太平洋集団安全保障構想 太平洋集団安全保障構想の概要

太平洋集団安全保障構想

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/27 10:21 UTC 版)

アメリカの防共体制

第二次世界大戦後の1950年に始まった朝鮮戦争東アジア地域に冷戦構図をもたらした[1]アメリカは特に国共内戦を経て1949年に成立した中華人民共和国とアジアにおける共産主義の影響力増大に対して警戒し、1951年8月にフィリピン米比相互防衛条約、1951年9月に日本国との平和条約と同時に締結された日本との日米安全保障条約(1960年に日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約として改定)、1953年10月に韓国米韓相互防衛条約などの共同防衛体制を築いた[1]

太平洋同盟

1949年にヨーロッパでもソ連に対抗して北大西洋条約機構(NATO)が成立した[1]。1949年2月、フィリピンがNATOを模して反共闘争のための太平洋同盟 (Pacific Pact、または太平洋条約[2])を提唱、これに台湾中国国民党)の蔣介石韓国李承晩が賛同した[1]。しかし、1949年5月、アメリカはアジアの国内紛争が解決されるまではこの同盟は形成されないし、また蔣介石や李承晩はアメリカの軍事援助を得るためにフィリピンなどを利用しているにすぎないと批判して賛同しなかった[1]。なおフィリピンのキリノ大統領はこの時点で日本を含めれば極東諸国の対日不信も軽減できるとして提唱し、駐比アメリカ大使トマス・ロケットも日本の復帰によってアメリカの負担も軽減できるとしてこれを高く評価した[2]

デイヴィーズの六カ国条約案

1949年7月にはアメリカ国務省のジョン・デイヴィーズ(John P.Davies,Jr.)がアメリカ、フィリピン、オーストラリアの三国での防衛条約、さらに対日講和条約締結後には日本、カナダニュージーランドも含めることを提唱した[2]

その後の米英の評価

1949年7月8日には蔣介石とキリノ大統領はバギオで会談し、反共集団安全保障を訴え、韓国もこれに賛同した[2]。しかし、アメリカ国務省は、蔣介石、李承晩、キリノ大統領いずれもそれぞれの内政不安定を解消するために外交的業績をつくるために提唱しているにすぎないと批判し、またアメリカ国務省極東局は蔣介石、李承晩、キリノによる連合は実現されたにしても脆弱で失敗に終わる可能性が高いと解釈した[2]。また英連邦諸国も、メイベリー・デニング(Sir Mabely E.Dening)イギリス外相は「信頼を失った中国の総統、評判のあまりよくないフィリピン政治家、そして危なっかしい韓国の指導者という組み合わせを基盤にした太平洋条約構想など、ばかげたもの」として痛烈に批判した[2]。フィリピン内部でもキリノ構想には批判が多かった[2]

1949年8月5日にはアメリカは中国白書 を発表し、蔣介石への軍事援助を打ち切るとした[1]1949年8月6日には、蔣介石が訪韓し鎮海で李承晩と会談し、反共宣言を出した[1]

ロムロ提案:東南アジア連合

一方、フィリピンのロムロ国連大使はキリノ大統領と蔣介石との提携は「ばかげたへま」「重大な過ち」と批判したうえで[2]、太平洋同盟とは別にニュージーランドタイインドビルマセイロンインドネシア等と東南アジア連合(Southeast Asian Union,SEAU)を提唱した[1][2]。しかし、インドはこれに消極的な態度を示した[2]

太平洋安全保障条約 (ANZUS)

対日早期講和論からANZUSへ

アジアでの冷戦緊張が高まる1949年9月、イギリスのアーネスト・ベビン外相とアメリカのアチソン国務長官は日本との早期講和に合意する[2]。しかし、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピンは講和後の日本の軍国主義の台頭を恐れ、「対日防衛 defense -against-Japan aspect」の必要を唱えた[2]。アメリカにとっても講和後の日本の動向は懸念される問題であったが、NATO型の太平洋集団安全保障体制によって在日米軍が引き続き日本に駐留すれば日本を抑制でき、「日本の防衛」と「日本からの防衛」を同時に実現できると考えるようになった[2]。しかし、1951年1月、オーストラリア・ニュージーランドは日本と同盟国になることを拒否したため、アメリカ・オーストラリア・ニュージーランド三国の太平洋安全保障条約(ANZUS)草案が提起された[2]。米統合参謀本部(Joint Chiefs of Staff,JCS)は、各国との個別条約は軍事行動の混乱の原因になるし、個別条約を結ぶとしたら日本以外との国と条約を締結するべきではないとして当初ANZUS案に反対したが、のちにこれを容認、締結にいたる[2]

欧州防衛共同体

1950年にヨーロッパではフランスルネ・プレヴァン首相が汎ヨーロッパ防衛軍を構想する欧州防衛共同体(EDC)を提唱した。

太平洋安全保障条約

1951年9月、アメリカは、オーストラリア・ニュージーランドと太平洋安全保障条約(ANZUS)を締結し、アメリカが両国の安全保障の役割を担うことになった。


  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 松田春香「東アジア「前哨国家」による集団安全保障体制構想とアメリカの対応 : 「太平洋同盟」と「アジア民族反共連盟」を中心に」『アメリカ太平洋研究』第5巻、東京大学大学院総合文化研究科附属アメリカ太平洋地域研究センター、2005年3月、135-152頁、doi:10.15083/00037251ISSN 13462989NAID 120001997700 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 伊藤裕子「「太平洋条約」構想の変容 : アジア太平洋地域安保統合への働きとフィリピン・イニシアチブ1949-1951」『亜細亜大学国際関係紀要』第10巻第3号、亜細亜大学、2001年3月、41-66頁、ISSN 0917-3935NAID 110000539863 


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