パナール
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/18 03:37 UTC 版)
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業種 | 自動車・防衛産業 |
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後継 |
シトロエン ルノートラック |
設立 | 1887年 |
創業者 |
ルイ・フランソワ・ルネ・パナール エミール・ルヴァッソール |
解散 |
1965年 ![]() |
本社 | フランス パリ |
親会社 |
アルクス ![]() |
ウェブサイト |
www![]() |
![](https://weblio.hs.llnwd.net/e7/redirect?dictCode=WKPJA&url=https%3A%2F%2Fupload.wikimedia.org%2Fwikipedia%2Fcommons%2Fthumb%2F0%2F0d%2FPanhard-levassor.jpg%2F250px-Panhard-levassor.jpg)
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世界的には、19世紀末期から自動車生産を始めた世界有数の老舗自動車メーカーとして知られている。特にその初期の1890年代から1900年代にかけては自動車技術の最先端を行く存在として、現代にまで通じるフロントエンジン・リアドライブ方式の考案・開発などで自動車の発達に大きく貢献すると共に、レースでも多くの勝利を重ねた。
20世紀に入ると一転して時流に遅れた保守的な高級車メーカーとなり、第二次世界大戦前はスリーブバルブ方式のエンジンに固執し続ける特異な方針を貫いたが、1930年代半ばからはラディカルな設計のモデルを登場させるようになる。
第二次世界大戦後の1946年からは高級車業界を撤退して小型車分野に転進、先進的な前輪駆動の小型乗用車の生産に専念した。しかし、あまりに独創的な設計思想と小さな生産規模が災いし、経営不振から1955年以降シトロエンの系列下に入ることになる。1965年にはシトロエンに吸収合併され、パナール・ブランドの乗用車生産は1967年で終了した。
以後はシトロエン(およびその後身のPSA・プジョーシトロエン)系列下の軍用車両専業メーカーとなるが、PSAグループは2005年4月、同じくフランスの小型軍用車メーカーであったオーバーランド(Société Nouvelle des Auomobiles Auverland)に、パナールを売却した。 パナールを買収したオーバーランドは、知名度の高さを主な理由に商標をパナールへと統一。これによりパナールの名は残され、軍用車両専業メーカー・パナール ジェネラル ディフェンス(Panhard General Defense)として存続することになった。
- ^ 「Panhard」のフランス語での正確な発音表記は「パンアール」の方が近いが、本稿では日本で定着している表記である「パナール」を用いる。また同社の正式な旧名は「パナール・エ・ルヴァッソール」(Panhard et Levassor)であるが、日本では「エ」を抜いた「パナール・ルヴァッソール」と表記されることが多いため、本稿ではこの慣例に従う。
- ^ それ以前のギアセットは床下露出状態で砂塵に晒されており、消耗が激しく、騒音も酷かった。
- ^ ラジエターはまだこの時点では、フィン付きのパイプを屈曲させただけの原始的設計だったが、それ以前の水冷エンジンが車体後部の冷却水タンクからの自然蒸発冷却に頼っており、水の消耗でパナール車でも100 km毎に1回は給水を要したことに比べれば、非常な進歩であった。
- ^ ダイムラーの新設計による2気筒1,200 cc・5馬力「フェニックス」エンジンを搭載したエミール・ルヴァッソール操縦の2座パナール「No.5」は、パリ - ボルドー往復1,178 kmを48時間48分で走破して、このレースの1位となった。ただしレースのレギュレーションである「4座以上」の条件を満たさなかったため、正式な優勝者とはならず、ルヴァッソールも承知の上での出場であった。延べ50時間に及ぶ連続ドライブは偶発事態と言うべきもので、スタートからルヴァッソールの運転ペースがあまりに速すぎたため、途中の交替地点で歯、予定より大幅早着の深夜となってしまったのが原因である。折悪しく交替ドライバーはまだ就寝中であったため、大幅リードに勢い付いていて、後続車に差を付けたかったルヴァッソールは、結局、途中で助手だけを乗せ替えて、ほとんど休憩を取ることもなく、往復全区間を運転しきってしまった。歓呼の声に迎えられてパリにゴールしたルヴァッソールは、ブイヨンとゆで卵を平然と平らげてから「深夜のレースは危険であるから避けた方が良い」と語ったという。当時の夜間ドライブは馬車並みの石油ランプに頼るほか無く、灯火類の改良は以後も安全面での切実な課題であり続けた。 1907年、フランス自動車クラブ(ACF)はルヴァッソールの壮挙を顕彰するため、ボルドーレースの発着点となったパリ市内のポルト・マイヨに、ルヴァッソールとパナールNo.5を彫刻した記念碑を建てている。
- ^ 『20世紀全記録 クロニック』小松左京、堺屋太一、立花隆企画委員。講談社、1987年9月21日、p201。
- ^ AFGコンセプトの小型車は、同時期にイギリスのケンドールやオーストラリアのハートネットといった新興企業も導入を試みたものの、量産化することはできなかった。
- ^ エンジンは空冷水平対向2気筒だがオートバイ並にシリンダーヘッドを一体構造としており、半球形燃焼室で対向する吸排気バルブが、バルブスプリングに同一のトーションバー1本を共用するという異例の設計であった。トーションバーバルブスプリングの採用は、他にはオートバイやレース用エンジンでわずかな事例がある程度である。 当初は別々のトーションバー2本を使用したが、のちに1本同軸・吸排気で互いに逆ねじりする方式となった。このためバルブオーバーラップの設定は不能である。しかもこのエンジンは、メインベアリングをローラーとしたうえ、メインローラー相互間にサブローラーを挿入してローラー同士の隣接摩擦を回避していた。この贅沢かつ奇想天外な設計は戦後型パナールに長く受け継がれ、1967年の「24」ティグル用最終型では、848 cc・60 HP(グロス値)という高性能を発揮した。
- ^ 前輪独立懸架は横置きリーフスプリングで当時としては普通の設計であったが、後輪はへの字型の鋼管車軸を片側あたりのべ4本もの横置きトーションバーで支持する複雑な設計で、固定車軸でありながら、一種、独立懸架に近い機能を確保した、他に類似例のない構造であった。
- ^ ディナXの車体生産が無くなって遊休設備を抱えたファセル・メタロン社は、ファセル・ヴェガ(Facel Vega)を自社開発し、高級車市場に進出する。
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