源義光
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/28 14:57 UTC 版)
![]() 源義光像(『集古十種』より) | |
時代 | 平安時代後期 |
生誕 | 寛徳2年(1045年) |
死没 | 大治2年10月20日(1127年11月25日) |
別名 | 新羅三郎、館三郎 |
戒名 | 先甲院峻徳尊了 |
墓所 | 大津市園城寺町、鎌倉市大宝寺 |
官位 |
従五位上、刑部少輔、左衛門尉 右馬助、兵衛尉、常陸介、甲斐守 |
氏族 | 清和源氏頼義流(河内源氏) |
父母 | 父:源頼義、母:平直方の娘 |
兄弟 | 義家、義綱、義光、快誉 |
妻 | 甲斐守知実の娘ほか |
子 | 義業、実光、義清、盛義、親義、祐義、覚義 |
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生涯
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左兵衛尉の時、後三年の役で長兄の義家が清原武衡・家衡に苦戦しているとの知らせを受けると、官奏して東下を乞うたが許されず、寛治元年(1087年)に朝廷には無断で陸奥国に向かい、官職を剥奪された。義光は義家と共に金沢柵で武衡・家衡と戦ったが、その戦いの際、武衡が降伏しようとして義光に連絡を入れてきた。そして義光自ら金沢柵内に交渉しに入ろうとしたが義家に止められ、代わりに郎党である藤原季方を使者にやっている。結局は義家が降伏を拒否して戦いは継続、金沢柵は陥落し、武衡・家衡は脱出に失敗して捕縛され、斬首。合戦は終了した。
京に帰った義光は刑部丞に任ぜられ、常陸介、甲斐守を経て、刑部少輔、従五位上に至った。戦後、常陸国の有力豪族の常陸平氏(吉田一族)から妻を得て、その勢力を自らの勢力としていく。嘉承元年(1106年)、遅れて常陸国に進出してきた甥の源義国(足利氏や新田氏の祖)と争って合戦に及び義国と共に勅勘を蒙る。
義家の後を継いだ三男義忠が天仁2年(1109年)に郎党に殺害されると(源義忠暗殺事件)、当初は源重実に疑いがかかったが、その後嫌疑は義家の次弟義綱の子義明とその乳母夫の藤原季方にも向けられ、義明と季方は白河上皇の命を受けた源重時による追捕を受け殺害された。これに憤激した義綱は東国へ出奔するも、白河上皇の命を受けた源光国と義忠の甥(弟とする説もある)為義によって追討され甲賀山で降伏し、勝手に出京した罪で佐渡国に流された(義綱の子息は全員自害)。この一連の事件について、『尊卑分脈』はその黒幕を義光とする。郎党の鹿島三郎(平成幹と同名、同一人物か?)に命じて、義忠を暗殺させ、鹿島三郎は三井寺に逃亡するも義光に組した弟の快誉らの手によって生き埋めにされ殺害されたとされる。だが、この事件自体は義家死後の河内源氏内部の対立があった影響とみられるが、義光の関与を含め真相は不明である[1]。
最期については大治2年(1127年)10月20日死去。
人物
義光は弓馬の術にたけ、音律をよくしたという伝説がある。古武道の大東流合気柔術では、義光を開祖としている。また、流鏑馬に代表される弓馬軍礼故実である弓術、馬術、礼法の流派である小笠原流や武田流などは、古の武家の心と形をいまに伝えている。そして武田氏の嫡流に伝わった盾無鎧や、南部氏が今に伝えた菊一文字の鎧などにもそれは見られる。
笙は豊原時忠から秘曲を学び、名器交丸を得た。後三年の役で兄・義家の救援に赴く際、時忠が逢坂山に別れを惜しみ帰らぬので、義光は名器を失うことを恐れて返し与えた。この話が、「時忠の弟・時元から秘曲を授けられ、時元の子・時秋が足柄峠まで後を追った折に、秘曲の滅びることをおそれて山中で伝授した」という『古今著聞集』の説話を産んだ。
志田諄一は、義光が義家の救援に赴いた経緯について、この戦いに参戦しなかった真ん中の兄である源義綱の動向と比較し、摂関家と結びついて京都に基盤を築いた義綱と兄たちに出遅れて東国に新たな基盤を求めていた義光の立場の違いとして捉え、義光は義家の救援を口実に奥羽に乗り込んで勢力拡大を図ったとしている[2]。
- ^ 佐々木紀一「源義忠の暗殺と源義光」『山形県立米沢女子短期大学紀要』第45巻、山形県立米沢女子短期大学、2009年12月、19-29頁、CRID 1050001202927787264、ISSN 02880725。
- ^ 志田諄一「武田義清・清光をめぐって」(初出:『武田氏研究』九、1992年。/所収:西川広平 編著 『甲斐源氏一族』戒光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第二二巻〉、2021年。ISBN 978-4-86403-398-5。2021年、P47-49.
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