太平洋集団安全保障構想
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東南アジア条約機構 (SEATO)
1954年9月8日、アメリカ合衆国、オーストラリア、フランス、イギリス、ニュージーランド、パキスタン、フィリピン、タイ王国の8ヵ国が反共主義の集団防衛東南アジア条約機構(SEATO)が成立した。これには韓国、中華民国は含まれなかった[1]。
NEATO
アメリカとしては東アジアの集団安全保障体制には日本が不可欠であったため、アメリカは東南アジア条約機構 (SEATO)に対応した北東アジア条約機構(North East Asia Treaty Organization、NEATO)、すなわち日本、韓国、中華民国、アメリカの集団安保体制を構想したが、韓国が日本の参加に反対し、実現できなかった[1]。
- 米華相互防衛条約
1954年12月2日、アメリカと中華民国は米華相互防衛条約を締結。
構想が実現できなかった要因
太平洋集団安全保障は主に以下の理由により、失敗に終わる。
- イギリスはNATO型のアジア共同軍事防衛体制には米英の参加が不可欠であるが、東南アジアにおける国境紛争や内紛、インドシナやインドネシアの独立問題、また各国での政情不安といった問題から時期尚早として反対した[2]。
- オーストラリアは中華民国、韓国を含める事に反対した[2]。
- ニュージーランドは構想実現後にアジア諸国から経済負担を要求される懸念から反対した[2]。
- アメリカは東南アジア条約機構 (SEATO)を実現するが、フランスが日本、韓国、中華民国の参加に反対した[1]。
- インドは共産主義を支持しないが共産主義国家に対して攻撃的な態度をとることもしないとして反対した[2]。
- 韓国は一貫して反日感情のため日本の参加に反対した[1]。
- 日本の左派勢力・世論は、再軍備に消極的な態度を示し、憲法改正を不可欠とする地域的な集団安全保障体制に参加することに積極的な用意をしなかった。
影響
東アジアの集団安全保障体制が構築できなかったため、以後、アメリカは二国間の共同防衛体制(米比相互防衛条約、日米安全保障条約、米韓相互防衛条約、米華相互防衛条約)を維持することになる[1]。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 松田春香「東アジア「前哨国家」による集団安全保障体制構想とアメリカの対応 : 「太平洋同盟」と「アジア民族反共連盟」を中心に」『アメリカ太平洋研究』第5巻、東京大学大学院総合文化研究科附属アメリカ太平洋地域研究センター、2005年3月、135-152頁、doi:10.15083/00037251、ISSN 13462989、NAID 120001997700。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 伊藤裕子「「太平洋条約」構想の変容 : アジア太平洋地域安保統合への働きとフィリピン・イニシアチブ1949-1951」『亜細亜大学国際関係紀要』第10巻第3号、亜細亜大学、2001年3月、41-66頁、ISSN 0917-3935、NAID 110000539863。
- 1 太平洋集団安全保障構想とは
- 2 太平洋集団安全保障構想の概要
- 3 韓国による再提唱
- 4 東南アジア条約機構 (SEATO)
- 5 参考文献
- 6 関連項目
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