グネッキ・ソルディ・オルガンティノ グネッキ・ソルディ・オルガンティノの概要

グネッキ・ソルディ・オルガンティノ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/17 04:26 UTC 版)

ニェッキ・ソルド・オルガンティーノ
Gnecchi-Soldo Organtino[1]
イエズス会司祭
教会 カトリック教会
個人情報
出生 1530年ないし1533年[1]
死去 1609年4月22日[1]
江戸幕府肥前国長崎(現・ 日本 長崎県長崎市)
テンプレートを表示

生涯

1533年北イタリアのカストで生まれたオルガンティノは22歳でイエズス会に入会した[要出典]1556年フェラーラでイエズス会司祭に就任[1]ロレートの大神学校、ゴアの大神学校で教えた後で日本に派遣された。来日は1570年6月18日元亀元年5月15日)で、天草志岐にその第一歩をしるした。着任後まず日本語と日本の習慣について学び、1573年天正元年)から1574年(天正2年)にかけて法華経を研究した[2]。 オルガンティノははじめから京都地区での宣教を担当し、ルイス・フロイスと共に京都での困難な宣教活動に従事した。1577年(天正5年)から30年にわたって京都地区の布教責任者をつとめた。持ち前の明るさと魅力的な人柄で日本人に大変人気があった。パンの代わりに米を食べ、仏僧のような着物を着るなど、適応主義を取ったことで日本人からの受けがよく、着任3年で近畿地方における信者数を1500から1万5,000に増やしたという[3]。 オルガンティノとともに日本に来て九州での布教責任者となったフランシスコ・カブラルが大名の大村純忠を入信させたにもかかわらず、その頑固で短気な性格から多くの日本人を教会から遠ざけたのとは対照的だった[4]

オルガンティノは1576年(天正4年)に京都に聖母被昇天教会いわゆる「南蛮寺」を完成。1578年(天正6年)、荒木村重の叛乱時(有岡城の戦い)には家臣と村重の間で板ばさみになった高山右近から去就について相談を受けた。1580年(天正8年)には安土で直接織田信長に願って与えられた土地にセミナリヨを建てた。オルガンティノはこのセミナリヨの院長として働いた。最初の入学者は右近の治める高槻の出身者たちであった。第一期生の中には後に殉教するパウロ三木もいた。しかしこのセミナリヨは信長が本能寺の変横死した後で安土城が焼かれた時に放棄された。1583年(天正11年)には豊臣秀吉に謁見して新しいセミナリヨの土地を願い、大坂に与えられたが、結局、右近の支配する高槻に設置された。

1587年(天正15年)に最初の禁教令が出されると、京都の南蛮寺は打ち壊され、高山右近は明石の領地を捨てた。オルガンティノは右近とともに表向き棄教した小西行長の領地・小豆島に逃れ、そこから京都の信徒を指導した。翌年、右近が加賀国に招かれると、オルガンティノは九州に向かった。

1591年(天正19年)、天正遣欧少年使節の帰国後、彼らと共に秀吉に拝謁。前田玄以のとりなしによって再び京都在住をゆるされた。1597年慶長2年)には日本二十六聖人の殉教に際して、京都で彼らの耳たぶが切り落とされると、それを大坂奉行の部下から受け取っている。オルガンティノは涙を流してそれらを押し頂いたという。

1605年長崎コレジオに移った[1]。半生を日本宣教に捧げたオルガンティノは最晩年、長崎で病床につき、1609年(慶長14年)、76歳で没した。

日本観

日本に好感を持っていたオルガンティノは、書簡の中で「われら(ヨーロッパ人)はたがいに賢明に見えるが、彼ら(日本人)と比較すると、はなはだ野蛮であると思う。(中略)私には全世界じゅうでこれほど天賦の才能をもつ国民はないと思われる」と述べている[5]。また、「日本人は怒りを表すことを好まず、儀礼的な丁寧さを好み、贈り物や親切を受けた場合はそれと同等のものを返礼しなくてはならないと感じ、互いを褒め、相手を侮辱することを好まない」とも述べている[4]

一方で、キリシタン大名領地における寺社破壊については、「善き事業」として賞賛し「寺院の最後の藁に至るまで焼却することを切に望む」と書簡で報告した[6][7][8]


  1. ^ a b c d e オルガンティーノ おるがんてぃーの Gnecchi-Soldo Organtino(1530/33―1609)”. 日本大百科全書. 小学館. 2017年11月1日閲覧。
  2. ^ Soldo Organtino:The Architect of the Japanese MissionHubert Cieslik、上智大学, 2007
  3. ^ Theology of Culture in a Japanese Context: A Believers' Church PerspectiveAtsuyoshi Fujiwara(藤原淳賀), Wipf and Stock Publishers, 2012
  4. ^ a b Making Contact: Maps, Identity, and TravelGlenn Burger, University of Alberta, 2003, p98
  5. ^ 「「無私の日本人」(磯田道史著 文藝春秋 2012)の中に、「日本人は素晴らしいと宝物を発見したかのように報告した戦国時代の宣教師がいた」とある。 1 その宣教師とは誰か。 2 その報告書があれば見たい。」(埼玉県立久喜図書館) - レファレンス協同データベース 2013年06月01日
  6. ^ 「十六・七世紀イエズス会日本報告集」III5,146号、p8-10、同朋社、1991年
  7. ^ 山下洋輔「高山右近の寺社破壊に関する一考察」早稲田大学大学院教育学研究科紀要別冊15-2号、p1-13.2007年
  8. ^ 正木晃「宗教はなぜ人を殺すのか 平和・救済・慈悲・戦争の原理」さくら舎、2018,p122


「グネッキ・ソルディ・オルガンティノ」の続きの解説一覧




固有名詞の分類

江戸時代の人物 吉田重氏  井上因達因碩  グネッキ・ソルディ・オルガンティノ  蛇口伴蔵  種子島久基
安土桃山時代の人物 十市藤政  森下道誉  グネッキ・ソルディ・オルガンティノ  細川ガラシャ  島津忠仍
戦国時代の人物 (日本) 塚原卜伝  吉田重氏  グネッキ・ソルディ・オルガンティノ  細川ガラシャ  雲林院松軒
カトリック教会の聖職者 グレゴール・ヨハン・メンデル  ウィカムのウィリアム  グネッキ・ソルディ・オルガンティノ  コスメ・デ・トーレス  シルベン・ブスケ
イエズス会士 ハンス・ウルス・フォン・バルタサル  張希斌  グネッキ・ソルディ・オルガンティノ  コスメ・デ・トーレス  カール・ラーナー
在日宣教師 ピエール・ムニクウ  ラッセル・ステルワゴン  グネッキ・ソルディ・オルガンティノ  シルベン・ブスケ  ジョン・マキム

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「グネッキ・ソルディ・オルガンティノ」の関連用語

グネッキ・ソルディ・オルガンティノのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



グネッキ・ソルディ・オルガンティノのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのグネッキ・ソルディ・オルガンティノ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS