中原中也
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作風
中也の詩は、上京後は「朝の歌」に見られるようにランボー、ヴェルレーヌといった象徴派ふうの詩風だった[21]。その後宮沢賢治の詩集『春と修羅』に出会い、不思議な宇宙観と口語による響きに魅かれる[22]。1935年(昭和10年)、賢治の没後一周年に刊行された『宮沢賢治全集』[注釈 3]について『作品』1月号に掲載された推薦文では「僕は彼の詩集『春と修羅』を十年来愛読している」「此の我々の感性に近いもの、寧ろ民謡でさへある殉情詩が、此の殉情的な国で、今迄読まれなかったなぞといふことは不思議だ」と評価している[23]。
評価
生前の中也は『山羊の歌』の詩人として、小林秀雄、河上徹太郎らの友人から高く評価され、また室生犀星、草野心平、萩原朔太郎らも独特な歌の世界を貴重なものとして見ていた。没後は『文學界』『紀元』『四季』などがあいついで追悼号を企画、中也の評価が続いた[24]。戦後は、復員した大岡昇平の編集解説で『中原中也詩集』が創元社より1947年(昭和22年)刊行、大きな反響を呼んだ[25]。1949年(昭和24年)には『ランボオ詩集』、そして1951年(昭和26年)に『中原中也全集』全三巻が刊行。その後、中也の詩は各種文庫や詩歌全集に収録されるようになり、広汎な読者層を獲得した[26]。
エピソード
人柄・性格
中也の性格について、中也の弟呉郎の解釈によれば、「農から出て立志した父の“荒い血”と封建の臣として淘汰された母方の“静かな血”の混血から成るもの」という[27]。
中也は自分の名前は森鷗外につけてもらったと称していた。鴎外は父の謙助が軍医学校在籍時に校長を務めていた。しかし母のフクによれば、旅順の軍医大佐「中村六也(中村緑野)」からとったものだという[28]。中也は、珍しい読みを周囲に揶揄われたこともあり、自身の名前について余り好きではなかったという[29]。
中也の代表作「サーカス」は本人にとっても自信作であり、中也とはじめて会った人間は大抵朗読を聞かせられた。「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」のオノマトペを、仰向いて目をつぶり、口を突き出して、独特に唄った[30]。
中也の遺族によれば、帰郷すると東京の交友関係を大げさに吹聴していたという。小林秀雄は三代続いた江戸っ子、青山二郎は青山と名の付く町全部の大地主、といった具合である。これは両親に仕送りを続けさせて東京に在住するためと大岡らに説明していた[31]。
『白痴群』時代の服装は、五尺(151.5cm)に満たない体を黒いルパシカ、冬は黒い吊り鐘マントで覆い、頭には「お釜帽子」と呼ばれた黒いソフト帽をかぶっていた。のちに黒い背広に黒いベレー帽、冬は黒い外套に変わったが、黒ずくめの服装は中也のイメージとして定着した[32]。
大岡昇平は1976年月刊『ポエム』創刊号誌上での正津勉との対談の中で、中原の道化はわざとしているような感じで、一種の抗議者の役目を自分に振り当てている。ふざけて面白がっているところが随分あり、人に毒づいているときは結構楽しそうだったと語っている。また、2人は喧嘩をする割には会う機会が多く、皆最初は中原をあがめていたが、「白痴群」をやめるころから重荷になり始めた。こじれると妙に勘繰るところがあり、ありもしない下心をさぐられますますこじれたとも語っている。大岡は「中原の中には、疑うべくもない魂の美しさとともに、何とも言えない邪悪なものがあった」と書いている[33]。
嵐山光三郎が大岡昇平にきいたところによると、現在中也の肖像として広く知られている黒帽子の写真は、複写・レタッチを繰り返したため中也本人とかなり違うものになっているという。大岡曰く「皺が多いどこにでもいるオトッツアン顔だよ」とのこと[34]。
父親の謙助が死去した年、母のフクは中也が大学に行っていないことを中原家の親類から知らされ、中也に手紙を出して問い質すが、中也は偽名を使って他人を装い、仕送りを送り続けるよう工作した手紙をフクに送りつける。フクは筆跡から中也本人と疑うも、仕送りを続けたという[35]。
酒乱
22歳のとき、『白痴群』の同人の村井康男、阿部六郎と酒を飲んだ帰り、沿道の家の外灯を傘で叩き壊した。家の主人の町会議員は3人の後をつけ、交番につきだしたが、村井と阿部は教師だったため5日で釈放された。しかし身分がはっきりしない中也は15日間も留置された。警官への恐怖が後まで残ったという[36][37]。
青山二郎は死別した夫人の弟にバー「ウィンゾア」を出店させていた。常連は小林秀雄、井伏鱒二、大岡昇平ら若い文人たちだったが、中也が毎日顔を出し、誰かれかまわず絡んだり喧嘩をふっかけるので、1年でつぶれてしまった[38]。
坂口安吾は「ウィンゾア」で中也と知り合った。中也はお気に入りの女給が安吾と親しいのが気に入らず、いきなり殴りかかったが、大柄な安吾から少し離れたところから拳を振り回しているだけだったので、安吾は大笑いした[39][40]。
大岡昇平は『白痴群』の同人会で酔った中也に殴られたことがあった[41]。他にも中村光夫は「お前を殺すぞ」と言われビール瓶で殴られたことがある[42]。
吉田秀和は著書の中でレコードを購入した後に余った金で酒を飲もうとする中也を無理やり自宅へ連れて帰り、共に音楽に耳を傾けたエピソードを記している。
太宰治は同人誌「青い花」を創刊するにあたり、檀一雄や中也を誘った。東中野の居酒屋で飲んでいると中也は「青鯖が空に浮かんだような顔をしやがって」「お前は何の花が好きなんだい」と絡みだし、太宰が泣き出しそうな声で「モ、モ、ノ、ハ、ナ」と答えると、「チエッ、だからおめえは」とこき下ろした[43]。「青い花」は1号で終わり、太宰は「ナメクジみたいにてらてらした奴で、とてもつきあえた代物じゃないよ」と中也を拒絶するようになったが[44]、中也の死に対して太宰は「死んで見ると、やっぱり中原だ、ねえ。段違いだ。立原は死んで天才ということになっているが、君どう思う? 皆目つまらねえ」と才能を惜しんでいる[45]。
中原中也賞
中也の死の翌年から『四季』誌上で行われた詩人への賞。発案者は長谷川泰子で、夫の中垣竹之助が援助したが、3回で終了した[46]。現在山口市が主催する「中原中也賞」とは別のものである。
中也と作曲
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中也の詩のなかで、最初に活字になったものは『朝の歌』と『臨終』である。それらは諸井三郎により歌曲になり、1928年の第2回スルヤ演奏会で歌われたのだが、その際、機関誌『スルヤ』に歌詞として掲載されたのである。詩集どころか詩さえも発表していない、ゆえにまったくの無名といっていい詩人の作品に音楽がつくのは、きわめて珍しいケースであるといえる。
諸井は、中也の生前、彼の詩『空しき秋』『妹よ』『春と赤ン坊』に曲をつけ、中でも『妹よ』はJOBKで放送された。また、『スルヤ』の同人であった内海誓一郎は、1930年に『帰郷』『失せし希望』に作曲している。
中也の死後、石渡日出夫、清水脩、多田武彦らをはじめとして多くの作曲家が曲をよせている。クラシック系の歌曲、合唱曲が多いが、演歌やフォークソングも生まれている。とりわけ、友川かずきによる楽曲群(アルバム『俺の裡で鳴り止まない詩』以降も「わが喫煙」「頑是ない歌」など少なからぬ詩歌を取り上げている)が知られている。中也の友人であった作家の大岡昇平も、『夕照』『雪の宵』の2篇に作曲している。
海援隊の「思えば遠くへ来たもんだ」という曲は中也の「頑是ない歌」を盗用したと言われるほど一致点が多い。テレビ番組『知ってるつもり?!』で「20代の後半に無我夢中で読み、かなりの影響を受けた」「中也の詩から『思えば遠くへ来たもんだ』というフレーズが浮かんだ」と語っている[誰?]。
「汚れつちまつた悲しみに……」は、おおたか静流により曲が付けられ、NHKの『にほんごであそぼ』で歌われている。また歌手の桑田佳祐も曲にしている。GLAYの楽曲「黒く塗れ!」の歌詞にも、このワードが登場する[47]。他にも、GRANRODEOの楽曲「SUGAR」の曲間に中也に宛てた台詞があり、このワードが登場する。(GRANRODEOのボーカルであり声優でもある谷山紀章は後にアニメ「文豪ストレイドッグス」にて中原をモデルとしたキャラクター「中原中也」役(「汚れっちまった悲しみに」という名の能力を持つ)を演じている)「月の光」は、石川浩司により曲を付けられ、たまのアルバム『そのろく』に収録される。
最近では、たつの市出身の作曲家・薮田翔一が、中也の詩による歌曲を数多く作曲している。
注釈
出典
- ^ a b NHK出版「100分 de 名著」中原中也詩集。NHK「100分 de 名著」中原中也詩集、2017年1月9日放送。
- ^ (青木 2003, p. 74)
- ^ a b 大岡昇平「宮澤賢治と中原中也」『校本宮澤賢治全集第十巻 月報』筑摩書房、1974年
- ^ 中原中也「宮沢賢治全集」(外部リンクは青空文庫)
- ^ 作家読本 1993, p. 109.
- ^ 青木 2004, p. 110.
- ^ 中也の生家の直ぐ側の温泉旅館。1906年創業。中原中也賞の選考は、毎年ここで行われていたが、2017年6月負債3億2千万円で破産。毎日新聞2017年6月9日 https://mainichi.jp/articles/20170609/k00/00e/020/283000c 2019年10月6日閲覧
- ^ “湯田温泉 西村屋”. 2016年5月31日閲覧。
- ^ 作家読本 1993, p. 124.
- ^ 青木 2004, pp. 150–154.
- ^ 青木 2004, p. 177.
- ^ 青木 2004, p. 199.
- ^ 青木 2004, p. 238.
- ^ a b “中原中也記念館 館報2003第8号” (PDF). 中原中也記念館. 2023年6月8日閲覧。
- ^ 青木 2004, pp. 329–330.
- ^ 青木 2004, p. 356.
- ^ 青木 2004, p. 364.
- ^ a b c 高田博厚著作集Ⅳ. 朝日新聞社. (1985-11-1). pp. 119-127
- ^ 明治から昭和にかけての作家で、医師、異常心理の研究者であった中村古峡が、千葉に開院した病院。現在は、中村古峡記念病院。
- ^ 『文學界』1937年12月号
- ^ 増補改訂 新潮日本文学辞典 p.921
- ^ 作家読本 1993, p. 68.
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- ^ 作家読本 1993, p. 95.
- ^ 月刊『ポエム』創刊号「青春の中也」1976年10月1日発行
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- ^ 檀一雄『小説 太宰治』岩波現代文庫、40頁。
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- ^ “Vol.38 HISASHI WEBインタビュー”. GLAY MOBILE公式サイト. 2016年5月31日閲覧。
- ^ “中原中也記念館・企画展示「中也の兄弟たち」(平成20年12月17日(水)〜平成21年4月19日(日) )”. 笠間書院 (2008年12月17日). 2015年3月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月12日閲覧。
- ^ a b “月報「あすの九州・山口」2009年3月号”. 九州経済連合会 (2009年3月). 2017年4月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月7日閲覧。
- ^ “伊藤 拾郎”. コトバンク. 2017年4月16日閲覧。
- ^ 吉田 1996, p. 211.
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