デ・ハビランド DH.106 コメット 完成

デ・ハビランド DH.106 コメット

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/01 02:26 UTC 版)

完成

試験飛行

試作初号機

コメット試作初号機の進空が行われた1949年7月27日は、ジェフリー・デハビランド社長自身の57歳の誕生日であった。彼はこの日、世界初のジェット旅客機の初飛行にあたり、チーフ・テストパイロットのジョン・カニンガム元空軍大佐と共に、自ら操縦席に座った。

これは当時の最新鋭機であるダグラス DC-7よりも早く、ロッキード コンステレーションの改良版であるL-1649スーパーコンステレーションとほぼ同時であるものの、アメリカのライバル達はいずれも巡航速度500km/h台以下のレシプロ機であり、コメットの実用化は他の追随を引き離した独走状態であった。

しかし同時期の軍用機分野では、既に1947年に後退翼の大型ジェット戦略爆撃機B-47が実用化されており、そのスケールと共に「フラミンゴのようにスマート」と評されたほど優美なフォルムで全世界に衝撃を与えていた。対してまるでレシプロ機をジェットエンジンに換装したのみのように見え、さらに後退翼もない保守的な外観のコメットには失望の声も半ばしていたという。

試作2号機の処女飛行も、1950年の同じ7月27日に同じメンバーでなされた。その後テスト飛行が本格化され、離着陸時の安定性や、舗装が貧弱な滑走路への重量配分を考慮し、主脚が大型のタイヤ1個から現代の大型旅客機でもよくみられる4個のものに変更されるなど、就航を見すえて様々な改良が施された。

就航

英国海外航空のコメットMk.I(エンテベ国際空港

1951年1月9日にはコメット Mk.Iの最初の量産型(G-ALYP)が英国海外航空(BOAC)に納入された。速度・高度共に前人未到の領域を飛ぶ初のジェット旅客機には、地上支援体制を始め運航システムのほとんどすべてを新規開発する必要があり、イギリス空軍、英国海外航空と協働の上、航路開拓も含めて2年間の入念な準備期間が置かれ、その間2機の試作機(G-ALVG、G-ALZK)は世界各地に飛来し、先々で羨望を浴びた。

1952年5月2日に、満を持した初の商用運航が英国海外航空のコメット Mk.I によってヒースロー - ヨハネスブルグローマカイロハルツームエンテベリビングストン経由)間で行われ、所要時間を一気に半減させてみせた。同年内には5機のコメットMk.Iが完成し、定期運航や試験飛行に使用された。同年7月8日にはBOACのコメットMk.Iが東京国際空港(羽田)に試験飛行で飛来し、ロンドン東京間を27時間22分という新記録を打ち立てた[1]

コメットMk.Iは乗客数はダグラス DC-6やロッキード・コンステレーションなどの従来のプロペラ機と同等かそれ未満で、航続距離も同様であり、太平洋はおろか大西洋横断路線の無着陸横断も不可能であった。

しかし、従来の2倍の速度だけでなく定時発着率の高さも実証され、さらに天候の影響を受けにくい高高度を飛行することや、ピストンエンジンと違い振動も少なくスタートまでの時間も短いなど快適性もレシプロ機の比ではない事が明らかになり、英国海外航空のみが就航させていた初年度だけで3万人が搭乗する人気を博した。

運航拡大

英国海外航空のコメットMk.I(ヒースロー空港)
エールフランスのコメットMk.I

1953年には試作2号機がファーンボロー国際航空ショーで超低空90度バンクローリング)ターンを決めて見せたほか、エリザベス王太后らを乗せた招待飛行を行うなど、イギリス航空界はその存在を存分にアピールした。

さらに8月には南回り航路経由でヒースロー-羽田間[2]ローマベイルートカラチカルカッタ香港など経由)や、ヒースロー-シンガポールという長距離路線にも定期就航した。第二次世界大戦中にジェット機の試作と量産開始にまで成功したものの、占領下で航空機開発の一切を禁じられ、ジェット時代の到来になす術もなくいた日本の元航空技術者たちは、コメットの銀翼と快音に悔しがったと言う。

ドル箱路線」の1つであった大西洋横断路線にこそ就航していなかったものの、順次航路を全世界に拡大したのみならず、まもなくエールフランストランス・カナダ航空、UATなどでも運航開始され、懸念された燃費も低廉なジェット燃料と高い満席率で相殺できることがわかり、就航当初の様子見気分は払拭された。また、イギリス王室メンバーの海外訪問やイギリス連邦諸国、そして植民地訪問にも頻繁に利用され、その威信を内外に誇示した[3]

ロールス・ロイス・エイヴォン・エンジン搭載のパワーアップ型 Mk.IIは、日本航空パンアメリカン航空エア・インディア南アフリカ航空、アルゼンチン航空など世界中の長距離国際線を運航するフラッグ・キャリアから50機以上のバックオーダーを抱え、コメットは順風満帆の船出であった。

さらに大西洋横断飛行用に航続距離延長と機体の延長が施されることとなったコメットMk.IIIは、パンアメリカン航空やキャピタル航空などのアメリカの航空会社からの発注を受けるなど、量産体制に入ったデ・ハビランド社は前途洋々であった。


注釈

  1. ^ 郵便物は軽荷重で旅客機に比べて安全面での制約も厳しくないので、開発のハードルは旅客機に比べると低い。

出典

  1. ^ 「「コメット」号東京に到着 成層圏定期航路に大収穫」『朝日新聞』1952年7月8日、3頁。 
  2. ^ あの街この街 英映画社 NPO法人科学映像館
  3. ^ B.O.A.C Year Of History (1952)
  4. ^ BOAC






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