ジャスミン革命
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ジャスミン革命 | |
---|---|
反政府デモ | |
種類 |
革命[1] 民主化運動[2] 民主革命[3] |
目的 | 反政府・民主化の要求[3] |
対象 | ザイン・アル=アービディーン・ベン・アリー政権[1] |
結果 |
独裁政権の崩壊[2][3] 暫定政権の発足[3] アラブの春への発展[4] |
発生現場 | チュニジア全土[3] |
期間 | 2010年12月18日 - 2011年1月14日 |
行動 | デモ行進[2]・ストライキ[2] |
死者 | 219人以上[5] |
負傷者 | 94人[6] |
関連団体 |
Facebook 立憲民主連合(ベンアリーの政権与党) |
概要
一青年の焼身自殺事件に端を発する反政府デモが国内全土に拡大し、軍部の離反によりザイン・アル=アービディーン・ベン=アリー大統領がサウジアラビアに亡命し、23年間続いた政権が崩壊した事件である。ジャスミンがチュニジアを代表する花であることから、このような名前がネットを中心に命名された[7][8]。
この民主化運動はチュニジアにとどまらず、エジプトなどほかのアラブ諸国へも広がり、各国で長期独裁政権に対する国民の不満と結びつき、数々の政変や政治改革を引き起こした。こうした一連の動きはアラブの春と呼ばれた。
一連の暴動では情報共有のため、Facebookなどを通じたインターネットによる情報交換が力を発揮したほか[9]、YouTubeやTwitter、WikiLeaksといったネットメディアも重要な役割を果たしたという意見がある一方[7]、GoogleやFacebookなどのネットメディアがアメリカ政府の戦略に加担し、アラブの春を裏側で支援していたとの意見もある[10]。
事件の背景
チュニジアは2010年の経済成長率が3.8パーセントと、決して経済状況が悪いわけではなかった。しかし失業率は14パーセント、若者層に限れば30パーセント近いという高い水準であったため、これらの世代では経済成長の恩恵を受けられないことに不満がたまっていた[11]。
加えて、1987年に無血クーデターによって政権を獲得したベン=アリー大統領は、イスラム主義組織および労働者共産党に対し抑圧を行い、ある程度の経済成長は果たしたものの、一族による利権の独占といった腐敗が進むなど、23年にも及ぶ長期政権に不満がたまっていった[12]。こうした背景が暴動に結びついたとみられている。
ベン=アリー大統領は、イスラム主義組織および労働者共産党への抑圧、近代改革など、アメリカやかつてのイランと同様の政策を行い、政治犯釈放などの人権政策もあり「民主主義・人権」国際賞を受賞したが、今回の暴動においても、譲歩策を次々と示したことが弱腰とも映りデモ隊を勢いづかせたとの指摘がある[13]。イスラム主義組織を抑圧してきた政権の崩壊により、イランのアフマディーネジャード大統領は「チュニジアの人々はイスラムの法とルールの確立を望んでいる」[14]とイラン革命同様のイスラム国家化を示唆した。非合法であったイスラム政党の幹部が亡命先から戻るとの推測[15]もある。
事態の推移
革命の発端
2010年の後半から、革命のきっかけの要素は整いつつあった。11月7日のクーデター記念日、国民的ラップシンガーのエル・ジェネラル(本名ハマーダ・ベン・アモール)はネット上に、政権への抗議を込めた曲「Rais Lebled(国の頭)」を発表した。政治体制、支配層による横暴を糾弾する内容である。
ウィキリークスも革命の後押しをすることになった。ウィキリークスはチュニジアに関する合衆国政府高官のコメントを暴露した。その内容は、ベン・アリー政権の腐敗を厳しく批判するものだった。それまで国民は、アメリカが政権の後見人として支えているとみていたが、実際にはアメリカは政権の維持に固執しているわけではないということが明らかになり、人々を勢いづけた。
直接的かつ決定的な要因は12月17日、中部の都市シディ・ブジドで起こった。この日の朝、露天商[16]のモハメド・ブアジジ[17](26歳)が果物や野菜を街頭で販売し始めたところ、販売の許可がないとして地方役人が野菜と秤を没収、さらには役所の女性職員から暴行と侮辱を受けた。ブアジジは没収された秤の返還を求めて3回役所に行ったが、引き換えに賄賂を要求された。3回とも追い返されたブアジジは、これに抗議するために同日午前11時30分、県庁舎前で自分と商品を積んだカートにガソリンをかけて火をつけ焼身自殺を図った[16]。その場に駆けつけたブアジジの従兄弟のアリ・ブアジジが、事件直後の現場の様子を携帯電話で撮影し、その日の夕方、フェイスブックへ映像を投稿した。アルジャジーラで事件が取り上げられ、一人の青年の焼身自殺が全国に知れ渡った。イスラム教を含むアブラハムの宗教は自殺することを禁じており、また火葬の習慣もないため「焼身自殺」が与える衝撃は大きかった。その背景もあり、このトラブルがブアジジと同じく就職できない若者中心に職の権利、発言の自由化、大統領周辺の腐敗の罰則などを求め、ストライキやデモを起こすきっかけになった[18][19]。
暴動の拡大
やがて高い失業率に抗議するデモは、腐敗や人権侵害が指摘されるベン=アリー政権の23年間の長期体制そのものに対するデモとなり、急速に発展していった[17]。
首都のチュニスではデモの動きは少なかったものの、水面下でインターネットによる反体制運動が始まっていた。南部のデモが盛んな地域での出来事を、有志の自宅からフェイスブックにニュースとして投稿した。これが南部の抗議行動に勢いを与えた。政権のメディア統制も効かなくなっていた。アルジャジーラなどに対して「事実を捏造している」などとするキャンペーンを始めたが、反政府団体のサイトをブロックすると海外のハッカーから報復を受け、逆に政府のサイトがダウンする事態に陥った。
24日、マンゼル・ブーザイアーンでデモ鎮圧に初めて実弾が使われ、1人が死亡、5人が重軽傷(うち1人はのちに死亡)を負った。これがチュニスでも本格的なデモを誘発し、27日には1,000人もの市民が街に繰り出した。
28日、ベン=アリー大統領は突如、病院にブアジジを見舞ったが、無菌の治療室にマスクも白衣もつけずに現れた[16]ため、外国人の陰謀であると決めつけた直後のテレビ演説も相まって、反発は強まった。
1月4日、前々から疑われていたブアジジの死が「確認」された。ブアジジの遺族は口外を禁じられた[16]が、5日に行われた葬儀には数千人が参列した[17]。
デモ隊と治安部隊の衝突はエスカレートし続けた。7日には中部の都市タラで暴徒が警察署といった政府関連庁舎や銀行に火を放ち、8日夜から9日にかけてタラ、カスリーヌといった都市で高い失業率に抗議するデモが発生、治安部隊が発砲したことにより少なくとも14人[19]、野党側指導者によれば25人が死亡した[20][21]。10日にはカスリーヌで放火や警察署への襲撃が起こり、これに対処した警官隊が発砲したため市民4人が死亡した[22]。一連の弾圧で、犠牲者を診察した医師は、「(銃弾の跡から判断して)明らかに殺す意思があったと確認できる」と証言した。デモ参加者だけではなく、帰宅途中の労働者や、屋上にいた市民までもが殺害された。現場一帯は封鎖され、メディアが取材することはできなかったが、現地市民が携帯電話で撮影した映像がフェイスブックに投稿された。
10日夜、ベン=アリー大統領は再びテレビ演説を行った。デモの弾圧による流血そのものの存在は認めたものの、「私の責任ではない」と弁解し、カシム内務大臣の更迭を約束した[18]。全国の高校・大学の閉鎖や、今後2年間での30万人に及ぶ大規模な雇用緊急措置を発表したが、一連の暴動はテロリストによるものだと非難する姿勢は変わらなかった[23][24]。各政党からは、大統領に対し警官隊による発砲の中止を求める声があがった[25]。
カスリーヌでの弾圧は裏目に出た。11日、デモはチュニスをはじめ全国に広がった。暴徒は車、銀行、警察署といった政府関係庁舎への放火、また商店街において略奪行為を行った。警官隊はこれを解散させるため威嚇射撃、火炎瓶や催涙弾の使用を行った。内務省より死者は延べ23人になったと発表された(実際にはこの時点で50人以上が死亡しているとも言われた)[26]。
12日には、デモの規模は10倍に膨れ上がった。首都チュニスとその周辺地域には、20時から翌朝午前6時までの夜間外出禁止令が発令された[27]。
13日には、ベン=アリー大統領が軍以上に信頼を置く警察部隊が導入された。警官はデモへの参加の有無にかかわらず市民を屋上から狙い撃ちにし、チュニスで数十名の死者、数百人に負傷者が発生した。戒厳令が発令され、軍に対して市民の殺害命令が出されたが、軍部はその命令を拒否した。軍部と警察部隊で対立が生じ、大規模な戦闘の危機が生じたが、軍部は警察部隊への攻撃態勢を取らなかったため、かろうじて均衡状態が保たれた。
後ろ盾であった軍の離反を招いたベン=アリー大統領は、譲歩せざるを得ないと判断した。モハメッド・ガンヌーシ首相は、治安対策が不十分としてカシム内務大臣の更迭を改めて発表し、また、デモにおいて拘束された参加者らを釈放する方針を表明した[28]。夜の演説ではベン=アリー大統領が自ら2014年の次期大統領選挙で不出馬、退任すると発表した[29][30]。食料品の高騰に対する対策、言論の自由の拡大、インターネット閲覧の制限の解除などの政策の履行を約束した。一連の騒乱については「側近に裏切られた」と釈明し、治安部隊に対し、デモ隊への発砲を禁じたと発表した[31]。しかし夜になっても銃声は鳴りやまず、死者が発生した。秘密警察が大統領支持派を装って、街宣車で政府支持を叫びながら外出禁止令で無人状態の街中を走り回り、反体制派を脅しているという噂が流れた。市民たちは、夜が明けたら再び独裁体制へ逆戻りしてしまうのではないかと恐れた。それが14日のデモへとつながった。
政権崩壊
14日のデモは、今まで近づくことさえためらわれた内務省前にまで及んだ。政治犯が釈放され、デモ隊や支持者とともに喜びを分かち合った。ベン=アリー大統領は非常事態宣言を行い、夜間外出禁止令を全土に広げた。また、ガンヌーシ内閣の総辞職と2014年実施予定の総選挙を大幅に前倒しし、今後半年以内に実施する考えを表明した[32]。
しかし、ここにきて政府は内部から崩壊し始めた。メズリ・ハダドユネスコ大使が、治安部隊がデモ隊に発砲したことに対して抗議を行い大統領に辞表を提出した[33]。ベン=アリー大統領はデモ隊への実弾使用をラシド・アンマル陸軍参謀総長に迫ったが、逆に「あなたはおしまいだ」と、不信任を突きつけられた[34][35]。ベン=アリー大統領は、政権維持の手段をすべて失った。
17時49分、ガンヌーシ首相がテレビで「ベン=アリー大統領は国を去った」と声明を読み上げた[13]。
注釈
出典
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- 1 ジャスミン革命とは
- 2 ジャスミン革命の概要
- 3 その後
- 4 軍事クーデターおよび情報戦の可能性
- 5 関連項目
- ジャスミン革命のページへのリンク