デ・ハビランド DH.106 コメット
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/01 02:26 UTC 版)
再就航
Mk.IIIの登場
続くMk.IIIはこれらのフィードバックを受けて抜本的な改設計を受け、大西洋横断飛行が可能なストレッチ版の本格仕様に成長し、1954年末に初飛行し、1機だけ生産された原型機は主にロールス・ロイス社のジェットエンジンの試験機(フライング・テストベッド)として運用された。
しかし同年367-80(後のボーイング707)を進空させたアメリカのボーイングが、自社の新型旅客機が実用化するまでの間、FAAに政治的圧力を掛けてアメリカの耐空証明の再発行を先延ばしさせ続けさせたとも言われ、また英国海外航空も1956年にはボーイング707を発注していた[4]。
さらにパンアメリカン航空や日本航空、アリタリア航空などの航空会社からはコメットの再発注を得られず、設計着手から10年を経ていたコメットはこの空白期間にリードを失い、陳腐化を余儀なくされてしまった。
Mk.IVの登場
改良型のMk.IVは、かねてから運航を行っていた英国海外航空に併せて、アルゼンチン航空、ダン・エア、オリンピック航空やメヒカーナ航空、マレーシア・シンガポール航空など多数の航空会社からの発注を受け、1958年10月4日に英国海外航空の手によって漸くロンドン(ヒースロー) - ニューヨーク(アイドルワイルド)間の定期便に再就航した。
競争の激化
しかしMk.IVは、わずか1か月弱後に就航したより高速でより大型のボーイング707や、ダグラス DC-8やコンベア880ら第2世代機との競合に敗退していった。そこで、乗客数の少ない路線にターゲットを絞ったが、皮肉なことにそちらは血縁関係ともいえる中短距離用のシュド・カラベルが好調なセールスとなっていた。
さらに1960年10月には英国海外航空のボーイング707が納入されたため、就航からわずか2年でドル箱であるヒースロー-アイドルワイルド線から撤退した。以降は北アメリカや極東、オーストラリア路線からも逐次撤退し、中東や西アジア、アフリカなどの比較的競争が激しくない中距離帝国(MRE、Medium-Range Empire)ルートを中心に飛ぶようになった。
1962年には事実上の後継機となるイギリス製のビッカース VC10や、中短距離向けのホーカー・シドレー トライデントが就航したことなどによりオーダーが途絶え、1964年にコメット4の生産は79機で終了した。
コメットにはジェットエンジンをロールスロイス「コンウェイ」に換装し、座席を増加させたコメット5の開発計画もあったが、発注がなかったため実現せず、コメットシリーズは全シリーズ合計112機をもって生産を終了した。
退役
生産は終了したものの、Mk.IIとMk.IVシリーズの事故率は同時代に就航していた競合機より明らかに低く、連続事故後に施された安全対策が完全に奏功したことを実証してみせ、その後も英国欧州航空やTAP ポルトガル航空、ミドル・イースト航空、エジプト航空など世界各国の航空会社で運用された。
しかし、国際線旅客機の急速な大型化や高速化、さらに中近距離路線のジェット化により、英国海外航空を含む主要な運航航空会社もボーイング707やダグラスDC-8などへの代替を進め、英国航空会社はボーイング707やヴィッカースVC-10が揃った1960年代後半に運航を終了した。
さらにほかの航空会社も、より運航効率の良いボーイング727やホーカー・シドレー トライデント、ボーイング737やマクドネル・ダグラス DC-9などの中型機が相次いで登場したこともあり、1982年までに全ての航空会社から全機退役している。なお貨物専用機にするには胴体が細く、また燃費も悪くわずか数機が貨物専用機にコンバートされたのみであった。最後まで使用した航空会社はイギリスのダン・エアであった。
注釈
- ^ 郵便物は軽荷重で旅客機に比べて安全面での制約も厳しくないので、開発のハードルは旅客機に比べると低い。
出典
- ^ 「「コメット」号東京に到着 成層圏定期航路に大収穫」『朝日新聞』1952年7月8日、3頁。
- ^ あの街この街 英映画社 NPO法人科学映像館
- ^ B.O.A.C Year Of History (1952)
- ^ BOAC
固有名詞の分類
イギリスの旅客機 |
アブロ ヨーク ホーカー・シドレー HS.125 デ・ハビランド DH.106 コメット ハンドレページ ジェットストリーム ビッカース バイカウント |
- デ・ハビランド DH.106 コメットのページへのリンク