中原鄧州 年譜

中原鄧州

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/01 23:34 UTC 版)

年譜

  • 1839年(天保10年)- 4月3日、肥前国東松浦郡十人町で誕生。父は唐津藩士塩田壽兵衛惟和。幼名慶助。後に考次郎。
  • 1849年(嘉永2年)- 4月、平戸雄香寺の麗宗全澤の元で蓬髪。全忠の法名を得る。
  • 1850年(嘉永3年)- 11月、達磨忌にて得度(小坊主から正式な僧侶になる)。
  • 1856年(安政3年)- 平戸松浦候御用船に便乗して上洛。山城国綴喜郡八幡円福寺に入山。石應宗眠と初相見。狗子仏性公案を授かる。
  • 1857年(安政4年)- 方広寺に挂錫(修行滞在)中、天狗騒ぎが起こる。それが契機となり、初めて透過を得る。その後、石應が病に伏し、遷化。
  • 1858年(安政5年)- 11月、円福寺僧堂境内に誓いの松を植える。肥後国熊本見性僧堂に挂錫。蘇山玄喬に師事する。
  • 1860年(万延元年)- 蘇山の典座を務め、杵築養源寺の雨安居(夏期修行)を行う。この年から3年、豊後宇佐にて懶翁文静に師事。蘇山の下山に伴い、久留米梅林寺に転錫。羅山元磨に師事する。
  • 1861年(万延2年〜文久元年)- 解定(就寝の合図)後、井戸の上で座禅をするようになる。以後6年間、横臥しなかった。
  • 1862年(文久2年)- 12月1日〜8日、蠟八接心を成就。
  • 1865年(慶応元年)- 羅山より印可を受け、白崖窟の堂号を得る。
  • 1866年(慶応2年)- 見性寺に『槐安国語』を借り受けるため、第二次長州征討の戦火をくぐり抜ける。
  • 1867年(慶応3年)- 羅山遷化。その後、後任の関無学を補佐する。
  • 1868年(慶応4年〜明治元年)- 妙心寺にて、鶏林和尚の侍衣を務める。併せて同寺塔頭天授院にて越渓守謙に師事する。この年、父壽兵衛死去。
  • 1869年(明治2年)- 周防徳山藩の大成寺住職となる。
  • 1872年(明治5年)- 両派本山より全国師家点検の議事に任命。毛利元蕃から中原の姓を賜る。
  • 1873年(明治6年)- 九州巡回中、南天の棒を得る。これを警策とし、以降「南天棒」が通称となる。
  • 1875年(明治7年)- 全国道場破りを敢行。
  • 1879年(明治9年)- 再度、全国道場破りを敢行。
  • 1879年(明治11年)- 山城国相楽郡木津川市)の弘済寺再建に取り組む。6年後に完成。
  • 1879年(明治12年)- 大教校設立に反対。円福寺にて大教校の用具を焼却する。
  • 1880年(明治13年)- 山崎天王山にて真木保臣ら17士の招魂祭を行う。
  • 1885年(明治18年)- 南麻布曹渓寺選仏道場師家に任命される。山岡鉄舟と初相見。
  • 1886年(明治19年)- 9月26日、山岡の拝請で市ヶ谷道林寺に晋山。
  • 1887年(明治20年)- 10月、乃木希典と初相見。
  • 1891年(明治24年)- 6月3日、特命により瑞巌寺住職に任命。7月7日、瑞巌寺に晋山。
  • 1896年(明治29年)- 宗匠検定法を上程。不採用となる。留守中、5月25日に政宗木像損傷事件発生。檀家による弾劾騒ぎとなり、11月に瑞巌寺を辞し、大梅寺に入る。
  • 1900年(明治33年)- 竹田黙雷の拝請で円福寺臨時師家となり、大梅寺を退山。その際、南天棒を円福寺に奉納。
  • 1902年(明治35年)- 西宮海清寺住職に任命。
  • 1904年(明治37年)- 日露戦争出陣前の乃木が訪問。
  • 1908年(明治41年)- 東京禅学堂にて平塚らいてうと初相見。
  • 1909年(明治42年)- 12月、平塚、海清寺にて蠟八接心を成就。「全明」の大姉号を授かる。
  • 1912年(明治45年~大正元年)- 明治天皇崩御に乃木夫妻殉死。「万歳」の電報を送る。神葬に立ち会い、棺前に三帰戒を授ける。
  • 1915年(大正4年)- 信州飯山正受庵にて道鏡慧端二百年遠忌に出席。『南天棒禅話』発行。
  • 1916年(大正5年)- 『大悟一喝』発行。
  • 1917年(大正6年)- 8月、無因禅師五百年遠忌および入定式への拝請のため全国行脚を始める。
  • 1918年(大正7年)- 4月4日、五百年遠忌および入定式を挙行。
  • 1921年(大正10年)- 『南天棒行脚録』発行。
  • 1925年(大正14年)- 2月12日、海清寺にて遷化。

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  2. ^ 飯塚 77-78p
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  13. ^ 高橋 218-219p
  14. ^ 星 6-7p
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  16. ^ 中原 286-287p
  17. ^ Michel, Mohr「平塚らいてうが見た近代の宗教とその評価」『近代仏教』第12巻、2006年2月、20-38頁、NAID 40007370356hdl:10125/410542022年1月9日閲覧 
  18. ^ 飯塚 277p
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  22. ^ 高橋 207-211p、226-229p
  23. ^ 中原 26-30p
  24. ^ 飯塚 31-33p
  25. ^ 中原36-37p
  26. ^ 菅原 24p
  27. ^ 高橋 436p
  28. ^ 平松 215p
  29. ^ 中原 59-60p
  30. ^ 中原 52-55p、67-68p、93p
  31. ^ 中原 90-94p
  32. ^ 中原 64-67p、112-113p
  33. ^ 中原172-173p
  34. ^ 中原 234-235p
  35. ^ 平塚 271p
  36. ^ 薄田 79-80p
  37. ^ 星 6p
  38. ^ 高島 249-250p
  39. ^ 薄田 74p
  40. ^ 平塚 263-264p
  41. ^ 星 5p
  42. ^ 小笠原 130p
  43. ^ 中原 363-364p
  1. ^ 師も友も少なく、交際や知識の範囲が狭いという意味
  2. ^ 「りんきふじょうし」。「機(こと)に臨んでは師をも譲らず」という意
  3. ^ 毛利元蕃は明治4年の5月まで徳山藩知事であった。鄧州が住山した時期は10月である。
  4. ^ この数年前に国司親相が切腹した寺である。
  5. ^ 現在の大梅寺は昭和8年に再建されたものが主体である。
  6. ^ 明治3年に廃寺し、塔頭の茂松庵が茂松禅寺として残存している。
  7. ^ この乃木の軍帽は現在、寺西の子孫によって自衛隊伊丹駐屯地広報展示室に貸し出されている。





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