アメリカ合衆国憲法
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沿革
連合規約での行き詰まり
1776年に各植民地代表者による大陸会議が、独立宣言を発し、共和政体を採用する13の邦[注釈 1]が誕生した。これらがいわゆる独立時の13州となる。13の邦は連合規約を結んで地方分権的性格の強い緩やかな連合組織である諸邦連合 (the United States of America) を形成した。この諸邦連合は、中央政府である連合会議 (Congress) に課税権・通商規制権限・常備軍保持が認められず、極めて弱体であったため財政は行き詰まり、治安の混乱にも対処できなかった。
1786年9月に5つの邦の委員がメリーランド州アナポリスで集まり、連合規約の改定について話し合った。この委員達は連邦政府を改善するためにペンシルベニア州フィラデルフィアで会議を開くこととし、各邦の代表に招集を掛けた。連合会議での議論の後で、1787年2月21日に連合規約の改定の計画に承認を与えた[3]。ロードアイランド邦を唯一の例外として、12の邦がこの招集に同意して5月の会議に代表を送った[3]。会議を招集する決議では、その目的を連合規約の改定を提案することとしていたが、その会議では憲法を制定するという提案を決めた[4]。フィラデルフィア憲法制定会議で、投票によってこの討議は最大秘密にしておくことを決め、新しい基本的な政府の形を起案することとし、結果的に13の邦のうち9つの邦が批准すれば新しい政府は効力を発揮するということになった[4]。作成過程が秘密とされていたために、アメリカ合衆国憲法の起草と作り上げていく様子は、その会議の記録を丹念に取っておいたジェームズ・マディソンの日記から知ることができる[5]。
憲法制定会議の動き
憲法制定会議では、中央集権的で強力な連邦政府の樹立を推す連邦派(Federalist、後の連邦党)と、これに反対する反連邦派(Anti-federalist、後に民主共和党)との対立や、農業を中心産業とする南部と、商工業を中心とする北部の対立、大きな邦と小さな邦との間の対立など、数多くの対立を抱えていた。
バージニア案が会議のための非公式な叩き台であった。これは主にジェームズ・マディソンが起草しており、このために彼は「アメリカ合衆国憲法の父」と見なされている[5]。このプランによるとそれまでよりも大きな州の利益に重点が置かれており、次のような提案が盛り込まれていた。
ウィリアム・パターソンがニュージャージー案と呼ばれる代案をしめし、これでは各邦に平等な採決のための権限を与え、小さな政府を提案していた[6]。コネチカット邦のロジャー・シャーマンが「大妥協案」で調停し、下院は人口に比例した代議員数とし、上院は各邦を代表する、すなわち各邦から同数の代議員が出席し、また強力な大統領が特権的選挙人によって選ばれるという案を示した[7]。奴隷制については明確に言及されているわけではないが、奴隷人口の5分の3を下院議員の割り当ての際に各邦人口に加算されることとし、逃亡奴隷は元の所に戻さなければならないとしていた。
批准
日付 | 邦 | 投票 | ||
---|---|---|---|---|
賛成 | 反対 | |||
1 | 1787年12月7日 | デラウエア邦 | 30 | 0 |
2 | 1787年12月12日 | ペンシルベニア邦 | 46 | 23 |
3 | 1787年12月18日 | ニュージャージー邦 | 38 | 0 |
4 | 1788年1月2日 | ジョージア邦 | 26 | 0 |
5 | 1788年1月9日 | コネチカット邦 | 128 | 40 |
6 | 1788年2月6日 | マサチューセッツ邦 | 187 | 168 |
7 | 1788年4月28日 | メリーランド邦 | 63 | 11 |
8 | 1788年5月23日 | サウスカロライナ邦 | 149 | 73 |
9 | 1788年6月21日 | ニューハンプシャー邦 | 57 | 47 |
10 | 1788年6月25日 | バージニア邦 | 89 | 79 |
11 | 1788年7月26日 | ニューヨーク邦 | 30 | 27 |
12 | 1789年11月21日 | ノースカロライナ邦 | 194 | 77 |
13 | 1790年5月29日 | ロードアイランド邦 | 34 | 32 |
1787年9月17日、憲法草案はフィラデルフィアの連邦会議で完成され、その後ベンジャミン・フランクリンが演説を行って、憲法が発効されるには最低9つの邦の批准があればよいことになっているが、全邦一致を呼び掛けた。会議は憲法草案を連合会議に提出し、連合規約第13条に従って承認されたが、連合会議が各邦の批准を求めて憲法草案を各邦に提出し、9つの邦の批准で有効となるという条件は第13条に反していた。結果的に13邦すべてが憲法草案を批准したが、全ての批准が出揃ったのは憲法発布の後であった。
多くの邦で批准を巡って激しい議論が行われたが、特にニューヨーク邦では反対意見が強かった。アレクサンダー・ハミルトンは、この状況に危機感を抱き、マディソンらと協力しておよそ7か月の間、毎週新聞に匿名で憲法草案擁護の論文を発表し続けた。これが後に纏められたものがザ・フェデラリストである。
その後、ニューハンプシャー邦が1788年6月21日、9番目の批准邦となった[8]。連合会議はニューハンプシャー邦の批准完了の報せを受け取ると、新しい憲法の下での運営を始める日程を決め、1789年3月4日、新政府が新憲法の下で動き始めた。
1789年、第1回の合衆国議会は、アメリカ合衆国憲法に権利章典 (Bill of Rights) と呼ばれる第1修正から第10修正を付け加える件を審議し可決した。この修正は、1791年、修正に必要な数の州議会の批准を得て発効した。
アメリカ合衆国憲法の思想的背景
アメリカ合衆国憲法に盛り込まれた観念の幾つかは新しいものであるが、多くは、アーブロース宣言にみられるように多民族国家ゆえ輻湊した政府のあるイギリスの歴史または13邦の歴史から育ったアメリカの共和制から引き出されてきた伝統のあるものである。この憲法にある適正手続条項は、1215年のマグナ・カルタに遡る慣習法に一部基づいており[8]、中世のイギリスに由来する法の支配の思想の影響も大きなものである。
この憲法に最も影響を与えたヨーロッパ大陸の思想は、専制政治を防ぐため、互いに対して行使する力の平衡を保つ必要性を強調したモンテスキューの三権分立からのものである(この思想自体が共和政ローマの規約にある抑制と均衡を成文化した紀元前2世紀のポリュビオスの影響を受けていた)。また、ジョン・ロックの社会契約説や人民主権、抵抗権の思想も大きな影響を与えたことで知られている。
他の先例と言えば、1776年のバージニア憲法がアメリカ合衆国憲法や連合規約の基になったと言われており、イロコイ連邦の制度も影響を与えたとされる。
権利章典の背景
権利章典の修正条項は、憲法が制定される過程で憲法の支持者達が反対者に対する取引として約束したものであった[9]。イギリスの権利章典がアメリカの権利章典に影響を与えた。例えば、両者は陪審制による裁判を要求し、武器を携帯する権利を含み、また過度の保釈金や残酷で異常な罰を禁じている。州憲法やバージニア権利章典で保護されている多くの自由はこの権利章典にも盛り込まれた。
注釈
出典
- ^ “Constitution Rankings” (英語). Comparative Constitutions Project. 2022年9月10日閲覧。
- ^ 「200年経過し、今も機能している世界最古の憲法」知恵蔵2015
- ^ a b NARA. “National Archives Article on the Constitutional Convention”. 2007年12月16日閲覧。
- ^ a b NARA. “National Archives Article on the Constitution”. 2007年12月16日閲覧。
- ^ a b c NARA. “National Archives Article on James Madison”. 2007年12月16日閲覧。
- ^ NARA. “National Archives Article on William Patterson”. 2007年12月16日閲覧。
- ^ NARA. “National Archives Article on Roger Sherman”. 2007年12月16日閲覧。
- ^ a b NARA. “National Archives Article on the Entire Constitutional Convention”. 2007年12月16日閲覧。
- ^ NARA. “National Archives Article on the Bill of Rights”. 2007年12月16日閲覧。
- ^ AFPBB News「クリントン氏、憲法上は国務長官の就任資格なし?米団体が指摘」2008年12月4日
- ^ Israel, Jerold H., LaFave, "Criminal Procedure Constitutional Limitations". 7th ed., West, 2006, pp10-23.
- ^ 飛田茂雄『英米法律情報辞典』,研究社,2002年,270頁 (incorporation doctrine)。
- ^ Israel, Jerold H., LaFave, "Criminal Procedure Constitutional Limitations". 7th ed., West, 2006, pp18-19.
- ^ Israel, Jerold H., LaFave, "Criminal Procedure Constitutional Limitations". 7th ed., West, 2006, p11, p18, pp24-26.
- ^ “200年ぶりの米議会「攻撃」 トランプ支持者乱入”. 日本経済新聞 (2021年1月7日). 2024年3月15日閲覧。
- ^ “米議会トランプ支持者乱入 敷地内で銃撃、4人死亡”. 毎日新聞. 2024年3月15日閲覧。
- ^ “首都ワシントンの警察官が自殺 連邦議会襲撃対応で計4人に:東京新聞 TOKYO Web”. 東京新聞 TOKYO Web. 2024年3月15日閲覧。
- ^ “トランプ氏、憲法の条項廃止を主張 批判広がる”. 日本経済新聞 (2022年12月6日). 2024年3月15日閲覧。
- ^ “トランプ氏、憲法の「終了」を主張 米政府は非難”. BBCニュース (2022年12月5日). 2024年3月15日閲覧。
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