乗った。黄州での生活は足かけ5年にも及び、経済的にも自ら鋤を執って荒地を開墾するほどの苦難の生活だったが、このため彼の文学は一段と大きく成長した[3]。流罪という挫折経験を、感傷的に詠ずるのではなく、彼個人の不幸をより高度の次元から見直すことによって、たくましく乗り越えようと努めた[3]。平生の深い沈思の結果が、彼に現実を超越した聡明な人生哲学をもたらした[3]。この黄州時代の最大の傑作が『赤壁賦』である。赤壁は、三国時代の有名な古戦場であり、西暦208年と蜀の連合軍が、圧倒的な数を誇るの水軍を破ったことで知られる[3]。ただし合戦のあった赤壁は、黄州から長江を遡った南岸の嘉魚県の西にあり、蘇軾が読んだ赤壁は実際の古戦場ではない。史跡を蘇軾が取り違えたのではなく、古くからそこを合戦の場だとする民間伝承があったと思われる[3]

元豊8年(1085年)に神宗が死去し、哲宗が即位すると、幼い哲宗に代わって宣仁太后高氏の垂簾朝政が8年間続く。彼女の後押しも有って旧法党の官僚は要職に就き、元豊9年(1086年)に司馬光は宰相となる。蘇軾も同時期に名誉を回復され50歳で中央の官界に復帰し、中書舎人・翰林学士などを経て、礼部尚書まで昇進した[10]。新法を全て廃止する事に躍起になる宰相・司馬光に対して、新法でも募役法のように理に適った法律は存続させるべきであると主張して司馬光と激しく論争し、次第に旧法派の内部の分裂が見られるようになる。

司馬光の死後は対立が先鋭化し、蘇軾・蘇轍兄弟を中心にした蜀党(四川派)と、程頤程顥兄弟の洛党(洛陽派)、朔党(北方派)の三つの派閥が党争を起こす事になる。蘇軾は保守派に対し公平な批判的意見を述べたことにより、攻撃の的とされ、地方と朝廷を転々として逃れていた。宣仁太后高氏の寵愛があっても確固たる地位につかなかったのはこのことが原因であった[11]

紹聖元年(1094年)に再び新法派が力を持つと蘇軾は再び左遷され(この時59歳)、恵州に流され、さらに62歳の時には海南島にまで追放された[10]。二度目の追放である。黄州時よりもより高い役職に就いていたために、左遷時の罰も重かった。それでも飽き足りなかった朝廷側は、場所をさらに恵州から昌化軍(現在の海南島西部)に移した。熱帯環境の海南島は先住民族の黎族の居住地であり、漢民族に沿って異郷ともいえる環境で侘しい生活を送る[12]

66歳の時、哲宗が死去し、徽宗が即位するにおよび、新旧両党の融和が図られると、ようやく許された。提挙玉局観という名誉職を授けられたが、都に向かう途中病を得て、常州で死去した。しかし、この苛酷な運命にあっても、彼の楽天性は強靭さを失わず、中国文学史に屹立する天性のユーモリストであった[10]

蘇軾の伝記は、蘇軾の死後まもなく弟の蘇轍が書いた長文の墓誌銘「亡兄子瞻端明墓誌銘」が最も確実な資料である。『宋史』巻338の列伝は、ほぼこの墓誌銘に基づく[4]

詩人として

蘇軾は北宋代最高の詩人とされ、その詩は『蘇東坡全集』や注釈が充実している『蘇軾全集校注』に纏められている。
通釈は主に『蘇東坡 漢詩大系 第17巻』(近藤光男訳、集英社、初版1964年)による。

題西林壁(西林の壁に題す)
原文 書き下し文 通釈
横看成嶺側成峰 横より見れば嶺を成し、傍らよりは峰となる 正面から眺めると尾根続きの嶺みね、側面へ回って眺めると切り断った峰となる
遠近高低各不同 遠近・高低いつも同じきは無し 廬山は眺める位置の遠近高低によってそれぞれ違った姿に見える
不識廬山真面目 廬山の真面目を知らざるは 廬山そのものの誠の姿はどうなのか、さっぱりわからないのは
只縁身在此山中 只だ身の此の山中に在るに縁る 自分が廬山の中に身を置いているからである

詩風

生涯で二度左遷を味わい、新法党に対する批判者扱いとされていた蘇軾は、自身の考えをあからさまに述べることが出来なかった期間が長かった。しかし、実際の詩文を読んでみると、柔軟でしなやかであり、芯が強い。強く生き貫こうとする志が表れているのである[13]

また蘇軾は、自然を好み自然(造物)に自身の心情を託している。宋代に入り自然描写を含んだ詩が多く出てきているが、擬人法を用いて早い時期から習得し成立させていたのが蘇軾であった。擬人法の先例として、次の句が挙げられる[14]

新城道中二首の一
原文 書き下し文 通釈
東風知我欲山行 東風は我が山行せんと欲するを知りて 春風はわたくしが山歩きをしようとしているのを悟ってか
吹斷簷間積雨聲 吹斷す、簷間の積雨の聲を 軒端に積もっていた淋雨の音を、今日はすっかり吹き払ってくれる

蘇軾と弟・蘇轍

蘇軾と蘇轍は兄弟愛に溢れた人物たちであった。父蘇洵と兄弟で都に上京してから、同じ科挙合格者として政治の世界に入った。時には兄の地方役職の赴任の際に70キロ先まで見送りをし[15]、またある時には支持していた旧法党が崩れ、兄弟ともに左遷を味わう[16]。蘇軾は人生で多くの詩を残しているが、その多くは弟に向けた離別詩が多い。以下の詩は弟と初めて離れた時に詠まれた詩である。

辛丑十一月十九日 既與子由別於鄭州西門之外 馬上賦詩一篇寄之(辛丑十一月十九日 既に子由と鄭州の西門の外に別れ 馬上に詩一篇を賦して之に寄す)
原文 書き下し文 通釈
不飲胡為酔兀兀 飲まざるに胡為ぞ酔うて兀兀たる 酒を飲んだわけでもないのにどうしてこう酔っぱらった時のようにふらふらするのだろう
此心已逐帰鞍發 此の心已に帰鞍を逐うて發つ わたしの心はすっかり都へ帰っていく君の馬の鞍の後を逐って抜け出しているに違いない
帰人猶自念庭闈 帰人猶ほ自ら庭闈を念ふ 帰っていく君は何と言っても親の膝元に戻ることを心頼みに出来ようが
今我何以慰寂寞 今我何を以てか寂寞を慰めん 今わたしは何によって心の寂しさを紛らわせよう
登高囘首坡壠隔 高きに登りて首を囘らせば坡壠隔つ 高みに登って都の方を振り返って見ると一つの丘が遮っている
但見烏帽出復沒 但だ見る烏帽の出でて復没するを ただ君が被る烏帽だけが出たり隠れたりするのが見えるだけだ
苦寒念爾衣裘薄 苦寒に念ふ爾が衣裘を薄くして 冬の激しい風雪のある旅で君の着物が薄くはないかと気にかかり
獨騎痩馬踏残月 獨り痩馬に騎って残月を踏むを 夜明け前の旅立ちにひとり痩せ馬にまたがって残月の影を踏んでいく君を想う
路人行歌居人楽 路人は行く行く歌ひ居人は楽しむ 旅人は歌を口ずさみつつ行きかい家におる人は楽しげである
童僕怪我苦悽惻 童僕は我が苦だ悽惻するを怪しむ しかししもべたちはわたしだけひどく悲しげな顔をしているのをいぶかっている
亦知人生要有別 亦た知る人生要ず別れ有ることを また分かっている人生に別れはつきものだということを
但恐歳月去飄忽 但だ恐る歳月去ること飄忽なるを ただ恐れる年月が風のように早く過ぎ去ってしまうことを
寒燈相對記疇昔 寒燈に相對せし疇昔を記す 頼りないともし火の光のもとに向かい相語り明かした昨夜のことはいつまでも思い出に残るだろう
夜雨何時聴簫瑟 夜雨何れの時にか簫瑟を聴かん 二人で床を並べてそぼふる夜の雨の音を静かに聞ける日はいつになったら来るのか
君知此意不可忘 君此の意の忘るべからざるを知らば 君もこの願いこそ二人の心にとどむべきものだとはお判りでしょうが
慎勿苦愛高官職 慎んで高き官職を苦しく愛すること勿れ それならどうか高い官職を極度に好むことなどないようにしてほしい

※「子由」は蘇轍のこと。

蘇軾と王安石

蘇軾の散文や詩は柔軟でしなやかであり、芯が強いのが特徴である。一方で、同時代に活躍し政治的にも対立をしていた王安石の散文は、明快で硬質な文体であった。人生も文体の特徴も正反対な両者は交わることのない関係に思われるが、詩文を通じた交流が有った。要職を退いた後の王安石は蘇軾に対して以下の七言絶句を送っている。

北山
原文 書き下し文 通釈
北山輸緑漲横陂 北山緑を輸横陂漲る 北山は緑豊かに田んぼには水がみなぎっている
直塹回塘艶艶時 直塹、回塘、艶艶たる時 真っ直ぐな堀、丸い池が艶やかな季節
細數落花因坐久 細かに落花を數ふるは坐すること久しきに因る 落花をひとつひとつ数えたのも君と長くいたおかげである
緩尋芳草得歸遲 緩やかに芳草を尋ねて歸ること遅きを得たり ともに遅くまで芳草を訪ねて歩いたものだ

蘇軾はこれに対して

次荊公韻(荊公の韻に次す)
原文 書き下し文 通釈
騎驢渺渺入荒陂 驢に騎って渺渺として荒陂に入る ロバに乗ってはるばる旅を続けてきて荒涼とした池のつつみに入った
想見先生未病時 想見す先生の未だ病まざりし時を ふと、君の病気前の元気なお姿が目に浮かんだ
勧我試求三畝宅 我に勧めて試みに三畝の宅を求めしむ 君はわたくしにこの地に三畝ほどの宅地を探してご覧になってはと勧めるが
従公已覚十年遅 公に従うこと已に十年遅きを覚ゆ 君に従って教えを受けるのがすでに十年遅すぎたとつくづく思う

と、答えている。

※「荊公」は王安石のこと。

上に挙げた詩のほかにも、成語「一刻千金」の元となった[17]春夜などが知られている。


注釈

  1. ^ 『荘子』を読んだ蘇軾は、「吾昔有見、口未能言、今見是書、得吾心矣。」と述べている。
  2. ^ 『的対』には、「東坡之妹,少游之妻也。」とある。
  3. ^ 元版は「漢詩大系17 蘇東坡」集英社、1964年
  4. ^ 元版は「中国詩人選」集英社、1966年
  5. ^ 巻十六まで(未完結)
  6. ^ 六巻目後半は、弟蘇轍の注解

出典

  1. ^ Su Shi Chinese author Encyclopædia Britannica
  2. ^ a b 興膳宏『中国名文選』(初版)岩波新書、2008年、182頁。ISBN 9784004311133 
  3. ^ a b c d e f g h i j 興膳宏『中国名文選』(初版)岩波新書、2008年、183頁。ISBN 9784004311133 
  4. ^ a b 小川環樹、山本和義『蘇東坡集』(再版)朝日新聞社〈中国文明選2〉、1977年、2頁。 
  5. ^ 『宋史』 巻338〈蘇軾列伝第97〉、10801頁。 
  6. ^ 近藤光男『蘇東坡』(初版)集英社〈漢詩大系17〉、1964年、30頁。 
  7. ^ 『宋史』 巻338〈蘇軾列伝第97〉、10802頁。 
  8. ^ a b c 井ノ口哲也『入門中国思想史』(初版)勁草書房、2011年、97頁。 
  9. ^ 井ノ口哲也『入門中国思想史』(初版)勁草書房、2011年、98頁。 
  10. ^ a b c 興膳宏『中国名文選』(初版)岩波新書、2008年、200頁。ISBN 9784004311133 
  11. ^ 小川環樹、山本和義『蘇東坡集』(再版)朝日新聞社〈中国文明選2〉、1977年、8頁。 
  12. ^ 小川環樹、山本和義『蘇東坡集』(再版)朝日新聞社〈中国文明選2〉、1977年、9頁。 
  13. ^ 小川環樹、山本和義『蘇東坡集』(再版)朝日新聞社〈中国文明選2〉、1977年、11頁。 
  14. ^ 小川環樹『風と雲‐中国文学論集‐』(初版)朝日新聞社、1972年、58頁。 
  15. ^ 近藤光男 訳『蘇東坡』(初版)集英社〈漢詩大系17〉、1964年、30頁。 
  16. ^ 近藤光男 訳『蘇東坡』(初版)集英社〈漢詩大系17〉、1964年、178頁。 
  17. ^ 佐藤正光『愛 そのさまざまな形 自然への愛』NHK出版〈NHKカルチャーラジオ 漢詩をよむ〉、2019年、23-24頁。ISBN 978-4149110073 
  18. ^ 木村卜堂『日本と中国の書史』(初版)日本書作家協会、1971年、171-173頁。 
  19. ^ 西川寧ほか『書道辞典』(初版)二玄社〈書道講座 第8巻〉、1969年、31頁。 
  20. ^ 藤原鶴来『和漢書道史』(初版)二玄社、2005年8月、132-133頁。ISBN 454401008X 
  21. ^ 鈴木翠軒、伊東参州『新説和漢書道史』(初版)日本習字普及協会、1996年11月、69-70頁。 
  22. ^ 『定本湛然居士文集』巻十二 励景賢より
  23. ^ 『正法眼蔵』渓声山色巻の提唱より
  24. ^ 飯田利行 訳『禅喜集』 上(初版)、国書刊行会、2003年、1頁。 
  25. ^ 飯田利行 訳『禅喜集』 下(初版)、国書刊行会、2003年、259頁。 
  26. ^ 蘇洵『祭亡妻文』:“有子六人,今誰在堂?惟軾與轍,僅存不亡。”
  27. ^ 欧陽脩『蘇明允墓誌銘』:“生三子:曰景先,早卒;軾,今為殿中臣直史館;轍,權大名府推官。三女皆早卒。”
  28. ^ 蘇洵『自尤(并叙)』:“蓋壬辰之歳而喪幼女,始将以尤其夫家,而卒以自尤也。女幼而好学、慷慨有過人之節、爲文亦往往有可喜。既適其母之兄程濬之子之才、年十有八而死。而濬本儒者、然内行有所不謹、而其妻子尤好爲無法。吾女介乎其間、因爲其家之所不悦。適會其病、其夫与其舅姑遂不之視而急棄之、使至于死。始其死時、余怨之、雖尤吾之人亦不直濬。獨余友發聞而深悲之、曰:‘夫彼何足尤者!子自知其賢、而不撰以予人,咎則在子、而尚誰怨?’予聞其言而深悲之。其後八年、而予乃作自尤詩。”
  29. ^ 蘇軾『乳母任氏墓誌銘』:“乳亡姊八娘及軾。”
  30. ^ 袁枚『隨園詩話』:“東坡止有二妹;一適柳,一適程也。今俗傳爲秦少游之妻,誤矣!”
  31. ^ 蘇轍『祭亡兄端明文』:「念我伯仲、我處其季。」
  32. ^ a b 榊莫山『文房四宝 墨の話』角川書店〈角川選書〉、1998年、19-22頁。ISBN 4-04-703293-X 


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