ペルーの歴史
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カウディーリョの時代(1824年-1884年)
独立後のペルーの政治はやはり多くのラテンアメリカ諸国と同じくカウディーリョ(地方に依拠する軍事指導者)の政治となり、1846年まで各地でカウディーリョ間の私闘が続いた。その中でも特に有力だったのはアヤクーチョの戦いでスクレと共に戦ったホセ・デ・ラ・マール、アグスティン・ガマーラ、アンドレス・デ・サンタ・クルスの三人であった[56]。一方ボリビア共和国(ボリーバルの共和国)の事実上の初代大統領はベネズエラ人でボリーバル派のスクレだった。ラ・マールとガマーラは強硬な反ボリーバル派であり[57]、大コロンビアやボリビアのスクレ政権と敵対し、周辺国との戦争に明け暮れた。1828年にラ・マール政権はグアヤキル(現エクアドル最大の港湾都市)を要求してコロンビア共和国に宣戦布告したが、ラ・マール大統領はポルテテ・デ・タルキの戦いでボリビアからコロンビアに帰国したスクレに打ち破られた後、ラ・マールはガマーラによって追放された[58]。他方ボリビアでは、1827年にスクレが失脚してから、サンタ・クルスが実権を握っていた[59]。この後、1829年にペルーの大統領になったガマーラとボリビアの大統領になったサンタ・クルスは、互いにペルーとボリビアの合邦構想を抱き、自らがその領袖となろうとしていた[60]。
ペルー国内の政変で失脚したガマーラはボリビアの攻略を計画したが、先手を取ったボリビアのアンドレス・デ・サンタ・クルス大統領が、ボリビア主導でのペルー・ボリビア連合構想に基づいて1836年にペルーを完全征服し、同1836年10月に北部ペルー、南部ペルー、ボリビアの三州から成るペルー・ボリビア連合の成立が宣言された[61][62]。ガマーラをはじめとする亡命ペルー人は独立戦争の経緯から反ペルー感情の強かったチリに亡命すると、チリ政府とアルゼンチンの実力者フアン・マヌエル・デ・ロサスの力を得て軍を動かし、ユンガイの戦いでサンタ・クルスを破ったため、1839年にこの国家連合は崩壊した[63]。
再び独立したペルーではガマーラが大統領に就任し、1841年にペルー主導でのペルー・ボリビア連合を望んだガマーラは侵攻軍を率いてボリビアに向かったが、インガビの戦いでボリビア軍によって撃退され、ガマーラ自身も戦死した[60]。翌1842年にプーノで両国の講和条約が結ばれ、以後両国の統一を望む運動はなくなった[64][65]。ガマーラの死後ペルーは内乱状態に陥ったが、1845年にかつてアヤクーチョで戦ったラモン・カスティーリャが内乱を制して大統領に就任すると、この1845年から1867年まで事実上ペルーを支配したカスティーリャの時代に、強権によってペルーの内政は安定を迎えた[64][66]。この時代にはイギリスやアメリカ合衆国をはじめとする外国資本によって経済開発が進み、肥料に適していた海岸部のグアノ(海鳥の糞からなる鉱石資源)や、コスタでの綿花やサトウキビ、タラパカでの硝石が主要輸出品となってペルー経済を支え、特にグアノから生み出された富によってそれまで滞っていた公務員や軍隊への給与や外債の支払い、鉄道や電信、上下水道、港湾などインフラストラクチュアの整備、士官学校の創設や海軍の増強、盗賊の出没した街道の治安の確立などの諸事業がなされた[67][68]。
1851年にはペルー史上初の自由選挙でホセ・ルフィーノ・エチェニケが大統領に就任した。1852年には民法が制定されたなど功績もあったが、エチェニケが汚職事件を引き起こしたことがスキャンダルとなったため、1854年にラモン・カスティーリャが蜂起し、カスティーリャは同年反乱の最中にインディオの貢納と奴隷制の廃止を宣言した[64]。翌1855年にラ・パルマの戦いでカスティーリャが政府軍に勝利すると、同年第二次カスティーリャ政権が成立した。カスティーリャは1860年に立法府を凌ぐ強力な大統領権が定められた新憲法を制定し、この憲法は比較的長命な憲法となり、実に1920年まで効力を保った[69]。他方、反乱の最中の1854年に黒人奴隷が解放されたことは、ペルーの指導層に奴隷に代わる新たな労働力を必要とさせたため、1849年に成立した移民法によってコスタのプランテーションで働く労働力として、アイルランド人移民やドイツ人移民、中国人移民が導入された[70]。苦力(クーリー)として導入された中国人の数は1850年から1880年の間に約10万人だと推計されており、黒人に替わる新たな奴隷の如き劣悪な労働条件で労働させられた[71][註釈 4]。しかし、依然として労働力は不足していたために、ペルー政府の要請を受けたアイルランド人のジョゼフ・バーンは、ポリネシアのクック諸島などの住民を奴隷として捕らえ、コスタの大農園に連行したため、これらの諸島の文化は大きく衰退することになった[73]。また、インディオ農民に対する税はカスティーリャによって廃止されていたが、他方でそのことは大土地所有者がインディオ共有地を解体して大農園を拡大させる作用をもたらし、農民大衆の窮乏に変化はなかった[74]。第二次カスティーリャ政権はペルー・アマゾンの開発を進め、イキートスを拠点にゴムやキニーネが生産された[69]。
1863年に副大統領から昇格したフアン・アントニオ・ペセット政権の時代に、ペルーの大地主によるバスク人移民の扱いがペルーとスペインの間で外交問題となり、1865年に海軍大臣ホセ・マヌエル・バルハ率いるスペイン太平洋艦隊がチンチャ諸島を占領した[75]。バレハはチンチャ諸島と引き換えに300万ペソをペルーが支払うことを求める屈辱的な講和条約を要求し、ペセットはこれを飲んだが、この条約は国民の怒りを招いたためにペセットは失脚し、主戦派のマリアーノ・イグナシオ・プラードが大統領に就任した[76]。プラードは1866年にスペインに宣戦布告し、チリ、エクアドル、ボリビアと同盟を結び、侵攻してきたスペイン軍に対してペルー軍は5月2日のカヤオの戦いで勝利し、スペイン軍は撤退し、以降ラテンアメリカの主権に脅威を及ぼすことはなくなった[77]。スペインがペルーの独立を認めたのは1879年のことであった。
1868年に就任したホセ・バルタ大統領はグアノ利権によって鉄道の建設を進めた。1872年にペルー初の政党だった文民党からマヌエル・パルドが、文民として初めて大統領に就任した。パルド政権下ではグアノの枯渇が始まっており、財源の不足からパルド政権はアルゼンチンと同盟を、ボリビアと秘密同盟を結んだ上で軍の予算を1/4に減らす大軍縮を行ったが、この措置はペルーにとって命取りとなった[78]。
1876年に再び大統領に就任したマリアーノ・イグナシオ・プラードは難題に直面した。前政権の大軍縮やグアノ経済の悪化の中で、既に財政破綻が迫っていたのである[79]。さらに、それまでチリとボリビア両国間ではアントファガスタの硝石鉱山を巡って対立が生じていたが、ペルーはボリビアとの秘密同盟を結んでいたために、1879年4月3日に同盟国ボリビアと共にチリに宣戦布告され、太平洋戦争が勃発した[80]。ペルー海軍は5月21日のイキケの海戦で新鋭艦のインデペンデンシアを失いながらもミゲル・グラウ提督はワスカルを駆って神出鬼没の海上ゲリラ戦を繰り広げたが、10月8日のアンガモスの海戦でグラウが戦死し、ワスカルが拿捕されるとペルーは制海権を失い、大勢は決した[81]。戦線は陸上に移行したが、制海権を失った状態でのアタカマの砂漠地帯の補給は叶わず、1880年5月にはタクナが陥落し、ボリビアが戦線から離脱した[82]。続くアリカの戦いでもフランシスコ・ボログネシ将軍に率いられたペルー兵は勇戦したものの敗北し、ボログネシ自身も戦死した後、1880年中にアタカマの係争地はチリ軍によって占領された[83]。1881年1月に25,000人の兵力でリマ近郊に上陸したチリ軍は、ミラフローレスの戦いでペルー軍を破り、首都リマは陥落した[84]。リマ陥落後ペルーは政治的に分裂して各地に3人の大統領が生まれたが、混乱を制してカハマルカで権力を掌握したミゲル・デ・イグレシアス大統領によって1883年10月23日にアンコン条約が結ばれ、ペルーはチリにタラパカを割譲し、アリカ、タクナをチリ管理下にした後住民投票で帰属を決定することとなった[84]。戦争はペルー・ボリビア同盟の完敗で終わった。
文化面ではこの頃、フランスの文化が導入され、1880年代からはリマ市もフランス風に改造された[85]。一方庶民の世界ではレオン・アングラン、ヨハン・モリッツ・ルゲンダス、パンチョ・フィエロなどの画家や、『ペルー伝説集』を残した文学者のリカルド・パルマなどが活躍し、この時期にリマでは支配階級から距離を置いた大衆の文化としてのクリオーリョ文化が育った[86]。
註釈
- ^ 最初期のペルー副王領は現在のペルーのみならず、ポルトガル領ブラジル以外のパナマより南の南アメリカ全体を統括していた[16]。
- ^ ドビンズの推計値は増田、柳田(1999:13)からの孫引きであることを明記しておく。
- ^ 皮肉にも彼の子孫のエルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナは、彼とは異なり20世紀後半のラテンアメリカの革命闘争に従事したのであった。
- ^ 日本とペルーが1873年に国交を結ぶきっかけとなったマリア・ルス号事件は、この過程で発生した事件であった[72]。
- ^ オンセ=onceはスペイン語で11を意味する。
- ^ この面積に関しては20万km²と主張している資料も存在する[124]。
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