マーティン・ヴァン・ビューレン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/14 16:20 UTC 版)
生涯
生い立ち
ヴァン・ビューレンは、1782年12月5日にニューヨーク州の州都オールバニの25マイル(約40 km)南に位置するキンダーフックの村で、20人兄弟の3番目として生まれた。彼の5世祖父のコーネリスは1631年にオランダから移住した。マーティンの父親エイブラハム・ヴァン・ビューレン(1737年2月17日 - 1817年4月8日)は、農夫であり評判の居酒屋の主人であった。父親は6名の奴隷を所有し、アメリカ独立戦争を支持、後にはジェファソニアン・リパブリカン党に入党した。母親のマリア・ホーズ(1747年2月27日 - 1817年2月16日)は前夫との間に3人の子どもがいた。
ヴァン・ビューレンはキンダーフックの粗末な学校で基本的な教育を受け、その後キンダーフック・アカデミーとワシントン・セミナリーでラテン語を学んだ[5]。彼は作文と話法に優れていた。14歳までに基礎教育を終えると、1796年にキンダーフックの著名な連邦党員の判事であるフランシス・シルベスターのオフィスで法律を学び始める。シルベスターの元で6年を過ごし、見習い期間の最後の一年をウィリアム・ピーター・ヴァン・ネス(1778年 - 1826年)のニューヨークのオフィスで過ごした。1802年に学業を終えると、翌1803年に法曹界入りし、25年にわたって弁護士業を継続した。
ヴァン・ビューレンは1807年2月21日にキャッツキルで幼なじみで遠縁のハンナ・ホーズと結婚した。ヴァン・ビューレンと同じく彼女はオランダ系で、その話し方にはオランダ語のアクセントが残っていた。夫妻は5人の息子と1人の娘をもうけた。エイブラハム(1807年 - 1873年)は士官学校を卒業し軍人となった。ジョン(1810年 - 1866年)はイェール大を卒業し、ニューヨーク州検事総長となる。マーティン・ジュニア(1812年 - 1855年)は父親の秘書を務め、結核により早世するまで父親の論文を編集した。ウィンフィールド・スコット(1814年生、同年死去)は生後間もなく死亡し、スミス・トンプソン(1817年 - 1876年)は父親が大統領職にあった間、特別アシスタントを務めた。彼らの娘は死産であった。12年間の結婚生活の後、ハンナ・ヴァン・ビューレンは結核に罹患し1819年2月5日に35歳で死去した。マーティン・ヴァン・ビューレンはその後決して再婚しなかった。
初期の政治経歴
ヴァン・ビューレンは弁護士業で財をなし、政界入りの道を開いた。1800年以降のニューヨーク政界では、選挙においてトーマス・ジェファーソンとフェデラリストが没落し、共和党は3つの党派、ジョージ・クリントン、ロバート・リヴィングストン、アーロン・バーそれぞれの支持者に分裂していた。1799年以後、フェデラリストはこれらのグループの1つあるいは2つの連合によって支配されていた。ヴァン・ビューレンはクリントン支持派と連合し、1808年から1813年までコロンビア郡の代理人を務めた。また、ニューヨーク上訴裁判所の修正法廷のメンバーとして1847年まで務めた。
役人勤めを経て、1812年にニューヨーク州議員、1821年にニューヨーク州選出上院議員を経て1828年にはニューヨーク州知事に就任。同年の大統領選挙でアンドリュー・ジャクソンを強力にバックアップし、その論功行賞で国務長官に就任した。
ジョン・カルフーン副大統領夫人、フローリデ・カルフーンがジョン・ヘンリー・イートン陸軍長官夫人、マーガレット・オニール・イートンを認めることを拒否したペティコート事件においては自分とイートンがまず辞任し、その後に他の全閣僚が辞任するという案を提議して事態の収拾に貢献した。この功績をジャクソン大統領に評価され、彼の後継者に指名されることになった。
1832年に副大統領に指名され、ジャクソンが2期務めて引退すると前任のジャクソンに最も能力が近いということで、民主党の大統領候補として選出された。対抗する国民共和党はイギリスの同名の政党にあやかって「ホイッグ党」と命名したが、ウィリアム・ハリソン、ダニエル・ウェブスター、ヒュー・ホワイトと有力候補を乱立させたのが失敗となり、ヴァン・ビューレンが選挙人170を得て大統領に当選した。
大統領職
1837年に大統領に就任したが、同年の大恐慌など、在任中におきた数回の恐慌に対していずれも無策で目立った成果を上げられなかった。また、相当な贅沢好きも災いし人気を落とした。
前任のジャクソン政権下で制定された強制移住法に従い、先住民から武力で土地を奪った。先住民の一族であるチェロキー族を故郷から1000キロ以上離れたオクラハマの原野に追い立てたが、その途上で老人・子供を中心に多くの死者が出たとされている。この施策に対するヴァン・ビューレンの議会における反応は「(移住策は)幸福な結果をもたらしました。チェロキーはいささかのためらいもなく移住した」というものであった。
内閣
職名 | 氏名 | 任期 |
---|---|---|
大統領 | マーティン・ヴァン・ビューレン | 1837年 - 1841年 |
副大統領 | リチャード・メンター・ジョンソン | 1837年 - 1841年 |
国務長官 | ジョン・フォーサイス | 1837年 - 1841年 |
財務長官 | レヴィ・ウッドベリー | 1837年 - 1841年 |
陸軍長官 | ジョエル・ロバーツ・ポインセット | 1837年 - 1841年 |
司法長官 | ベンジャミン・フランクリン・バトラー | 1837年 - 1838年 |
フェリックス・グランディ | 1838年 - 1840年 | |
ヘンリー・ギルピン | 1840年 - 1841年 | |
郵政長官 | エイモス・ケンドール | 1837年 - 1840年 |
ジョン・ミルトン・ナイルズ | 1840年 - 1841年 | |
海軍長官 | マーロン・ディカーソン | 1837年 - 1838年 |
ジェイムズ・ポールディング | 1838年 - 1841年 |
指名した最高裁判所判事
- ジョン・カトロン - 1837年
- ジョン・マッキンレー - 1838年
- ピーター・ヴィヴィアン・ダニエル - 1842年
その後
任期の終了後、ヴァン・ビューレンは故郷のキンダーフックへ戻り、ホワイトハウスへの復帰を考えた。彼は1844年の大統領選挙において候補氏名のアドバンテージを持つと考えられた。有名な1844年4月27日の手紙では、率直にテキサス州の併合に反対の意見を示しており、それは後に彼の敗北に寄与することになったのだが、指名を実際に確信するまで公にされなかった。民主党大会でヴァン・ビューレンは投票の多数を獲得したが、規定に定められた3分の2を得票できなかった。8度の投票の後に、ダーク・ホースのジェームズ・ポークが民主党大統領候補の指名を得た。
1848年の大統領選挙では、ヴァン・ビューレンは2つの小政党によって指名された。最初は民主党員の党派によって結党された「バーンバーナー」によって、次に「自由土地党」によってであった。しかしながら選挙人団投票で勝利を得ることはなかった。1860年の選挙ではエイブラハム・リンカーンに反対する選挙人融合を支持した。しかしジェームズ・ブキャナン大統領の南北分裂に対する姿勢を支持できず、最終的にはリンカーンを支援した。
ヴァン・ビューレンは1861年秋に肺炎で寝たきりとなり、1862年7月24日の午前2時にキンダーフックの自宅で気管支喘息と心不全により死去した。遺体はキンダーフック墓地に埋葬された。
注釈
- ^ 一般投票の結果は僅差だったものの、選挙人得票で大差がつき、ウィリアム・ハリソンが大統領に当選した。
出典
- ^ Adherents.com, The religion of Martin Van Buren, 8th U.S. President
- ^ Martin Van Buren president of United States Encyclopædia Britannica
- ^ NARA.gov, Martin Van Buren
- ^ Sturgis, Amy H. (2007). The Trail of Tears and Indian Removal. Greenwood Publishing Group. pp. 93. ISBN 031333658X
- ^ Gazetteer and business directory of Columbia County, N.Y. for 1871-2 (Printed at the Journal office, 1871) pg. 106-108
- ^ 『アメリカ大統領を読む事典』宇佐美滋著、講談社+α文庫、p273
- ^ 『アメリカ大統領を読む事典』宇佐美滋著、講談社+α文庫、p419
- ^ 『ちょっと笑える話』ベネット・サーフ著、常盤新平訳、文藝春秋文春文庫、p23
- ^ State.gov, US State Department List of Secretaries of State
- ^ Senate.gov, US Senate List of Vice Presidents
- ^ WhiteHouse.gov, White House List of US Presidents
- ^ The height differences between all the US presidents and first ladies ビジネス・インサイダー
固有名詞の分類
アメリカ合衆国国務長官 |
ジョン・ヘイ ヒラリー・クリントン マーティン・ヴァン・ビューレン コーデル・ハル ウィリアム・ジェニングス・ブライアン |
アメリカ合衆国の副大統領 |
セオドア・ルーズベルト アル・ゴア マーティン・ヴァン・ビューレン ヘンリー・A・ウォレス トーマス・A・ヘンドリックス |
アメリカ合衆国の大統領 |
Rutherford B. Hayes Harry S Truman マーティン・ヴァン・ビューレン ハーバート・フーヴァー トーマス・ジェファーソン |
在イギリスアメリカ合衆国大使 |
ロバート・トッド・リンカーン ジョン・ヘイ マーティン・ヴァン・ビューレン ルイス・サスマン ジョセフ・リード・インガーソル |
ニューヨーク州知事 |
ジョン・オールデン・ディクス セオドア・ルーズベルト マーティン・ヴァン・ビューレン サミュエル・ティルデン ネルソン・ロックフェラー |
アメリカ合衆国の弁護士 |
ヒラリー・クリントン ウェンデル・L・ウィルキー マーティン・ヴァン・ビューレン ウィリアム・コリンズ・ホイットニー ルイス・サスマン |
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