南蛮貿易 貨幣、交通

南蛮貿易

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/01 14:31 UTC 版)

貨幣、交通

貨幣単位

南蛮貿易に関係する貨幣単位としては、日本や中国では金・銀の重量単位としてタエル()、ポルトガルはレイス、スペインはペソが用いられた[44]

交通

南蛮貿易のポルトガル船は東アジアと東南アジアの航海に用いられており、ヨーロッパから直接に東アジアに来た船はなかった[45]。カピタン・モールの定期船は、当初ガレオン船が用いられていたが、ガレオン船が沈没したマドレ・デ・デウス号事件の後は、より小型で地中海型のガレオタ船を複数用いる方針に変更された。これに対して私貿易の個人商船は、中国のジャンク船や、キャラック船とも呼ばれるナウ船などが用いられた。ナウ船は多くがゴアやバサインで建造された[46]。マレー半島から日本への航海は4ヶ月ほどかかり、マラッカ - 中国 - 日本の往復航海には1年かかった[47]

日本から見たポルトガル人

「南蛮屏風」に描かれた、日本に到来した南蛮人たち。白人の他、黒人も描かれている。

17世紀の文献では、マカオからの船は「天川(あまかわ)船」や「南蛮船」と呼ばれ、「葡萄牙船」と呼ばれる船は登場しない。マカオ商人は「天川人」と呼ばれていた。これに対して同時期のオランダ東インド会社の船は「阿蘭陀船」と呼ばれていた。マカオからの船の乗員は多民族の構成だったため、国家として認識しにくかった[48]

南蛮貿易において、日本人が見たポルトガル人(南蛮人)の豪華な服装はほとんどがアラブ服であり、肩を張らせた上衣(じゅばん)はアラビア語のジュッバであり、大きくふくらんだズボンで丈が足首まであるシルワール英語版(ハレム・パンツ)もアラブ服である。南蛮文化において宗教以外の部分はアラブ文化の要素が非常に強い[49]

年表

  • 1511年永正8年) - ポルトガルがマラッカを占拠。
  • 1513年(永正10年) - 商人のジョルジュ・アルバレスがポルトガル人として中国に初来航。
  • 1543年天文12年) - 種子島王直の船が漂着。ポルトガル人が乗船していた。
  • 1549年(天文18年) - フランシスコ・ザビエル坊津に到着。日本での布教を開始。
  • 1557年弘治3年) - ポルトガルはマカオの居住権を獲得。
  • 1560年永禄3年) - マカオ人口は約900人。ゴアで異端審問所が開設。インドからマカオやマニラへの移住が急増。
  • 1568年(永禄11年) - ベルショール・カルネイロ司教がマカオに着任。
  • 1569年(永禄12年) - マカオの人口が約5000人以上に増加。マカオにミゼリコルディア設立。
  • 1570年元亀元年) - 長崎港がポルトガルに開港。
  • 1577年天正5年) - アレッサンドロ・ヴァリニャーノが東インド管区の巡察使としてマカオに到着。
  • 1579年(天正7年) - マカオ当局とイエズス会が契約。毎年50ピコの生糸をイエズス会が確保する。
  • 1583年(天正11年) - イエズス会の提唱でマカオの行政執行部発足。ポルトガル領インド政府はマカオを行政単位として認める。
  • 1587年(天正15年) - 豊臣秀吉によるバテレン追放令
  • 1594年文禄3年) - マカオに聖パウロ学院創設。
  • 1604年慶長9年) - 幕府が海外渡航船に朱印状を発行。茶屋四郎次郎の主導で糸割符仲間を発足。
  • 1609年(慶長14年) - マカオ商人に朱印状を発行。
  • 1616年元和2年) - 幕府が中国船以外の入港を長崎・平戸に限定する。
  • 1622年(元和8年) - マカオがオランダ東インド会社の攻撃を受ける。
  • 1624年寛永元年) - 幕府がスペイン船の来航を禁止。
  • 1625年(寛永2年) - 幕府がマカオの政庁に対して宣教師の日本への渡航禁止を要求。
  • 1628年(寛永5年) - アユタヤ事件。
  • 1633年(寛永10年) - 幕府が老中連署下知状を長崎奉行に下す。幕臣の海上銀を禁止。
  • 1634年(寛永11年) - パオロ・ドス・サントス事件。カピタン・モール制度の廃止。
  • 1635年(寛永12年) - マカオ市は賃金でカピタン・モールを雇用を始める。
  • 1636年(寛永13年) - ポルトガル人は出島に収容された。
  • 1637年(寛永14年) - 島原の乱勃発。
  • 1638年(寛永15年) - 幕府が商人も含めて全ての言伝銀と海上銀を禁止。
  • 1639年(寛永16年) - 幕閣がオランダ商館長フランソワ・カロンと対話。第5次鎖国令
  • 1640年(寛永17年) - マカオが貿易再開の嘆願使節を派遣。

  1. ^ "Histoire du Japon", p. 72, Michel Vie, ISBN 2-13-052893-7
  2. ^ 岡 2010, p. 1.
  3. ^ 本多 2015, p. 16.
  4. ^ 羽田 2017, p. 68.
  5. ^ 羽田 2017, p. 122.
  6. ^ 岡 2010, p. 30.
  7. ^ a b 岡 2010, p. 25.
  8. ^ a b 建設コンサルタンツ協会 会報 Vol.256 (2012年7月) p12-15 「特集 鹿児島」尚古集成館 田村省三
  9. ^ 羽田 2017, p. 124.
  10. ^ 岡 2010, p. 63.
  11. ^ 安野 2014, p. 4.
  12. ^ 岡 2010, p. 27.
  13. ^ 安野 1989.
  14. ^ 安野 2014, p. 22.
  15. ^ 岡 2010, p. 241.
  16. ^ 岡 2010, p. 218.
  17. ^ 安野 2014, p. 73.
  18. ^ a b c 岡 2010, p. 215.
  19. ^ 羽田 2017, p. 138.
  20. ^ a b 岡 2010, p. 323.
  21. ^ 羽田 2017, p. 134.
  22. ^ 岡 2010, p. 325.
  23. ^ 岡 2010, p. 281.
  24. ^ 岡 2010, p. 26.
  25. ^ 岡 2010, p. 165.
  26. ^ 岡 2010, p. 74.
  27. ^ 岡 2010, p. 129.
  28. ^ 安野 2014, p. 60.
  29. ^ 岡 2010, p. 93.
  30. ^ 岡 2010, p. 99.
  31. ^ 岡 2010, p. 104.
  32. ^ 岡 2010, p. 106.
  33. ^ 岡 2010, p. 108.
  34. ^ 岡 2010, p. 31.
  35. ^ 羽田 2017, p. 60.
  36. ^ 岡 2010, p. 195.
  37. ^ 岡 2010, p. 216.
  38. ^ 岡 2010, p. 132.
  39. ^ 岡 2010, p. 193.
  40. ^ 岡 2010, p. 154.
  41. ^ 岡 2010, p. 112.
  42. ^ 岡 2010, p. 118.
  43. ^ 安野 2014, p. 79.
  44. ^ 岡 2010, p. 339.
  45. ^ 羽田 2017, p. 127.
  46. ^ 岡 2010, p. 340.
  47. ^ 岡 2010, p. 73.
  48. ^ 岡 2010, p. 17.
  49. ^ 余部 1992.






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