十和田神社 近世の十和田信仰の様子

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 十和田神社の解説 > 近世の十和田信仰の様子 

十和田神社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/24 22:48 UTC 版)

近世の十和田信仰の様子

近世の十和田信仰は、菅江真澄の『十曲湖』(1807年、文政4年)や松浦武四郎の『鹿角日記』(1849年、嘉永2年)などで記録されており、それによって当時の信仰の様子が分かる。『十和田記』に納められている資料の『当時十和田参詣道中八戸よりの大がひ』や、『十和田参詣案内記』などでも信仰の様子は詳しく描かれている[11]

近世の十和田参詣道

江戸時代に十和田湖に至る主要な参詣道は5つの道があった[12]

  • 五戸口道 - 五戸七崎の中世の永福寺を起点に、外輪山東端にあたる月日山(つきひやま)から長い山道を登り、銚子大滝の上の外輪山山頂で十和田湖を遥拝して、銚子大滝、宇樽部をへて御堂に至る
  • 七戸口道 - 上北郡奥瀬(現在の十和田市奥瀬)を起点に、惣部(そうべ)で五戸口道に合流する
  • 三戸口道 - 三戸郡貝守(現在の三戸町貝守)を起点
  • 白沢道 - 毛馬内(けまない)を起点に大湯、白沢、発荷峠(遥拝所)をへて御堂に至る
  • 藤原道 - 毛馬内を起点に、七滝、鉛山峠(遥拝所)、発荷峠の下の現在の生出(おいで)キャンプ場で白沢道に合流

休屋

解除川(神田川)

休屋には、長床と呼ばれる参詣者の宿泊小屋が数十か所あった。小さな鳥居があって、ここに樹皮で葺いた小屋があり、2~4間(2.6m-7.2m)の小屋で、大きな囲炉裏を切った樹皮を床に敷いて、人々はその上に座っている。祭礼の時は門口に八戸、五戸、三戸、野辺地、市川、毛馬内、花輪、奥瀬などの札をかけている。人々は荷物をここにおろして参拝を済ました。ここには御菜園場(畑)があって、そこにはかつて七堂伽藍という大寺があったという。

休屋の先には解除川があって、ここで身を清める作業をした。参拝道には沢山の鳥居が立ち並び、中山半島に向かう杉並木があり、その杉並木を通って、境内に向かった。当時から、この解除川が鹿角と奥瀬の境と認識されており、現在では青森県と秋田県の県境に位置する神田川になっている[13]

江戸時代の十和田神社境内

現在の大鳥居と参道杉並木

石鳥居に入り、杉並木を行くと、左に一の宮という小祠がある。それより奥に行くと、大岩の下に青龍権現を祀る本殿の祠(御堂)があった。向かって左に、熊野三社権現の宮殿があり、これは本殿と同じ高さであった。この周りに高さがニ~三尺程度の末社十二社があった。御堂には剣の類や、旗の類、絵馬の類の奉納物がここに大方収まっていた[14]

現在は参道は杉並木の中間約350mが失われ、街並みになっている。十和田御堂は三間(約5.4m)四面程度の大きさの方形で、宝形造りの仏堂であった。願いのある人は小さく剣を鍛えて奉納し、草鞋を始めいろいろな履物を小さく鉄で作って、堂の周りに置いていた[15]

オサゴ場

五色岩(赤根崎)左方は御倉半島

近年の十和田湖における十和田信仰の研究では、(尾樽部圭介 2011)がある。これは歴史資料を活用し、十和田の霊山としての環境や、修験系寺院の活躍について論じ十和田信仰の特色を探ろうとしたものである。尾樽部は霊山環境の分析から「十和田の中心的位置は、御倉半島とヲサゴ場である」という結論を得、ヲサゴ場(占場)で御倉半島に祈願することこそが参詣(信仰)の目的であるとの論を展開させている[16]

占場は南祖坊が十和田湖に入定したとされる神聖な場で、参拝者はカミの宿る山「御倉山」や奥の院「御室」を正面に拝みながらサングうちを行った。サングうちとは、銭や米を紙に包み、神に祈って湖中にそれを投げる占いで「オサゴ場」とは「御散供場(おさんぐば)」がなまったものである。オサゴ場前の湖底からは1903年から4回の引き上げ作業で、中国銭や朝鮮銭、寛永通宝など古銭約3000枚と銅鏡や剣が発見されている。サングうちを終えた参詣者は御堂に戻り、さらに御前ヶ浜に至った[17]

五色岩から御倉半島の先に少し行った所に、一つの洞窟がある。この洞窟は「御室」と呼ばれる場所で、入り口には奥院と書かれた札がある。武田千代三郎の『十和田湖』(1922年)には「湖岸の赭岩に一洞窟あり、洞口穹形を為して、一大巨室に通ず人敷十を容るべし、室の左右に隧道あり、右なるは深さ十間許り、左なるは三十間を越ゆ、炬を携えて侵入すれば、無数の蝙蝠人面を撲つて狼狽す、之を御室と云ふ」とその様子を記している[18]

御前ヶ浜

御前ヶ浜の先にある果報島。上に恵比寿、大黒天を祀る社殿が建つ

御前ヶ浜とはカミの前の浜という意味で、現在乙女の像が立つ場所である。白砂の浜で、鎧島、兜島、恵比寿島、大黒島が浮かび松が群生している。恵比寿、大黒島は浜のすぐ近くにある島でわずかに離れた2島になっている。参詣者は銭を投げて島に入ると果報が授かるとされた。そのため、この2島を合わせて「果報島」と呼んだ。浜辺に打ち上げられた古銭が見つかることもあった[17]

菅江真澄は「これは何神、かれは風穴と、多かる窟ごとに名をおふせていへり」と境内から御前ヶ浜へと至る道の途中に多くの窟があったことを記している。松浦武四郎も風穴、白山社、神明社、風神、愛神、市神と多くの小祠があったことを記している。現在でも幸運の小道と名付けられた道の途中に火の神や風の神といった名の付けられた岩窟が残っている。岩窟が残る岩壁の反対側にも岩窟らしきものが残っていて、かつては御前ヶ浜を囲むように修行場が展開していたと思われる[19]

松倉神社

松倉神社

奥入瀬渓流から子ノ口に至って、湖岸沿いを南に行くと宇樽部につくが、その途中に松倉神社がある。松浦武四郎は「凡二十丁計りも行て小祠あり。何神を祭るやらん、問う人も無」と記している。現在は松倉神社と書かれた鳥居が建っているが、この鳥居は最近建てられたものである。『当時十和田参詣中八戸よりの大がひ』では「夫より御松蔵、是はむかしのおさんご場のよし也。小さき御堂あり」とあり、この場所がヲサゴ場であったことが分かる[20]


  1. ^ 岸俊武『新撰陸奥国誌. 4』、国書刊行会、1983年、p.390
  2. ^ 斗賀神社所蔵『霊現堂縁起』
  3. ^ 人間であったときは南祖坊
  4. ^ 斉藤 2018, p. 10.
  5. ^ 現在の神泉苑(しんせんえん)
  6. ^ 斉藤 2018, p. 11.
  7. ^ 『新十和田物語 神秘の湖に憑かれた人びと』、鳥谷部陽之助、彩流社、1983年、p.14
  8. ^ 秋田藩は元々真言系の寺院が多かったのに加え、佐竹氏の政策は真言宗系であった。
  9. ^ 栗山小八郎『十和田湖開発碑誌』、1970年、p.225
  10. ^ 「秋田民俗」第43号 秋田県民俗学会 十和田湖のトワダ信仰と伝説 -「三湖伝説」「三湖物語」論の限界と可能性-、村中健大、2017年、p.52
  11. ^ 尾樽部 2011, p. 4.
  12. ^ 斉藤 2018, p. 12-13.
  13. ^ 尾樽部 2011, p. 5-6.
  14. ^ 尾樽部 2011, p. 6-7.
  15. ^ 『忘れられたもうひとつの十和田湖』, p. 24.
  16. ^ 『秋田民俗』第43号「十和田湖のトワダ信仰と伝説」、村中健大、秋田県民俗学会、2017年
  17. ^ a b 『忘れられたもうひとつの十和田湖』, p. 25.
  18. ^ 尾樽部 2011, p. 8.
  19. ^ 尾樽部 2011, p. 7.
  20. ^ 尾樽部 2011, p. 5.
  21. ^ 斉藤 2018, p. 14-15.
  22. ^ 『十曲湖』、菅江真澄
  23. ^ 「古代三戸年頭御期式之事」
  24. ^ 祐清私記』、伊藤祐清
  25. ^ 斉藤 2018, p. 32-33.
  26. ^ 盛岡永福寺の掲示、『永福寺の沿革』
  27. ^ 斉藤 2018, p. 34-35.
  28. ^ 奥入瀬渓流の銚子大滝が魚止めの滝になっていることが、科学的な説明とされる
  29. ^ 『西郊民俗』第242号(平成30年3月)「十和田湖のトワダ信仰の『迷信』化」、村中健大、p.16-17





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  十和田神社のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「十和田神社」の関連用語

十和田神社のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



十和田神社のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの十和田神社 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS