中村歌右衛門 (6代目)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/17 18:21 UTC 版)
人物
![](https://weblio.hs.llnwd.net/e7/redirect?dictCode=WKPJA&url=https%3A%2F%2Fupload.wikimedia.org%2Fwikipedia%2Fcommons%2Fthumb%2F3%2F3e%2FUtaemon_Nakamura_VI_April_1951.jpg%2F180px-Utaemon_Nakamura_VI_April_1951.jpg)
1951年(昭和26年)4月東京歌舞伎座「六代目中村歌右衛門襲名披露興行」『口上』を無事終えて。
性格
六代目歌右衛門は生涯を真女形として過ごしたが、若い頃は非常に積極的な行動が目立った。1938年(昭和13年)には、付き人の男性と駆け落ちして、温泉地に逃がれるという事件も起こしている[3]。この駆け落ち騒動は新聞でも大きく報じられ、六代目歌右衛門をモデルとした円地文子の小説『女形一代 — 七世瀬川菊之丞伝』[4]においても、多くの紙幅を割いてこの一件を描いている[3]。私生活でも女性のごとく振舞うようになったのは、最愛の妻を亡くしてからだという。
人に対しては、非常に丁寧な言葉を使い、物腰もやわらかかったが、実際は、一度決めたら最後までやり通す意志の強さと、引くべきところは引くという良識も兼ね備えていた。
交友
多くの良きライバルに恵まれていたことが、歌右衛門の成長のもととなった。特に七代目尾上梅幸とはよく比較された。それぞれが当たり役とした『娘道成寺』の白拍子花子、『合邦辻』の玉手御前などをはじめ『鏡山』の尾上とお初、『忠臣蔵』のおかる・戸無瀬・お石などは、両優が火花を散らす舞台として戦後歌舞伎の精華だった。
二代目中村鴈治郎とは双方の父親と同様ライバルでもあり、無二の親友でもあった。幼いころは鴈治郎を兄のように慕っていたという。『妹背山』のお三輪と鱶七、『隅田川』の班女と舟長、『先代萩』の政岡と八汐『鏡山』の尾上と岩藤、そして新作歌舞伎『建礼門院』の建礼門院と後白河法皇など、東西の成駒屋の息のあった舞台を披露した。二代目鴈治郎が死去した時は「花のある方でしたねえ。素晴らしい芸を持っていかれました」と嘆いたほどだった。その子である二代目中村扇雀が三代目中村鴈治郎を襲名する際は、不自由な身体を押して口上や『心中天の網島・河庄』の小春を務めている。
歌舞伎以外では、長谷川一夫や市川右太衛門と交友を持った。長谷川は初代中村鴈治郎の門弟であったことから、歌右衛門とは成駒屋同士のつながりがあった。1954年(昭和29年)8月、両者は一座を組んで北海道巡業を行っている。これには、長谷川が所属している東宝側が女形を求めていたことと、歌右衛門が松竹以外の人脈を求めていたからという思惑が動いていた。巡業中は、双方とも仲良く「長谷川先生」「成駒屋さん」と呼び合って、連夜マージャンを楽しんでいたという。翌年の東宝歌舞伎第一回公演ではともに東京宝塚劇場で共演した。
右太衛門とは昭和30年代(1955年 - 1964年)に舞踊の会で競演して以来親交があり、1986年(昭和61年)の俳優祭では、歌右衛門の強い希望で女早乙女主水介に扮し、右太衛門の当たり役・旗本退屈男こと早乙女主水介と競演、両ウタエモン揃い踏みで話題をさらった。
作家の三島由紀夫とも交友があり、三島は歌右衛門の演技に終生讃辞を惜しまなかった。また三島の小説に、歌右衛門をモデルにした短編『女方』がある。『女方』は、最初の歌舞伎台本『地獄変』上演時の様子をもとにして書かれたとされる[5]。これ以後も三島は、歌右衛門のために、『熊野』、『芙蓉露大内実記』などの台本を書き、また、『中村芝翫論』、『六世中村歌右衛門序説』などの評論も書いている。
趣味嗜好
趣味はクマのぬいぐるみ集め。最終的には千数百種類にのぼったという。また動物を愛し、遠くケニアへも旅したり、中国に遊んでパンダを抱き上げたりと、逸話には事欠かない。
休みの月は海外旅行に出かけることも多く、特に1960年(昭和35年)の歌舞伎初のアメリカ公演の折に訪れて以来、ラスベガスはお気に入りで、カジノで終日楽しむことも多かった。後に同市から名誉市民章を贈られている。また花を好み、晩年まで世田谷の自宅の庭では頻繁に庭師が呼ばれ、季節の花を楽しんだといわれている。
甘いもの、特にシュークリームが好物だった。三田の慶應義塾大学前にある和菓子屋の黄身しぐれもご贔屓だった。海外好きで洋食も好み、一例は東京會舘のコキールとオムレットなどお気に入りだった。
無類の尊皇家であり、皇族が観劇に訪れた際は、病気休演中を押して舞台を勤めることもあった。1953年(昭和28年)の天覧歌舞伎において、歌舞伎座で昭和天皇と香淳皇后の前で踊った『娘道成寺』は、語り草となっており、自身も大切な想い出としていた。
子弟
養子に四代目中村梅玉、二代目中村魁春(ともに、妻の兄の子)。芸養子に六代目中村東蔵がいる。
- ^ 『朝日新聞』1962年4月7日(東京本社発行)朝刊、14頁。
- ^ “おおさきだよりメルマガ 121(通算405)号 2011(平成23)年11月号”. osaki.konko.jp. 2020年11月7日閲覧。
- ^ a b 中川右介「中村歌右衛門 — 封印された男衆との逃避行」『文藝春秋』89巻3号、2011年3月1日、325頁。
- ^ タイトルには「七世瀬川菊之丞」とあるが、主人公のモデルは六代目中村歌右衛門で、同小説が出版されてから15年後にこの名跡を襲名した前進座の七代目瀬川菊之丞とは何のかかわりもない。
- ^ 『三島由紀夫事典』(明治書院、1976年)
- ^ 人間国宝に七氏『朝日新聞』1968年(昭和43年)3月12日朝刊 12版 14面
- ^ 「96秋の叙勲受章者 勳一等・勳二等」『読売新聞』1996年11月3日朝刊
- 中村歌右衛門 (6代目)のページへのリンク