十和田神社 十和田湖における三湖物語

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十和田神社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/24 22:48 UTC 版)

十和田湖における三湖物語

現在では三湖伝説として十和田湖は、八郎潟田沢湖と共に語られている。しかし、古来のこの物語はあくまでも八郎太郎を南祖坊が破った物語になっていた。

そこでは、主人公はあくまでも南祖坊であり、八郎太郎は人々を苦しめる荒々しい大蛇であった。それが、青年八郎太郎を主人公とする成長物語に改変された結果、南祖坊は脇役かつ悪役に追いやられた[21]

永福寺

十和田御堂の寺号が「額田嶽熊野山十灣寺」(額田嶽は八甲田山)であったことから分かるように、霊山としての十和田山は糠部側から開山された熊野修験系の霊山であった。南祖坊は七崎永福寺の僧であったことが語られ、十和田開山の拠点が七崎永福寺(現在の普賢院)であったことを示している。普賢院には、南祖坊の御像である南祖法師尊像が祀られ、『十和田山神教記』の写本二冊が所蔵されており、伝説を今に伝えている。江戸時代初期、永福寺本坊が盛岡に構えられ、七崎の普賢院と三戸の嶺松院を自坊とした。七崎には本堂以下の堂塔が残され、観音堂は「七崎山徳楽寺」と称した。菅江真澄によれば永福寺の盛岡移転後も人々は七崎の観音堂を「永福寺」と呼んでいたという[22]。盛岡永福寺には真言を貼って人の出入りを禁じた「十和田の御間」という一室があり、春秋の彼岸の中日には「十和田様」が人体(法師の姿)や龍体(蛇の形)で現れるとされた。

七崎山徳楽寺は明治初年の神仏分離で七崎神社になり、御堂(観音堂)跡には拝殿が建てられた。樹齢千年と言われる杉の神木や別当寺の普賢院、寺内や門前町の形態を残す永福寺集落の光景が往時の記憶を留めている。七崎山徳楽寺は、明治初年の『新撰陸奥国誌』によれば、もとは聖観音を本尊とする霊場で、参拝人が絶えず盛岡藩主が修繕を行い、厳重の法会を修行してきた稀代の古刹であったという。江戸期に盛岡藩の冠寺となる永福寺の七崎への創設は12世紀末と見られる。なお、普賢院は永福寺創設前の創建とされ、平安初期(延暦弘仁年間)圓鏡上人により開創、承安元年(1171)行海上人により開基(江戸期の過去帳では中興開山と記される)され、鎌倉から江戸時代初期には永福寺の寺号が主に用いられたとされている。

江戸時代に霊山十和田は最盛期を迎える。その一つには、盛岡藩の保護がある。七崎永福寺は盛岡開府後、盛岡城鬼門にあたる城下北東の地に移され、盛岡城鎮護の寺で、藩主の祈願所、寺領8百石を有し、広大な寺地と六つの坊(六供坊、池上・林蔵・蓮華・桜木・西・東)をもつ盛岡五山の筆頭寺院とされた。中世の南部家当主は正月4~5日、永福寺に参拝し、そこで連歌会を行った。6日には諸寺の先頭を切って永福寺別当が三戸城に登城し、当主にお目見えした[23]。永福寺が盛岡に本坊を構えた後、七崎村の大部分は盛岡永福寺の支配とされ、盛岡永福寺には「十和田の御間」が設けられた。とくに2代藩主南部利直の十和田信仰は篤く、自ら南祖坊の生まれ変わりと唱え、法名を南宗院月渓清公としたという[24]。藩の十和田信仰も篤く、5月15日の十和田御堂の例祭には五戸代官が藩主の代参を行った。十和田参拝道の管理や休屋の参道杉並木も藩の手で整備された。民衆の十和田参拝も江戸時代に全盛期を迎え女人禁制も解けて、田植え過ぎの5月15日の例祭には、男女群れなして登山をして数百人の参拝者がいた。1681年(延宝9年)には民間の力で御堂が新造され、参拝道の道沿いには、村々の民衆が寄進した石灯籠や石の道標が作られ、今も残されている[25]

祐清私記』では「南部利直が寝ている姿を見ると、蛇身に見えた」という話の後に「南部利直の夢に南祖坊が現れ私は蛇身を免れるために貴公に生まれ変わったと告げる。利直がこのことを次衆に告げると、これを真実と考える者が多かった。利直が寛永年間に江戸で没したが、その時国元の東禅寺の大英和尚と江戸の金地院が、それぞれ双方夢の話を全く知らなく、相談したわけでもないのに、同じく南宗院殿の号を撰んだ。利直が南祖坊の生まれ変わりであることはこれによっても明らかである。利直の葬儀が三戸で行われた時、空がにわかにかき曇って大雨電雷した」と書いている。

「盛岡」の地名は1691年(元禄4年)6月に南部重信と盛岡永福寺の僧正、清珊法印(せいさんほういん)の連歌によって「森岡」が「盛岡」と定められた。永福寺は山号を宝珠盛岡山と称し、盛岡五山の筆頭で藩累代の祈祷寺になっていた。竜神池のほとりには、青龍大権現堂があった[26]

十和田信仰の衰退

明治維新後に、十和田信仰は神仏分離廃仏毀釈の嵐にさらされた。1872年(明治5年)には、修験宗が廃止され、修験は天台宗か真言宗に属するか、神職になるか還俗するかを命じられた。神仏習合による権現は排斥され、古事記や日本書紀の日本古来の神に戻すことが強要された。十和田別当の織田氏は十湾寺を十和田神社として、青龍権現を外に移し、祭神をヤマトタケルと申し立てたが、認められず、1873年(明治6年)奥瀬の新羅神社に合祀され、御堂は取り壊された。2年後、復社を許され、御堂の跡地にささやかな社殿が建てられたが、十和田信仰は大きな打撃を受けた。十和田湖はその後、十和田鉱山の隆盛(明治20年代)と、十和田湖観光の時代を迎える。そうした中、十和田神社神職の織田氏は奥瀬から休屋に居を移し、十和田信仰の保持に務めた[27]

1905年和井内貞行は十和田湖でヒメマスの養殖を苦労の末に成功させ、さらに和井内は十和田湖観光に先鞭をつける。この和井内を顕彰するために、十和田信仰の後進性がことさら強調された。高瀬強『天下之奇勝十和田湖案内』(1910年、明治43年)では、十和田湖に魚類がいない理由として湖神青龍大権現の責罰を受けて魚がいないとする迷信的伝説[28] が語られ、和井内が千年の旧慣を破って魚の養殖を試したところ、人々は神霊の冒涜を恐れ数々の迫害をなしたと記している。高瀬強『十和田開発の偉人 和井内貞行翁』(1927年、昭和2年)では田沢湖の辰子姫の伝説も語り、「一大迷信が人心に浸潤し、抜くべからざる錯誤を生ずるに至った」、「大湖も、極端に神聖視され」とし、和井内の初期の失敗に人々は「それ見ろ、青龍権現の神罰てきめんだと罵った」とされ、多少の漁獲を得てからは「彼らは翁の事業の独占を阻止せんとして、悪辣なる計画をなし」たと記している。その表現が決定的なものになるのは、1928年(昭和3年)の国定教科書『農村用 高等小学読本』と思われる。そこには高瀬の本と同様な表現があった。「人のため世のため」(『青年修身公民書 普通科用』下巻、1941年(昭和16年))などでも同様な話が語られた。佐々木千之『十和田湖の開発者和井内貞行』(三省堂1942年、昭和17年)では会話形式を多用した物語になっているが、この書の特徴は後の1967年(昭和42年)のポプラ社の世界伝記全集シリーズ26に取り上げられ、世代を越えて影響を及ぼした。その他多数の書籍があるが、戦後ではそれが映画となって演出・表現された。『われ幻の魚を見たり』(1950年、昭和25年、大映制作、大河内傳次郎主演)では「ザイギ、ザイギ、六根清浄、南無十和田青龍大権現…」と文言を唱え参詣道を行進する修験道の人々の映像の後に、人々は禁忌を犯した和井内家に罵声を浴びせ、家に法螺貝を鳴らしながら投石する映像が流された。そのため、石が頭に当たり和井内貞行は流血している。この映画では青龍権現の信者たちは暴力を用いて和井内貞行の妨害をしようとする敵役として登場した。このように、信仰が十分に組織化されていない状態で、近世以降の十和田信仰が迷信であるという評価が広がることで、十和田参拝が徐々に確認されていかなくなっていったのではないかと推測される[29]


  1. ^ 岸俊武『新撰陸奥国誌. 4』、国書刊行会、1983年、p.390
  2. ^ 斗賀神社所蔵『霊現堂縁起』
  3. ^ 人間であったときは南祖坊
  4. ^ 斉藤 2018, p. 10.
  5. ^ 現在の神泉苑(しんせんえん)
  6. ^ 斉藤 2018, p. 11.
  7. ^ 『新十和田物語 神秘の湖に憑かれた人びと』、鳥谷部陽之助、彩流社、1983年、p.14
  8. ^ 秋田藩は元々真言系の寺院が多かったのに加え、佐竹氏の政策は真言宗系であった。
  9. ^ 栗山小八郎『十和田湖開発碑誌』、1970年、p.225
  10. ^ 「秋田民俗」第43号 秋田県民俗学会 十和田湖のトワダ信仰と伝説 -「三湖伝説」「三湖物語」論の限界と可能性-、村中健大、2017年、p.52
  11. ^ 尾樽部 2011, p. 4.
  12. ^ 斉藤 2018, p. 12-13.
  13. ^ 尾樽部 2011, p. 5-6.
  14. ^ 尾樽部 2011, p. 6-7.
  15. ^ 『忘れられたもうひとつの十和田湖』, p. 24.
  16. ^ 『秋田民俗』第43号「十和田湖のトワダ信仰と伝説」、村中健大、秋田県民俗学会、2017年
  17. ^ a b 『忘れられたもうひとつの十和田湖』, p. 25.
  18. ^ 尾樽部 2011, p. 8.
  19. ^ 尾樽部 2011, p. 7.
  20. ^ 尾樽部 2011, p. 5.
  21. ^ 斉藤 2018, p. 14-15.
  22. ^ 『十曲湖』、菅江真澄
  23. ^ 「古代三戸年頭御期式之事」
  24. ^ 祐清私記』、伊藤祐清
  25. ^ 斉藤 2018, p. 32-33.
  26. ^ 盛岡永福寺の掲示、『永福寺の沿革』
  27. ^ 斉藤 2018, p. 34-35.
  28. ^ 奥入瀬渓流の銚子大滝が魚止めの滝になっていることが、科学的な説明とされる
  29. ^ 『西郊民俗』第242号(平成30年3月)「十和田湖のトワダ信仰の『迷信』化」、村中健大、p.16-17





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