中村歌右衛門 (6代目) 来歴

中村歌右衛門 (6代目)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/17 18:21 UTC 版)

来歴

五代目中村歌右衛門の次男として生まれる。幼少時に母親の実家、河村家に養子入りしたため、本名は河村藤雄となる。父・五代目歌右衛門は歌舞伎座幹部技芸委員長として当時の劇界を牽引する大役者であり、御曹司として何不自由ない幼年時代を過ごした。この頃、先天性の左足脱臼が悪化して数年寝込み、大手術を行ってやっと歩けるようになったといわれる。そのため、歌右衛門の左足の動きは終世ぎこちなかった。

1922年(大正11年)10月、東京新富座『真田三代記』で三代目中村兒太郎襲名して初舞台。順風満帆と思われた舞台人生だが、1933年(昭和8年)に兄・成駒屋五代目中村福助(俗に慶ちゃん福助と呼ばれた)が早世するや一変する。この年11月、父の意向により歌舞伎座『絵本太功記・十段目』の初菊で六代目中村福助襲名。成駒屋の次代を担うべき人としての重圧がかかる。

1940年(昭和15年)にはその父も死去し、若き福助は歌舞伎界の孤児となる。この頃すでに次世代の六代目尾上菊五郎が絶頂期にあり、五代目が死ぬと周囲の人々は手のひらを返すようにして菊五郎のもとへとなびいた。福助のもとへは挨拶に来る者も稀で、有力な後盾はおろか、相談相手にも事欠くような有様となってしまった。

福助は翌年10月、歌舞伎座『絵本太功記』「十段目」の初菊、『浮世柄比翼稲妻』(鈴が森)の白井権八などで六代目中村芝翫を襲名。以後は、六代目菊五郎とともに「菊吉」と並び称された初代中村吉右衛門を頼んで吉右衛門劇団に所属した。ここで若手女形としての修業を重ね、吉右衛門や大阪の三代目中村梅玉二代目實川延若らの薫陶をうける。

吉右衛門劇団では同世代の女形が少なく、長らく吉右衛門の相方をつとめてきた弟の三代目中村時蔵に代わり、次第に芝翫がその後釜にすわるようになっていった。吉右衛門は特に戦争末期ごろから芝翫を次々と大役に抜擢し、舞台上で彼をリードするかたちで芝翫を育てていった。このころの芝翫はその輝くような美貌で有名で、若手のなかでは三代目尾上菊之助と並び称されたが、それだけではなかった。吉右衛門が得意とする義太夫狂言に多く出ることで、演目に対する解釈を深め、役柄をしっかりと把握、古典的な様式美に近代的な心理描写を加えた表現手法を着々と身につけていったのである。

狂女お夏
六代目中村福助時代。1939年(昭和14年)12月東京歌舞伎座『お夏狂乱』より。
1947年

1948年(昭和23年)、文部省芸術祭文部大臣賞受賞。1951年(昭和26年)4月には歌舞伎座妹背山女庭訓』のお三輪、『京鹿子娘道成寺』の白拍子花子、『祇園祭礼信仰記』(金閣寺)の雪姫で六代目中村歌右衛門を襲名した。口上では金屏風を前に、吉右衛門と七代目中村福助のみを後見として臨み、口上そのものも吉右衛門のみが行った。

吉右衛門の亡き後は、1954年(昭和29年)に自主的勉強会「莟会」を発足させ、数々の実験的な試みも行った。1962年(昭和37年)日本芸術院賞を受賞[1]1963年(昭和38年)には史上最年少の46歳で日本芸術院会員となる。1969年(昭和44年)には、日本俳優協会会長だった三代目市川左團次の死去にともない会長代行に就任。2年後正式に同協会会長に就任し、1999年(平成11年)まで28年の長きにわたりその職を務めた。

海外公演にも積極的に参加、1960年(昭和35年)のアメリカ本土公演を皮切りにソ連、ハワイ、カナダ、イギリス、ドイツ、フランスなど多数。1975年(昭和50年)には来日した英国のエリザベス女王の前で公演を行い、歌舞伎の海外への紹介に尽力した。

1980年代前半(昭和50年代後半)になると、足の衰えが顕著になり始め、「一世一代」と銘打たれた興行も見られるようになった。得意としていた大役の数々、例えば『本朝廿四孝・十種香』八重垣姫や『籠釣瓶花街酔醒』(籠釣瓶)の八橋などを丁寧につとめ、打ち収める姿は悲壮ともいえた。平成に入ると舞台に立つ機会はさらに少なくなったが、そんな中でも舞台の監修を積極的に行い、後進の四代目中村雀右衛門五代目坂東玉三郎九代目中村福助らに稽古をつけている。

1996年(平成8年)の舞台を最後に療養生活に専念。5年後に84歳で死去した。葬儀は金光教式によって行われた[2]


  1. ^ 『朝日新聞』1962年4月7日(東京本社発行)朝刊、14頁。
  2. ^ おおさきだよりメルマガ 121(通算405)号 2011(平成23)年11月号”. osaki.konko.jp. 2020年11月7日閲覧。
  3. ^ a b 中川右介「中村歌右衛門 — 封印された男衆との逃避行」『文藝春秋』89巻3号、2011年3月1日、325頁。
  4. ^ タイトルには「七世瀬川菊之丞」とあるが、主人公のモデルは六代目中村歌右衛門で、同小説が出版されてから15年後にこの名跡を襲名した前進座の七代目瀬川菊之丞とは何のかかわりもない。
  5. ^ 『三島由紀夫事典』(明治書院、1976年)
  6. ^ 人間国宝に七氏『朝日新聞』1968年(昭和43年)3月12日朝刊 12版 14面
  7. ^ 「96秋の叙勲受章者 勳一等・勳二等」『読売新聞』1996年11月3日朝刊





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「中村歌右衛門 (6代目)」の関連用語

中村歌右衛門 (6代目)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



中村歌右衛門 (6代目)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの中村歌右衛門 (6代目) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS