デ・ハビランド DH.106 コメット
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/01 02:26 UTC 版)
連続事故
運航停止と再開
就航から1年の間に3機の Mk.I/IAが離着陸時の事故で失われたが、乗客に死者は出なかった。何れも高速機特有の挙動に不慣れなパイロットの操縦ミスによるものと判断されたが、マニュアルが改訂され運用法が変更された他、既存機にも失速性能向上のための改良が施された。
しかし1954年1月に、ローマのチャンピーノ空港を離陸後、イタリア近海を飛行中の英国海外航空のMk.I/IAが墜落し、乗客乗員35人が全員死亡した(英国海外航空781便墜落事故)。回収された残骸の状況などより空中分解が疑われ、本件事故の発生を受けた英国海外航空はコメット全機の運航を停止し、東京、シンガポール、ヨハネスブルグに駐機していた3機を、郵便物以外空席のまま低空飛行でロンドンに呼び戻した。
その後耐空証明を取り消されたが、問題部分と思われた個所を改修後に運航が再開された。しかし運航再開後の同年4月にも、イタリア近海を飛行中の南アフリカ航空のMk.I/IA機が墜落し、乗客乗員21名が全員死亡した(南アフリカ航空201便墜落事故)。
2度に渡る空中分解を受けてコメットは再び耐空証明を取り消され、全機運航停止処分になった。この時も羽田空港に滞在していた英国海外航空機が、運航停止の報を受けて乗客を乗せず、低高度飛行をして急遽本国に取って返している。
徹底調査
時のイギリス首相のウィンストン・チャーチルから「資金と人員を惜しまず徹底調査せよ」との指示を受けたロイヤル・エアクラフト・エスタブリッシュメント (RAE) によって、イタリア沖に1月に墜落した機体の大規模なサルベージと復元作業が行われ、イギリス国内のみならず、アメリカからダグラスも参加して徹底的な調査が実施された。
いくつかの事故原因が取りざたされる中、最も有力な説として与圧された胴体が高高度を飛行する中で金属疲労で破壊された可能性が指摘された。そこで実際に英国海外航空で使用されていたコメットMk.I1機を試験用に廃用、巨大な水槽を建造して中に胴体を沈め、水圧を掛けて地上で人工的に与圧状態を作り出し、これを解除するサイクルを繰り返す、極めて大がかりな再現実験が計画された。
人力制御で1954年6月初旬から開始された試験では、致命的な破損が発生まで数ヶ月かかると予想されたところ、実際には3週間足らずで発生した。その後実験データを解析した結果、数万フライト分と計算されていた構造寿命が、実際には一桁低かったことが判明した。1955年2月には、離着陸サイクルで加減圧と熱収縮の反復に晒されたことで発生した金属疲労が原因だとする、最終報告が纏められた。窓枠の角、或いは航法装置取付部に亀裂が発生し、これが成長して機体が破裂的な空中分解に至ったのである。
このシークエンスが明らかになったことで、その後のジェット旅客機は、応力の集中する窓などの開口部の角を丸くし、また万一亀裂が生じてもその成長を食い止めるフェイルセーフ構造が採り入れられた。
なお、連続墜落事故発生当時、製造ライン上にあったMk.IIは量産型13機が完成した。日本航空やパンアメリカン航空など世界各国の航空会社から受けていた発注をすべてキャンセルされたが、胴体構造を変更、強化し、飛行回数を制限した上で、イギリス空軍の輸送機として継続運用され、安全性を実証する傍ら飛行データの収集が続けられた。
注釈
- ^ 郵便物は軽荷重で旅客機に比べて安全面での制約も厳しくないので、開発のハードルは旅客機に比べると低い。
出典
- ^ 「「コメット」号東京に到着 成層圏定期航路に大収穫」『朝日新聞』1952年7月8日、3頁。
- ^ あの街この街 英映画社 NPO法人科学映像館
- ^ B.O.A.C Year Of History (1952)
- ^ BOAC
固有名詞の分類
イギリスの旅客機 |
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