アメリカ合衆国とイランの関係 1979年イスラーム革命

アメリカ合衆国とイランの関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/30 17:11 UTC 版)

1979年イスラーム革命

1979年イラン・イスラーム革命が勃発し、シャーは再度の亡命を余儀無くされた。新たに指導者となったアーヤトッラー・ホメイニーは直後からアメリカを「大悪魔」・「不信仰者の国」と痛罵した。

アメリカのジミー・カーター大統領はシャーに対するこれ以上の支援供与を拒否し、シャーの政権復帰に関心を持たないことを表明した。しかし当時を患っていたシャーが治療のためアメリカ合衆国への入国を申請すると困惑し、最終的にカーターは不承不承入国を認めている。結局、このことはシャーがアメリカ合衆国の傀儡であったというイラン人の印象を強める結果に終わった。

イスラム革命時に革命政権がアメリカ政府に対して、革命政権の承認・モサッデグ政権の打倒と傀儡のパフラヴィー政権の樹立・パフラヴィー政権時代の不平等な関係を平等互恵の関係に変更する・パフラヴィーが私物化した財産をイランに返還する・パフラヴィー元皇帝の身柄をイランに引き渡すことを要求したが、カーター大統領はその要求を拒否して、イランの在米資産を接収した。革命運動の一部の勢力はアメリカ政府の姿勢に対する反発で、1979年11月にアメリカ大使館を占拠して大使館員を人質にして、アメリカ政府に対する要求を継続した。1980年4月にカーター大統領はこの事件に対して、イランに対する国交断絶と経済制裁を実施した[9]

1979年イランアメリカ大使館人質事件

1979年11月4日にイマーム戦列支持ムスリム学生団ペルシア語版英語版が、アーヤトッラー・ホメイニーの支持のもとテヘランのアメリカ大使館を占拠した。これは大使館によるスパイ行為のためであった。52人のアメリカ人が444日間にわたって人質となった。1980年4月7日にアメリカ合衆国はイランとの国交を断絶し、1981年4月24日以降はスイス政府がテヘランの利益代表部を通じてアメリカ合衆国の権益を代行した。一方アメリカにおけるイランの権益は、ワシントンD.C.のパキスタン大使館内に設けられた在アメリカ合衆国イラン・イスラム共和国利益代表部ペルシア語版英語版によって代行されることになった。

1981年1月19日アルジェ合意ペルシア語版英語版により、オランダハーグイラン・アメリカ合衆国損害裁定委員会ペルシア語版英語版が、アメリカ合衆国とイラン相互の主張を処理するために設置された。ただしハーグを通じてのアメリカ合衆国とイランの接触は法的問題に限定された。条約調印の1981年1月20日に人質は解放された。

テロ支援国家指定

1984年にアメリカ政府はレーガン大統領がイランをテロ支援国家と指定し、2022年現在まで指定を継続している[10]

イラン・コントラ事件

1986年にロナルド・レーガン政権はイランに対する武器売却をニカラグアの武装勢力であるコントラを通じる形で行い、売却資金をコントラへの支援とした[11]

プレイング・マンティス作戦

1988年4月にアメリカとイランは直接交戦している。イランが行ったペルシア湾への機雷敷設に対し、アメリカ海軍が報復として攻撃を行ったものである。作戦名はプレイング・マンティス作戦4月14日に作戦は行われ、イランのフリゲートが撃沈された。なお、交戦は1日で終了した。

1988年イラン航空655便撃墜事件

1988年7月3日アメリカ海軍の巡洋艦「ヴィンセンス」が誤ってイラン航空エアバスA300B2を撃墜するという事件が発生。子供66人を含む6カ国合わせて290人の一般人が死亡した。ホルモズ海峡を越えたイラン領空内でのスケジュールにある民間航空機の撃墜であり、イラン側は強く抗議した。1996年2月22日、アメリカは撃墜によるイラン人犠牲者248人に対する補償6180万ドルの支払いに同意した。ただし、3000万ドル以上と見積もられる航空機自体の補償は2020年現在に至るまでなされていない。

ヒズボラによる諸爆破事件

アメリカはイランを背景に持つヒズボラによる反合衆国テロ攻撃関与を非難した。これはアメリカ人17人が死亡した1983年4月のアメリカ合衆国大使館爆破事件、レバノンで平和維持軍241人が死亡した1983年のベイルート海兵隊宿舎爆破事件、1996年のフバル・タワー爆破事件などである。

2003年にアメリカ地方裁判所は1983年4月のアメリカ合衆国大使館爆破事件について、イラン政府に支援されたヒズボラと呼ばれる当時の新組織によるものであるとの判決を下している[12]

ベイルート爆破事件での死亡者241人の遺族による訴訟で、連邦地方裁判事ロイス・C・ランバースは2003年5月、同事件におけるイラン・イスラーム共和国の責任を宣告している。ランバースはヒズブッラーがイラン政府支援のもとに創設されたものであり、1983年の時点でイランに完全に依存していたこと、同事件の実行にあたってもイラン情報省とイラン安全保障部門の援助があったものとしている[13]

また、フバル・タワー爆破事件についても連邦裁判所がアリー・ハーメネイーの認可のもとに行われたものとする調査結果を出している[14]

経済関係の変容

イスラーム革命以前、アメリカはイランにおける最大の経済的・軍事的パートナーであった。したがって、急速なインフラストラクチャー産業の近代化にあたって、3万にものぼるアメリカ人がイランに居住し、技術的や教育的、あるいは顧問的役割を果たした。逆にこの結果として、あまりにも急速な近代化がイラン国民の多くに不安と不満を醸成し、1979年の革命につながったとの指摘もある。

凍結されたイラン資産の問題はイラン政府の過敏に反応するところである。1979年のアメリカ大使館人質事件以降、アメリカは在合衆国の銀行預金、金、その他のイラン資産総計約120億ドルを凍結した。アメリカ政府当局によれば、これらの凍結資産の大部分は、大使館のアメリカ人人質解放の取引にあたって凍結解除されたとされる。しかし若干の資産が革命以降の法的諸問題のため凍結解除が保留されている。これらの資産は、イラン政府の主張によれば100億ドル近くにのぼる。一方、アメリカ政府の主張でははるかに少額であるとされる。

アメリカ合衆国とイランの経済関係は、アメリカの制裁により主にイラン側の食糧医薬品の輸入・アメリカ側の食糧とカーペットの輸入に限られる。「アメリカ合衆国に対する非常かつ重大な脅威」を抑止するための、イランに対する経済制裁1995年クリントン政権によって発動され、1995年の大統領令はアメリカ企業及びその海外子会社のイランでのあらゆる商取引を禁じるもので「イラン石油資源開発に関する金融契約」も禁止された。加えて1996年にイラン・リビア制裁法(5カ年。2001年・2006年にさらに5カ年更新)により、年あたり2000万ドル以上をイランの石油天然ガス出資する外国企業にも、義務的・裁量的双方の制裁を科した。イランに対する経済制裁はブッシュ政権オバマ政権に継続されている。







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