井原西鶴
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概要
寛永19年(1642年)頃、紀伊国中津村に生れ、15歳頃から俳諧師を志し談林派を代表する俳諧師として名をなした。一昼夜の間に発句をつくる数を競う矢数俳諧の創始を誇り、またそれを得意とした(最高記録は23,500句)。その奇矯な句風から阿蘭陀流(オランダりゅう)と称される。天和2年(1682年)に『好色一代男』を出版し好評を得、その後様々なジャンルの作品を出版。従来の仮名草子とは一線を画すとして、現在では『好色一代男』以後の作品は浮世草子として区別される[1]。元禄6年(1693年)没。
代表作は『一代男』の他に『好色五人女』『日本永代蔵』『世間胸算用』など。
また代表的な発句は、
長持に春かくれゆく衣がへ
浮世の月見過しにけり末二年
鯛は花は見ぬ里もあり今日の月
大晦日定なき世の定かな
などがある。
生涯
寛永19年(1642年)頃、紀伊国・中津村に生まれる[注釈 2]。本名を平山藤五とする説があるが、伊藤梅宇(伊藤仁斎の次男で、福山藩儒)の『見聞談叢』巻6に「平山藤五ト云フ町人」という記述(享保15年頃、長兄・伊藤東涯からの聞書き)があるだけで、本名か否かは不詳である[2]。
俳諧師として名を成す
明暦2年(1656年)、15歳で俳諧を志した[注釈 3]。寛文2年(1662年)には俳諧の点者として立っていた[注釈 4]。貞門の西村長愛子撰『遠近集』(1666年)に見える3句が現在残る西鶴句の初見で[3]、その時の号は鶴永[3]。俳諧は当初貞門派の流れを汲んだが、西山宗因に近づき、1670年代には談林派の句風となった[2]。
延宝元年(1673年)春、大坂・生國魂神社の南坊で万句俳諧の興行をし、同年6月28日『生玉万句』として出版[3]。この自序に「世こぞつて濁れり、我ひとり
延宝3年(1675年)、34歳の時に妻を亡くし1000句の追善興行、『誹諧独吟一日千句』(同年4月8日自序)と題して出版する[3]。大坂俳壇の重鎮の多くを含む105名の俳諧師の追善句も載せる。同年に剃髪し、法体になっている[要出典][注釈 5]。
延宝5年(1677年)3月、大坂の生國魂神社で一昼夜1600句独吟興行し、5月にそれを『俳諧大句数』と題して刊行[3]。序文にて「今又俳諧の大句数初て、我口拍子にまかせ」と矢数俳諧(cf.通し矢)の創始を主張し「其日数百人の連衆耳をつぶして」と自慢気に語ったが、同年9月に月松軒紀子が1,800句の独吟興行で西鶴の記録を抜く[要出典]。翌年、月松軒の独吟が『俳諧大矢数千八百韵』と題して刊行され、点を加えた菅野谷高政が序で西鶴を皮肉るような物言いをする[要出典]。延宝7年(1679年)、大淀三千風が独吟3,000句を達成し『仙台大矢数』として出版、その跋文に西鶴は「紀子千八百はいざ白波の跡かたもなき事ぞかし」「其上かゝる大分の物、執筆もなく判者もなし、誠に不都合の達者だて」と紀子の一昼夜独吟に疑いをかけ「中々高政などの口拍子にては、大俳諧は及ぶ事にてあらず」と返す刀で高政をも切る[要出典]。延宝8年5月7日(1680年6月3日)に生國魂神社内で4,000句独吟を成就、翌年4月に『西鶴大矢数』と題して刊行した[3]。貞享元年(1684年)には摂津住吉の社前で一昼夜23,500句の独吟、以後時に二万翁と自称。1684年刊行『俳諧女哥仙』以降は俳書の刊行は休止状態となる[3]。
作家への転進
天和2年(1682年)10月、浮世草子の第一作『好色一代男』を出板[2]。板下は西吟、挿絵は西鶴。好評だったのか板を重ね、また翌々年には挿絵を菱川師宣に変えた江戸板も出板、貞享3年(1686年)には師宣の絵本仕立にした『大和絵のこんげん』と『好色世話絵づくし』も刊行された。さらに『一代男』の一場面が描かれた役者絵が残っていることから、歌舞伎に仕組まれたこともあるようである[要出典]。
以後、後に『一代男』とともに好色物と括られる『諸艶大鑑』(1684年)、『好色五人女』(1686年)、『好色一代女』(同年)が立て続けに書かれ、やがて雑話物や武家物と呼ばれるジャンルに手を染めるようになる[2]。この変化から、好色本の禁令が出たのではないかという考えもあるが[4]、『色里三所世帯』(1688年)や『好色盛衰記』(同年)また遺稿の『西鶴置土産』など好色物は書き続けられているので、その説は信じがたく、またそのような禁令があったという証拠も存在しない[要出典]。
天和3年(1683年)正月、役者評判記『難波の貌は伊勢の白粉』を刊行(現存するのは巻二巻三のみ)。貞享2年(1685年)には浄瑠璃『暦』をつくる。この作品は、浄瑠璃太夫の宇治加賀掾のために書かれたもので、自分の許を飛び出し道頓堀に竹本座を櫓揚げした竹本義太夫を潰すために、京都から一座を引き連れて乗り込んだ加賀掾が西鶴に依頼した作品。敗北した加賀掾はさらなる新作を依頼し、西鶴は『凱陣八島』をもって応え、対する義太夫側は当時まだ駆け出しの近松門左衛門の新作『出世景清』で対抗。今度は加賀掾側に分があったが、3月24日(4月27日)に火事にあい[5]帰京したという。この道頓堀競演については西沢一風の『今昔操年代記』に記されている。なお『歌舞妓始記評林』(1775年)に「往古の狂言作者には西鶴、杉三安、安達三郎左衛門、金子吉右衛門等ありといへども」とある。これについては西鶴による歌舞伎台本が残っておらず、また100年後の資料なので扱いは難しいが、現存する文献証拠で推測される以上に演劇界と深い関わりを持っていた可能性は十分に存在する[要出典]。しかし、竹内玄玄一『俳家奇人談』(1816年)にある近松が西鶴門だという言い伝え[6][7]は信じがたい[誰?]。
死とその後
元禄6年8月10日(1693年9月9日)に西鶴は没し、誓願寺に葬られた[8]。法名は仙皓西鶴信士、寺の日牌と月牌との記載に「鎗ヤ町 松寿軒井原西鶴 五十二」とあり、『難波雀』に記された鎗屋町で亡くなったことが分かる。同年冬に遺稿集として『西鶴置土産』が出版される。口絵に西鶴の肖像を載せるが、そこには「辞世、人間五十年の究り、それさへ我にはあまりたるに、ましてや」と詞書した、
浮世の月見過しにけり末二年
の句がある。遺稿集の出版は翌年以後も続き、『西鶴織留』(1694年)、『西鶴俗つれづれ』(1695年)、『西鶴文反古』(1696年)、『西鶴名残の友』(1699年)が出版された。『名残の友』の奥には、『筆蔵』という書の予告がされているが、それは刊行されなかったらしい[要出典]。
北条団水が中心となって催した西鶴の13回忌歌仙を載した『こゝろ葉』(1706年)の団水による「心葉緒」(序)は、おそらく西鶴の伝記の最初で、「摂ノ浪速ノ産」「西山梅芲ノ門」「世ニ矢数俳諧ト称スル濫觴ハ西鶴ニ始リケル」「貞享元年六月五日摂ノ住吉ノ神前ニ於テ西鶴亦一日一夜ノ独吟二万三千五百首ヲ唱テ」「元禄六年八月十日浮世ノ月ノ句ヲ唱テ哦然トシテ世ヲ辞ス」などとある。眼を引くのは「靍且餘力ノ日撰述ノ和書八十餘部」という箇所で、この「八十餘部」は実数ではなく「多数」程度の意味だろうが、西鶴の関わった書物がおおく失われただろうことを思わせる[誰?]。また、湖梅の追善句詞書の「下戸なれは飲酒の苦をのかれて」を見るに、西鶴は飲めなかったようである。
同時代の評価
俳諧師として
『生玉万句』(1673年)の自序に「世人阿蘭陀流などさみして」とあり、貞門俳人・中島随流は『誹諧破邪顕正』(1679年)で西山宗因を「紅毛(ヲランダ)流の張本」、西鶴を「阿蘭陀西鶴」と難じ、同じ談林の岡西惟中は『誹諧破邪顕正返答』(1680年)で「師伝を背」いていると批難、松江維舟は『俳諧熊坂』(1679年)で「ばされ句の大将」と謗ったように西鶴は多く批判されたが、それはむしろ当時の談林派でのまた俳壇での西鶴の存在の大きさを証する[要出典]。
ただ、西鶴は阿蘭陀流という言葉が気に入ったのか、『俳諧胴骨』(1678年)の序に「爰にあらんだ流のはやふねをうかめ」、『三鉄輪』(1678年)の序に「阿蘭陀流といへる俳諧は、其姿すぐれてけだかく、心ふかく詞新しく」などとした。
また西国撰の『見花数寄』[注釈 6](1679年)に載る西国と西鶴の両吟では、西国の「桜は花阿蘭陀流とは何を以て」という発句に西鶴が「日本に梅翁その枝の梅」とつけ、阿蘭陀流の幹に宗因(梅翁)を位置づける[要出典]。
作家として
都の錦が西鶴没後に書いた『元禄大平記』(1702年)の「写本料にてめいわくに候」には、
西鶴存生の時、池野屋二郎右衛門より、好色浮世躍といふ草子を六冊にたのまれ、いまだ写本を一巻も渡さずして、前銀三百匁かり、五日が間に南の色茶屋、木やの左吉が所江打込、其後池野やより、写本をさいそくするに、いついつは出来して渡そふ、これこれの日は埒が明くよしをけいやくする。其日になりて請取んといへば、すこしさはる事がありて、草案を仕直すによつて思ひの外隙をとる。当月中には埒が明と間似合の方便ばかりいふて、半年ほど引しらふ内に、西鶴此世をさり、
と、西鶴が原稿料を前借りして踏み倒したというゴシップが載るが[要出典]、都の錦という人物は信用するのは難く、また西鶴への対抗意識が強い人でもあったので、この話自体は眉唾。ただ、当時の資料で原稿料については他には見えず、また通俗作家に限っても原稿料がある程度一般化するのは100年後なので、前借りは作り話であるとしても稿料を貰っていたとすれば、西鶴はかなりの人気作家であったということになる。[独自研究?]
注釈
- ^ 没年と没年齢からの逆算。
- ^ 大坂難波生まれとされていたが、現在では西鶴文学会でも、西鶴の出自は紀州井原家であることが解明されている[要出典]
- ^ 『西鶴大矢数』(1681年)の自跋に「予俳諧正風初道に入て二十五年」とあり、これは『誹諧石車』(1691年)の「西鵬誹道に入て三十餘年の執行」とも矛盾しない。
- ^ 『誹諧石車』に「西鵬詞に、俳諧程の事なれども、我三十年点をいたせしに」とある。
- ^ 翌年出版された『誹諧大坂歳旦』の西鶴句の詞書に「法躰をして」とある。またその句につけた鶴爪の「自由にあそばせ誹諧は花」から、この時に西鶴が隠居したという考えもある[要出典]。
- ^ 「けんかずき」とよむ、つまり「喧嘩好き」
出典
- ^ 岡本勝, 雲英末雄編『新版近世文学研究事典』おうふう、2006年2月、30-31頁。
- ^ a b c d e f 岡本勝, 雲英末雄編『新版近世文学研究事典』おうふう、2006年2月、74-77頁。
- ^ a b c d e f g 中嶋隆編『21世紀日本文学ガイドブック4 井原西鶴』ひつじ書房、2012年5月、142-152頁。
- ^ 『浮世草子目録』(『新群書類従』第七)貞享三丙寅年「西鶴が超凡雄健の筆になりし好色本は、流行其極に達し、翁が最得意の全盛期なりしに、本年遂に好色本差止の令は當路の有司より下されぬ」
- ^ 『土橋宗静日記』
- ^ (竹内玄々一 1892, pp. 48–49) 27コマ
- ^ 上之巻 井原西鶴「近代戯作者の逸なる近松門左衛門は此門にいづるといひ伝ふ」
- ^ 江本 裕, 谷脇 理史 (編)『西鶴事典』おうふう、1996年12月5日、27頁。ISBN 9784273029180。
- ^ 青空文庫、また『梵雲庵雑話』に収録されている。
- ^ 島村抱月、淡島寒月、水谷不倒、徳田秋声「五人女合評」、『早稲田文学』明治39年12月号。
- ^ 田山花袋「西鶴について」 『インキツボ』(1909年(明治42年))所収
- ^ a b 『西鶴と西鶴本』(元々社、1955年)、『井原西鶴』(吉川弘文館、1958年)
- ^ 谷沢永一『執筆論』(東洋経済新報社、2006年)
- ^ 上阪彩香 , 村上征勝「西鶴作品の文章分析―先行研究の計量文献学的検証」『研究報告人文科学とコンピュータ(CH)』第2巻第2011号、情報処理学会、1999年4月、1-7頁。
- ^ “西鶴浮世草子の文章に関する数量的研究 ─遺稿集を中心とした著者の検討─-情報処理学会”. www.ipsj.or.jp. 2020年10月29日閲覧。
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