玉の海正洋
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主な成績
通算成績
- 通算成績:619勝305敗 勝率.670
- 幕内成績:469勝221敗 勝率.680
- 横綱成績:130勝20敗 勝率.867
- 大関成績:206勝94敗 勝率.687
- 現役在位:76場所
- 幕内在位:46場所
- 横綱在位:10場所
- 大関在位:20場所
- 三役在位:6場所(関脇4場所、小結2場所)
- 年間最多勝:1968年(69勝21敗)、1970年(75勝15敗・北の富士と同数)
- 連勝記録 :19(1971年7月場所初日 - 1971年9月場所4日目)
- 連続6場所勝利:84勝(1970年9月場所 - 1971年7月場所)
- 通算幕内連続勝ち越し記録:27場所(当時1位・2015年現在歴代6位、1967年5月場所 - 1971年9月場所)
- 幕内連続2桁勝利記録:9場所(1967年11月場所 - 1969年3月場所)
- 幕内連続12勝以上勝利:7場所(当時2位タイ・現在歴代7位タイ、1970年9月場所 - 1971年9月場所)
横綱10場所の成績は130勝20敗、1場所平均13勝2敗という恐るべき成績である。特に1970年9月場所以降に限っては96勝9敗、勝率は9割1分4厘に跳ね上がる。横綱在位中の勝率.867は、昭和以降では双葉山定次、白鵬翔に次ぐ第3位であり、その相撲の完成形を見ることが出来なかったのは考えられた以上に大きな損失だった。
生涯最後となった1971年9月場所では通算(幕内)連続勝ち越しが27場所におよび、玉錦の26場所を超える歴代新記録を達成していた(現在は歴代6位[注 10])。
横綱昇進後与えた金星は僅か3個(福の花孝一2個、藤ノ川武雄1個)で、中日(8日目)までの7日間に黒星を喫することは滅多に無かった。さらに1970年9月場所 - 1971年7月場所で、当時の最多記録である「6場所連続幕内中日勝ち越し」も達成していた[注 11]。一方で千秋楽の本割には分が悪く3勝7敗(特に北の富士が相手の場合は1勝5敗だった)。
各段優勝
- 幕内最高優勝:6回(1968年5月場所、1969年9月場所、1970年9月場所、1970年11月場所、1971年3月場所、1971年7月場所)[1]
- 全勝優勝:1回(1971年7月場所)
- 同点 2回
- 次点 9回
- 序二段優勝:1回(1959年7月場所)
三賞・金星
- 三賞:6回
- 殊勲賞:4回(1965年3月場所・5月場所、1966年7月場所・9月場所)
- 敢闘賞:2回(1966年1月場所・5月場所)
- 金星:4個(栃ノ海2個、佐田の山2個)
場所別成績
一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
|
---|---|---|---|---|---|---|
1959年 (昭和34年) |
x | (前相撲) | 西序ノ口27枚目 6–2 |
西序二段105枚目 優勝 8–0 |
東三段目104枚目 5–3 |
西三段目72枚目 4–4 |
1960年 (昭和35年) |
西三段目71枚目 4–4 |
東三段目61枚目 5–3 |
西三段目40枚目 6–2 |
西三段目9枚目 3–4 |
西三段目19枚目 6–1 |
西幕下77枚目 4–3 |
1961年 (昭和36年) |
東幕下70枚目 5–2 |
東幕下48枚目 6–1 |
東幕下22枚目 4–3 |
東幕下20枚目 5–2 |
東幕下14枚目 3–4 |
西幕下18枚目 4–3 |
1962年 (昭和37年) |
東幕下17枚目 4–3 |
東幕下15枚目 4–3 |
西幕下11枚目 4–3 |
西幕下8枚目 1–6 |
東幕下27枚目 4–3 |
西幕下22枚目 3–4 |
1963年 (昭和38年) |
西幕下25枚目 6–1 |
西幕下14枚目 4–3 |
東幕下12枚目 6–1 |
東幕下4枚目 6–1 |
東十両18枚目 9–6 |
西十両15枚目 10–5 |
1964年 (昭和39年) |
西十両4枚目 11–4 |
東前頭15枚目 9–6 |
西前頭9枚目 8–7 |
西前頭6枚目 8–7 |
西前頭4枚目 8–7 |
西前頭筆頭 9–6 |
1965年 (昭和40年) |
東小結 5–10 |
東前頭3枚目 9–6 殊★★ |
西小結 8–7 殊 |
西関脇 6–9 |
西前頭筆頭 7–8 ★ |
西前頭2枚目 4–11 |
1966年 (昭和41年) |
西前頭8枚目 13–2 敢 |
東前頭筆頭 9–6 ★ |
西関脇 10–5 敢 |
西関脇 9–6 殊 |
東関脇 11–4 殊 |
西大関 9–6 |
1967年 (昭和42年) |
西大関 9–6 |
西大関 7–8 |
西大関 8–7 |
東大関 9–6 |
西大関 9–6 |
西大関 11–4 |
1968年 (昭和43年) |
東大関 12–3 |
東大関 12–3 |
東大関 13–2 |
東大関 10–5 |
西大関 10–5 |
東大関 12–3 |
1969年 (昭和44年) |
東大関 12–3 |
東大関 10–5 |
西大関 8–7 |
西張出大関 9–6 |
西張出大関 13–2 |
東大関 10–5 |
1970年 (昭和45年) |
西大関 13–2[注 12] |
西横綱 13–2 |
東張出横綱 12–3 |
東張出横綱 9–6 |
西横綱 14–1 |
東横綱 14–1[注 13] |
1971年 (昭和46年) |
東横綱 14–1[注 13] |
東横綱 14–1 |
東横綱 13–2 |
西横綱 15–0 |
東横綱 12–3 |
引退 ––[注 14] |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
幕内対戦成績
力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | |||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
青ノ里 | 4 | 3 | 浅瀬川 | 8(1) | 4 | 朝登 | 2 | 0 | 天津風 | 0 | 2 | |||
岩風 | 0 | 1 | 宇多川 | 1 | 0 | 小城ノ花 | 2 | 1 | 海乃山 | 18 | 3 | |||
開隆山 | 5 | 1 | 柏戸 | 14(1) | 10 | 和晃 | 1 | 0 | 北ノ國 | 0 | 1 | |||
北の富士 | 21 | 22* | 北葉山 | 7 | 4 | 清國 | 24 | 15 | 黒姫山 | 4 | 0 | |||
高鉄山 | 10 | 2 | 琴櫻 | 25 | 12 | 佐田の山 | 7 | 12 | 沢光 | 2 | 0 | |||
白田山 | 1 | 0 | 錦洋 | 4 | 0 | 大麒麟 | 21 | 10 | 大豪 | 4 | 3 | |||
大受 | 6 | 0 | 大雪 | 1 | 0 | 大鵬 | 7(1)* | 21* | 大雄 | 6 | 1 | |||
大竜川 | 1 | 0 | 貴ノ花 | 7 | 0 | 高見山 | 15 | 2 | 常錦 | 1 | 0 | |||
鶴ヶ嶺 | 2 | 1 | 時葉山 | 1 | 1 | 栃東 | 7 | 5 | 栃王山 | 5 | 0 | |||
栃光 | 2 | 6 | 栃富士 | 1 | 0 | 羽黒岩 | 7 | 0 | 羽黒川 | 3 | 0 | |||
羽黒山 | 2(1) | 1 | 長谷川 | 20 | 12 | 花光 | 2 | 1 | 廣川 | 2 | 0 | |||
福の花 | 14 | 4 | 房錦 | 1 | 0 | 富士錦 | 7 | 4 | 藤ノ川 | 17 | 2 | |||
二子岳 | 8 | 1 | 前田川 | 4 | 0 | 前の山 | 17 | 8 | 増位山 | 1 | 0 | |||
三重ノ海 | 4 | 1 | 禊鳳 | 2 | 0 | 明武谷 | 12 | 6 | 陸奥嵐 | 17 | 1 | |||
義ノ花 | 8 | 1 | 龍虎 | 13 | 1 | 若杉山 | 1 | 0 | 若秩父 | 2 | 3 | |||
若天龍 | 2 | 2 | 若浪 | 12 | 2 | 若鳴門 | 1 | 1 | 若乃洲 | 1 | 0 | |||
若羽黒 | 2 | 1 | 若二瀬 | 8 | 2 | 若見山 | 5 | 3 | 輪島 | 1 | 0 |
- 他に優勝決定戦で北の富士に1敗、大鵬に1勝1敗がある。
注釈
- ^ この愛称は、玉の海よりもむしろ玉の海のライバルだった北の富士勝昭に対して使われることが多い。
- ^ 1968年5月場所は大鵬が全休、柏戸が8日目から途中休場し、玉の海(玉乃島)は横綱との対戦がなかった。特に、大鵬には大関昇進後この時までまだ1度も勝利していなかった。また、3月場所は5日目、5月場所は7日目までにいずれも2敗を喫していた。
- ^ ただしこの横審で委員長の舟橋聖一が「疑惑を招くような相撲を絶滅して欲しい」と協会に要望し(朝日新聞1970年1月29日付朝刊スポーツ面)、千秋楽の北の富士-玉乃島戦を念頭に八百長の存在を指摘している。
- ^ 玉乃島の横綱昇進について、相撲解説者の神風正一は「当てはまるときに横綱にしてなくて、当てはまらないときにしたのはおかしい」と横審の態度に疑義を呈し、朝日新聞の解説では「意外としかいいようがない」「大鵬に衰微がはっきりしている危機感、北の富士一人を推して重荷を負わせるより「北玉時代」を築くムードづくりなどのいわゆる興行的なねらいもあって諮問した感じがしないでもない」と指摘している(いずれも朝日新聞1970年1月27日付朝刊スポーツ面)。
- ^ ちなみに玉の海の横綱昇進2場所前の成績は10勝5敗であり、これは年6場所制定着後の横綱昇進2場所前の成績としては最低のものであり(参考として柏戸は11勝)、11勝以下ならば綱取りが白紙になるとされる(例として貴乃花光司の項を参照されたい)平成以降の基準ではまず考えられない昇進であった。
- ^ 大鵬は雲龍型だが玉の海とは同門で、当時生存していた不知火型の元横綱は吉葉山(立浪一門)のみであった。
- ^ 梅吉は当時58歳であり、当時の元力士のおおよその平均寿命を考えると無理からぬ問いであった。
- ^ 「腰が軽くなる」と言われ、当時の角界ではタブー視されていた。
- ^ なお、現在の日本の病院では、入院患者の精神的不安に配慮して、病室の番号に「4」を使用することを避ける場合が多くなっている(『四の字』の項目を参照)。
- ^ 現在の連続勝ち越し記録の1位は、通算では武蔵丸光洋の55場所、幕内では白鵬の51場所。
- ^ それから41年後白鵬が2011年1月場所から2012年3月場所まで、「7場所連続幕内中日勝ち越し」を達成し玉の海の6場所を更新。現在「連続幕内中日勝ち越し」の最多記録は同じく白鵬で、2013年3月場所から2014年9月場所の「10場所連続」。
- ^ 北の富士と優勝決定戦。
- ^ a b 大鵬と優勝決定戦。
- ^ 9月場所後の10月11日に死去。
出典
- ^ a b c d e f g h i ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p22。
- ^ ベースボール・マガジン社刊 『相撲』 創業70周年特別企画シリーズ②(別冊師走号、2016年)73ページ。
- ^ a b ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p33。
- ^ 玉乃島は出場 大相撲春場所『朝日新聞』1968年(昭和45年)3月8日夕刊 3版 10面
- ^ 朝日新聞1968年5月28日付朝刊
- ^ 朝日新聞1968年5月27日付朝刊
- ^ 「大鵬自伝」(大鵬幸喜著、ベースベールマガジン社刊、1972年)、176頁で大鵬自身が認めている。
- ^ 前記「大鵬自伝」、223頁。
- ^ 朝日新聞1970年1月10日付朝刊スポーツ面
- ^ a b 雑誌『相撲』別冊菊花号 創業70周年特別企画シリーズ(3)柏鵬時代 柔の大鵬 剛の柏戸――大型横綱たちの君臨(ベースボールマガジン社、2016年) p92-97。
- ^ a b 朝日新聞1970年1月27日付朝刊スポーツ面
- ^ 朝日新聞1970年1月28日付夕刊社会面
- ^ 朝日新聞1970年1月30日付朝刊スポーツ面
- ^ Sports Graphic Number (文藝春秋)2019年2月28日号 p63
- ^ “「俺が死んだ方が」北の富士が語る悲運の横綱玉の海、27歳の死から50年”. 日刊スポーツ (2021年10月11日). 2023年7月22日閲覧。
- ^ 「俺が死んだ方が」北の富士が語る悲運の横綱玉の海、27歳の死から50年 日刊スポーツ 2021年10月11日14時7分 (2021年12月2日閲覧)
- ^ 讀賣新聞 1971年10月12日付朝刊社会面記事参照。
- ^ 本来、北の富士の土俵入りは雲龍型である。
- ^ “天龍源一郎が語る“大人” 20歳で貴ノ花に敗北感 リック・フレアーと北の富士に学ぶ大人の振る舞い | AERA dot. (アエラドット)”. AERA dot. (アエラドット) (2021年1月10日). 2024年1月29日閲覧。
- ^ "玉の海 正洋(読み)タマノウミ マサヒロ". コトバンク. 朝日新聞社. 2020年3月15日閲覧。
- ^ 玉の海の「横綱推挙状」見つかる 悲劇の力士、没50年を前に 山陽新聞 2021年10月01日 07時45分 更新 (2021年11月13日閲覧)
- ^ 元横綱玉の海、没後50年法要営まれる 北の富士とともに「北玉時代」築く 日刊スポーツ 2021年10月12日7時38分 (2021年10月20日閲覧)
- ^ ライバルであり友人「友情の土俵入り」が示した北の富士と玉の海の結びつき 日刊スポーツ 2021年10月23日10時0分 (2021年10月24日閲覧)
- ^ 共同通信 (2022年9月23日). “形見の人物画、まげ発見 横綱玉の海展で10月初公開 | 共同通信”. 共同通信. 2022年9月23日閲覧。
- ^ 『相撲』(別冊師走号)74ページから76ページ。
- ^ 北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)P161-162。
- ^ 北の富士氏、クンロクとカンロクを勘違い「とうとう俺たちも貫禄」 SANSPO.COM 2022/03/14 08:00 (2022年6月27日閲覧)
- ^ 歴代唯一!「休場ゼロ」の横綱・玉の海は何が凄かったのか - NEWSポストセブン2021年5月9日配信記事より、玉輝山正則談。
- ^ “天龍源一郎が語る“時代・昭和編” 真冬でもアロハシャツを着る昭和のレジェンドといえば? | AERA dot. (アエラドット)”. AERA dot. (アエラドット) (2023年1月8日). 2024年1月29日閲覧。
- ^ 『あの人は今こうしている - 林盈六さん』日刊ゲンダイ 2015年5月21日付17面
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