ラテン帝国 国名

ラテン帝国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/10 20:50 UTC 版)

国名

東ローマ帝国からフランコクラティアギリシア語: Φραγκοκρατία, フランク人の支配)、あるいはラテノクラティア(ギリシア語: Λατινοκρατία, ラテン人の支配)としてラテン帝国は言及され、ラテン皇帝自身は一般的に、ラテン語: Imperium Constantinopolitanum英語: Empire of Constantinople, コンスタンティノープル帝国)やラテン語: Imperium Romaniae英語: Empire of Romania, ロマニア[注釈 5]帝国)、ラテン語: Imperium Romanorum英語: Empire of the Romans, ローマ人の帝国)といった様々な名前によって帝国について触れた。

歴史

起源と成立

1204年の第4回十字軍におけるコンスタンティノープル包囲
初代皇帝のボードゥアン1世像

第4回十字軍は当初、ムスリムが支配する都市エルサレムを取り返すために召集された。十字軍はアレクシオス3世によって帝位を簒奪され退位させられた、東ローマ皇帝イサキオス2世の子アレクシオス4世によって財政的・軍事的援助を約束されており、その支援によりエルサレムに進み続けることを計画していた。本来、計画はイサキオス2世を復位させるためのものであった。十字軍が東ローマの帝都コンスタンティノポリスに到達すると状況[何の?]は直ぐに危険なもの[何が?]へ一変し、イサキオス2世とアレクシオス4世が短期間統治したが、十字軍が望んだような支払い[どれ?]を受け取ることはなかった。1204年4月、彼らはコンスタンティノポリスの莫大な富を占拠し略奪した。十字軍によるコンスタンティノポリス略奪において、一連の経済的そして政治的事件[何の?]は頂点に達した。

コンスタンティノープル包囲戦の後、十字軍は5月16日フランドル伯ボードゥアン9世を初代皇帝に選出[注釈 6]し、総大司教にはヴェネツィア出身のトマーゾ・モロシーニ英語版を任じて、ラテン帝国を樹立した[3]正教会のローマ皇帝に代わってカトリックの皇帝を即位させるとともに、ラテン帝国は東ローマ帝国に代わって東方で西洋諸国が認めるローマ帝国になろうとしていた。[要出典]

十字軍は東ローマ帝国の分割について合意した[4]。1204年10月に署名された東ローマ帝国領分割条約英語版では、クレタ島などの島嶼部を含む帝国領の8分の3がヴェネツィア共和国のものとなった[5]。ラテン帝国は以下の残留領土を主張して権力を行使した。

旧東ローマ帝国領を封土として付与された十字軍諸侯らは、ラテン皇帝に忠誠を誓った[6]。さらなる公国[注釈 7]ニカイアニコメディアフィラデルフィアネオカストラ英語版といった小アジアで計画されたが、そこでニカイア帝国が誕生したため、これらの公国は机上のままであった[8]。皇帝ボードゥアン1世は、旧東ローマ帝国領の全土の征服を目指した。当初は順調に征服が進むかに見えたが、東ローマ帝国のギリシャ人貴族層を冷遇し、正教会の聖職者達にはカトリックの典礼を強制したため、ギリシャ人の不満は高まりだした。貴族達は東ローマ帝国の皇族達が各地に建てた亡命政権へ参加したり、第二次ブルガリア帝国(ワラキア=ブルガリア)と協力するなどしてラテン帝国へ抵抗し、聖職者達は協力を拒否した。

一方、新たに樹立されたラテン帝国の領土は十字軍の騎士達に封土として分割されたため、存立基盤が弱く、指導者の1人だったモンフェッラート侯ボニファーチョ1世はボードゥアン1世と対立し、ギリシアにテッサロニキ王国を築いて半独立の構えを示した。ヴェネツィアの関心は群島領土と海港の保持と制海権のみで、帝国の内陸部には興味を示さなかった。

ラテン帝国の支配権は、ニカイアのラスカリス家英語版トレビゾンドコムネノス家に率いられた残存国家英語版により直ちに楯突かれた。1224年から1242年には、テオドロス1世コムネノス・ドゥーカステッサロニキからラテン帝国に異を唱えた。ニカイアそのものは占領されることなく、その地を受領するはずだった指導者の1人ブロワ伯ルイ1世は1205年4月、ラテン帝国と第二次ブルガリア帝国の間で勃発したアドリアノープルの戦いで戦死し[9]、初代皇帝ボードゥアン1世も侵攻してきたブルガリア皇帝のカロヤン・アセンクマン人の連合軍に大敗して捕虜となった[10]。この敗北は、ラテン帝国への打撃でもあり、同国は混沌とした状態に陥った[11][12]。勢いづいたブルガリア軍は各地を蹂躙し、ラテン帝国側は首都コンスタンティノープルの他にはいくつかの主要都市を維持するだけであり、早くも滅亡寸前となった。しかし、ブルガリアのあまりに激しい略奪のため、ギリシャ人は再びラテン帝国を頼るようになった。摂政に立ったボードゥアン1世の弟アンリ・ド・エノーは、ギリシャ人に融和的な政策をとって彼等の支持を受ける一方で周囲を制圧し、東ローマ亡命政権のエピロス専制侯国やニカイア帝国とも有利な条件で講和を結ぶことに成功した。また、テッサロニキ王国のボニファーチョ1世とも、彼の娘英語版と結婚することで和解した。

ニカイア帝国による一時的な再征服の後、ニコメディアはラテン帝国の支配下に戻ったが、ニコメディア公領は帝国領の一部のままであった[13]。ボードゥアン1世の弟の第2代皇帝アンリ1世は、1205年のアドラミュティオンの戦い英語版で地方有力者であったテオドロス・マンガファス英語版を破った後にネオカストラの領有権を主張したが、そこがラテン帝国の実効支配下に入ることはなかった[14]。一方でネオカストラは単一の所有者に与えられることはなく、聖ヨハネ騎士団[注釈 8]その他の封建家臣[誰?]の間で分割された。

一方、第二次ブルガリア帝国は、ラテン帝国の成立を受けて当初ラテン帝国と友好関係を築こうと試みていたが、ラテン帝国側はそれを拒絶するどころか教皇も認めていたブルガリア領の支配権を主張した。ブルガリアのカロヤン・ヨハニッツァはトラキアでニカイア帝国のテオドロス1世ラスカリスら東ローマ貴族と同盟を組んでラテン帝国と対峙し、東ローマ側はカロヤンを皇帝として迎え入れることを約束した[15][16]。アドリアノープルの戦いでの予期せぬブルガリア側の勝利は東ローマ貴族にカロヤンに対する謀略を抱かせ、彼らはラテン帝国と同盟を結んだ[17]

1206年ルシオンの戦い英語版などでも敗戦が続いたラテン帝国は、東トラキアの多くの都市をブルガリアに占拠されたが、フィリッポポリスの戦い英語版のみはアンリ1世率いるラテン軍が勝利した。

その後、リュンダクス川の戦い英語版でもニカイア軍に勝利を収めたラテン帝国は、ニンファエウム条約でニカイア帝国との国境を画定し[18]、同じ頃にブルガリアとも講和条約を締結した[10]

衰退と崩壊

しかし、1216年にアンリ1世が死去すると帝国は再び衰退しはじめた。1217年、アンリ1世の後を継いでローマ教皇による戴冠を受け、陸路でコンスタンティノープルに向かっていたフランス人のピエール2世・ド・クルトネーは、ローマからコンスタンティノープルへ向う途中のアルバニア山中でエピロス専制侯国のテオドロス1世コムネノス・ドゥーカスに捕縛され[19]、2年後に獄中で死去した。1218年にはブルガリア皇帝に即位したイヴァン・アセン2世がラテン帝国との同盟を結び、1221年にラテン帝国側がフィリッポポリスをブルガリアに割譲した[20]

1222年、ニカイア帝国でヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェスが即位しようとしていたが、これに反対した前ニカイア皇帝テオドロス1世の英語版らはそれを妨げようと試みた[21]。しかし、失敗した彼はラテン皇帝ロベール1世に対して派兵を依頼し、1225年ポイマネノンの戦い英語版が勃発したが、これに敗戦したラテン帝国は小アジア地域における全領土を喪失した[22]1223年にはエピロス専制侯国にサロニカを奪われた[20]

1228年までにはラテン帝国の情勢は絶望的となり、ブルガリア側との交渉に入って当時未成年であった皇帝ボードゥアン2世イヴァン・アセン2世の娘エレナ英語版の婚姻を約束した。この結婚はブルガリア皇帝をコンスタンティノープルにおける摂政にさせるはずだったが、その一方でラテン帝国側はエルサレム王だったフランス人貴族ジャン・ド・ブリエンヌに摂政の地位を提供し[23]て建て直しを計り、ブリエンヌの娘英語版がボードゥアン2世と結婚した。

ニカイア帝国と同盟を結んだブルガリア帝国は、1235年コンスタンティノープル包囲戦を仕掛けるも失敗し、1237年にジャン・ド・ブリエンヌが死去すると、ボードゥアン2世の摂政に就けるようになったイヴァン・アセン2世はニカイアとの協力関係を破棄した[24]。ボードゥアン2世の治世は西欧からの援助を請う事だけに費された。

1241年頃にはモンゴル帝国による侵攻を受け、一時捕虜となったボードゥアン2世は後にモンゴル帝国の首都カラコルムに使者を派遣し、家臣としてハーンへの貢納を約束させられた後に釈放されたと見られている。[誰によって?]

その後、ミカエル8世パレオロゴスのニカイア帝国が国力を増強してラテン帝国侵攻を準備すると、1261年7月25日の夜中、ラテン帝国軍がヴェネツィア海軍と共に黒海西岸へ遠征に出ている隙をつかれて、ニカイア帝国軍がコンスタンティノープルに攻め入った。最後の皇帝ボードゥアン2世や一部の市民らは、遅れて到着したヴェネツィア軍により救出され逃亡、帝都を脱した[25][要文献特定詳細情報]。ここにラテン帝国は崩壊し、57年ぶりに東ローマ帝国が復活した(コンスタンティノープルの回復 (1261年)[26]。ボードゥアンはその後ローマに赴き、教皇ウルバヌス4世が将来ボードゥアンを皇位に復することを約束した[27]が、ウルバヌス4世は間もなく死去しボードゥアンも復位することはなかった。皇位は複数の詐称者[誰?]とともに14世紀まで存続した。1383年ジャック・デ・ボーが死去するまで、様々な生き残ったラテン人諸公国はラテン皇帝の血筋を認め続け、1579年オスマン帝国ナクソス公国を併合するまでラテン人の財産はギリシアに残った。

年表

  • 1204年 - フランドル伯ボードゥアン9世が、初代皇帝ボードゥアン1世として即位。
  • 1205年 - ラテン帝国軍、ブルガリア軍に敗北。ボードゥアン1世が捕虜となる。
  • 1206年 - アンリ1世が皇帝に即位。
  • 1216年 - アンリ1世が死去。ラテン帝国は以後衰退の一途をたどる。
  • 1217年 - ピエール2世・ド・クルトネーがエピロス専制侯国に捕らえられる。
  • 1225年 - ニカイア帝国軍に大敗。小アジアの領土の大半を失う。
  • 1242年 - モンゴル帝国軍に大敗。
  • 1261年 - ヴェネツィア海軍の留守中の7月にニカイア軍にコンスタンティノープルを占領され、ラテン帝国は滅んだ。

注釈

  1. ^ 東ローマ帝国は1261年にミカエル8世パレオロゴスの下でコンスタンティノープルを取り戻した。
  2. ^ 国境は明確ではない。
  3. ^ (コンスタンティノープルは1261年に東ローマ帝国に復帰していたが、)1273年から1283年までラテン皇帝の称号を有した、フィリップ1世・ド・クルトネーにより使われた国章。このデザインは時として、近世の紋章学において「コンスタンティノープルの皇帝の紋章」として示された[2]
  4. ^ 「東ローマ帝国」や「ラテン帝国」といった用語は、当時の帝国そのもの、またはその他の世界によって使われた当時の言葉ではなかった。ラテン帝国という国名は東ローマ帝国側からの呼称。
  5. ^ ロマニアとは「ローマ人の土地」の意味で東ローマ帝国の後継国家を目指す意味を持っていた。「ロマニア」という語は数世紀にわたり、東ローマ帝国臣民によって自国のために非公式に使われた。
  6. ^ これは前東ローマ皇妃(ハンガリー王女)と結婚して、ギリシア、ハンガリーの支持を得たモンフェッラート侯ボニファーチョ1世が強力になるのを恐れたヴェネツィア側が、より弱体なフランドル伯を支持したためであり、ボニファーチョ1世はこれを不満とし、最初から不協和音が流れていた。
  7. ^ ここでの「公国(英語: duchy)」という語は、旧東ローマ帝国領で通常ドゥクスによって管理されたテマ制という語が、属州を指定するために使われていたことを反映する[7]
  8. ^ 4分の1。

出典

  1. ^ a b c d Матанов 2014, p. [要ページ番号]
  2. ^ Hubert de Vries, (2011年). “Byzantium: Arms and Emblems”. hubert-herald.nl. 2016年11月10日閲覧。
  3. ^ ヘリン 2010, p. 349.
  4. ^ ヘリン 2010, p. 367.
  5. ^ 井上 & 栗生沢 1998, p. 184.
  6. ^ 井上 2005, p. 194.
  7. ^ Hendrickx 2015, pp. 305–306, 309.
  8. ^ Hendrickx 2015, pp. 308–310.
  9. ^ Hendrickx 2015, p. 308.
  10. ^ a b 森安 & 今井 1981, p. 123.
  11. ^ Андреев & Лалков 1996, pp. 168–171.
  12. ^ Fine 1987, pp. 81–82.
  13. ^ Hendrickx 2015, pp. 308–309.
  14. ^ Hendrickx 2015, p. 309.
  15. ^ Андреев & Лалков 1996, p. 167.
  16. ^ Kazhdan 1991, p. 1095.
  17. ^ Андреев & Лалков 1996, pp. 171–172.
  18. ^ 井上 & 栗生沢 1998, p. 180.
  19. ^ 井上 2005, p. 198.
  20. ^ a b 森安 & 今井 1981, p. 124.
  21. ^ 杉村 1988, p. 80.
  22. ^ 杉村 1988, p. 81.
  23. ^ Андреев & Лалков 1996, pp. 185.
  24. ^ Андреев & Лалков 1996, pp. 190–191.
  25. ^ 根津 2011, p. 92.
  26. ^ 井上 2005, p. 200.
  27. ^ ヘリン 2010, p. 396.


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