中川 (さいたま市)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/30 09:15 UTC 版)
地理
さいたま市見沼区の南西部の大宮台地(片柳支台)上に位置する。南部には低地もある。至近に駅はないが、大宮駅と浦和美園駅までの路線バス(国際興業バス)が通っている。しかし、駅までは遠く交通の便は悪い。そのため開発が進まず、区画整理も行われなかったことから畑地が多く残り、道の入り組んだ、のどかな住宅地が形成されている。地内は南端のごく一部を除いた全域が市街化区域(主に第一種中高層住居専用地域)に指定されている[4]。畑地を宅地として売り出すが、立地条件が悪く好調とは言えない。
かつて、地区中央を南北に抜ける延長1170 mの都市計画道路「中川中央通線」があったが、第二産業道路などがあり需要が無かったことから2013年(平成25年)3月1日に廃止された。計画道路の南端部は一部用地が確保され、幅が広くなっている。
旧石器時代の遺跡である片柳下組遺跡や、縄文遺跡の中川遺跡や中川高井遺跡がある[5]。
地価
都道府県地価調査
歴史
- もとは江戸期より存在した武蔵国足立郡南部領に属する中川村であった[5]。畑作中心の村で村高は正保年間の『武蔵田園簿』では34石余、『元禄郷帳』や『天保郷帳』では49石余であった[5]。助郷は日光御成街道大門宿に出役していたが、享保・寛保・宝暦年間は水害被害に見舞われがちな植田谷領の村に代わり中山道大宮宿にも出役していた[5]。長芋や柿渋の産地で村の特産品であった。
- はじめは旗本青木氏の知行[5]。なお、検地時期は不詳。
- 1828年(文政11年)より大門宿寄場34か村組合に所属[5]。
- 幕末時点では足立郡中川村であった。明治初年の『旧高旧領取調帳』の記載によると、知行は旗本青木五十五郎であった。氷川社(中山神社)の社領も存在した[7]。
- 1869年(明治2年)12月2日 - 旗本領が上知され、浦和県の管轄となる(府藩県三治制も参照)。
- 1871年(明治4年)11月13日 - 第1次府県統合により埼玉県の管轄となる。
- 1879年(明治12年)3月17日 - 郡区町村編制法により成立した北足立郡に属す。郡役所は浦和宿に設置。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、片柳村・山村・東新井村・中川村・笹丸村・御蔵村・染谷村・南中野村・南中丸村・上山口新田・西山村新田・新右エ門新田・加田屋新田が合併し、新たな片柳村が成立する[8]。片柳村の大字中川となる[5]。
- 1955年(昭和30年)1月1日 - 片柳村が指扇村・馬宮村・植水村・春岡村・七里村とともに大宮市へ編入[9]。大宮市の大字となる。
- 2001年(平成13年)5月1日 - 大宮市が、浦和市、与野市と合併しさいたま市となり、さいたま市の大字となる。
- 2003年(平成15年)4月1日 - さいたま市が政令指定都市に移行し見沼区の大字となる。
世帯数と人口
2017年(平成29年)9月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
大字 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
中川 | 3,412世帯 | 7,948人 |
- ^ a b “さいたま市の人口・世帯(時系列結果)”. さいたま市 (2017年9月5日). 2017年9月20日閲覧。
- ^ a b “郵便番号”. 日本郵便. 2017年9月25日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2017年5月29日閲覧。
- ^ 外部リンク節の『さいたま市地図情報』を参照。
- ^ a b c d e f g 『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』 609頁。
- ^ 国土交通省地価公示・都道府県地価調査
- ^ 「旧高旧領取調帳データベース」の検索結果も参照。
- ^ 『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』 230頁。
- ^ 『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』 1420頁。
- ^ “さいたま市立小・中学校通学区域一覧”. さいたま市 (2017年8月23日). 2017年9月20日閲覧。
- ^ 埼玉県さいたま市見沼区中川の住所一覧 - いつもNAVI(ゼンリン). 2022年2月6日閲覧。
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