太平洋集団安全保障構想 韓国による再提唱

太平洋集団安全保障構想

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/27 10:21 UTC 版)

韓国による再提唱

朝鮮戦争が停戦した1953年1月、韓国は再び、反共集団安全保障機構としての太平洋同盟を提唱した[1]1953年11月27日、李承晩が台湾を訪問し、再び反共宣言を出した[1]。朝鮮戦争の結果もあり、アメリカはこの時点では太平洋同盟に反対しなくなっていた[1]。台湾・中華民国はアメリカに対して韓国、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピン、日本の対共産主義圏の共同防衛条約を提案したが、韓国は日本の参加に反対した[1]

アジア民族反共連盟

1954年、韓国は東南アジア反共民族代表者会議(民族反共戦線)を4月26日に開催すると発表するが、タイ、インドシナが欠席を表明し、実現されなかった[1]1954年2月、ジョン・E・ハル英語版極東軍司令官が訪韓し、その際李承晩は反共戦線への援助を要求するが、アメリカ側は日本の参加なしには援助しないと拒否した[1]

1954年3月、ダレス国務長官はインドシナへの共産主義の浸透に対抗するために米英仏、インドシナ三国、オーストラリア、ニュージーランド、タイ、フィリピンなどによる共同防衛機構を作ることは有効とした[1]

1954年6月15日、韓国でアジア民族反共大会が開催、中華民国、フィリピン、ベトナムマカオ香港、タイが参加したが、政府関係者が出席したのは中華民国とベトナムだけであった[1]。この日の開会式で李承晩は「共産主義に対抗する十字軍にならなければならない」と訴えた[1]。大会最終日の6月17日にはアジア反共連盟憲章が採択され、名称はアジア民族反共連盟(The Asian People Anti-Communist League,APACL)とされた[1]。しかしこの連盟にはアメリカは消極的で、またタイはSEATOに参加するために同じく非協力的だった[1]


  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 松田春香「東アジア「前哨国家」による集団安全保障体制構想とアメリカの対応 : 「太平洋同盟」と「アジア民族反共連盟」を中心に」『アメリカ太平洋研究』第5巻、東京大学大学院総合文化研究科附属アメリカ太平洋地域研究センター、2005年3月、135-152頁、doi:10.15083/00037251ISSN 13462989NAID 120001997700 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 伊藤裕子「「太平洋条約」構想の変容 : アジア太平洋地域安保統合への働きとフィリピン・イニシアチブ1949-1951」『亜細亜大学国際関係紀要』第10巻第3号、亜細亜大学、2001年3月、41-66頁、ISSN 0917-3935NAID 110000539863 





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