アメリカ合衆国とイランの関係 両国のデータ比較

アメリカ合衆国とイランの関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/30 17:11 UTC 版)

両国のデータ比較

アメリカ合衆国 イラン
人口 3億2775万人 8280万人
面積 962万8000平方キロメートル 164万8195平方キロメートル
首都 ワシントンD.C. テヘラン
政府 大統領制 連邦共和国 大統領制 イスラム共和国
公用語 英語 (事実上) ペルシャ語
国教 無し イスラム教シーア派十二イマーム派
GDP 19兆3906億米ドル(1人当たり5万9531米ドル) 3480億米ドル(1人当たり4244米ドル)
軍事費 5867億米ドル 174億米ドル

初期の関係

1880年代前半に始まる公式の政治関係以前に、アメリカ人はイランに旅している。ジャスティン・パーキンス英語版とアサヘル・グラント(Asahel Grant)がアメリカ外国宣教団評議会によってイランに派遣されたのは1834年のことであった。

政府による直接の接触は、ナーセロッディーン・シャーの有名なアミール・キャビール宰相の時代である。アミール・キャビールは、イラン海軍の創設のため、ブーシェフルでの海軍基地建設への援助についてアメリカ合衆国との協定に署名した[2]

政治的には、1856年にナーセロッディーン・シャーが初めての公式大使としてミールザー・アボルハサン・シーラーズィー(ميرزا ابولحسن شيرازی)をワシントンD.C.に派遣。一方、アメリカ合衆国も1883年サミュエル・ベンジャミン英語版をイランへの初めての公式外交使節に任じ、外交関係が始まった。

オルーミーイェ大学英語版医学部の前身となる学校の設置も、イランとアメリカ合衆国の間の外交関係に先立つ接触の一例である。同校は1870年代にアメリカ人医師によって設置されたものである。

19世紀末までには、ペルシア湾からテヘランに至る鉄道建設のためアメリカの会社との交渉が行われている。1901年バッファローに本社を置くアメリカ企業は、鉄道事業評価のためバッファローに代表団を派遣するようイラン政府に要請。しかしこの計画はおそらくはイギリスの圧力により実現することは無かった[2]

第二次世界大戦までのアメリカ合衆国とイランの関係は極めて親密なものであった。結果として立憲派の多くが、イランに対する屈辱的なイギリスとロシアの干渉・支配を打ち破る闘いにおける「第三勢力」としてアメリカ合衆国を評価した。こうした信頼は第二議会以降、3次にわたってアメリカ人を「イラン総財務官」として任用したことにあらわれている。同ポストはアーサー・ミルスポー英語版モルガン・シャスターエルギン・グロースクローズ英語版によって担われた。これらの指名は、公文書としては存在していないが、アメリカ合衆国政府と立憲派による接触の成果と考えられる[2]。さらに、イラン経済の近代化とイギリスとロシアの影響からの自立において、アメリカ合衆国の企業家らの全面的支援を受けたことは確実である[2]

イラン立憲革命においては、ハワード・バスカーヴィル英語版が立憲派とともに闘い、タブリーズで戦死している。またモルガン・シャスターが総財務官に任じられると、テヘランで1人のアメリカ人がイギリスまたはロシアを背景に持つ者の手によって殺害されるという事件が起こっている。こののちシャスターはイラン立憲革命を財政的に支援するため、さらに精力的に活動した[2]シャーの兄弟でロシア帝国と結んだショアーオッサルタネ(شعاع السلطنه)の資産引渡令をイラン政府が発すると、シャスターがこれを担当し、直ちに実行に移した。直ちにロシア帝国は資産償還と謝罪をイラン政府に要求し、バンダレ・アンザリーに兵を上陸させた。リアホフ将軍に率いられたロシア軍はテヘランへと進撃し、議会を砲撃した。結局シャスターは、イギリスとロシアの強力な圧力のもとで辞任を余儀無くされることとなった。シャスターの著書『ペルシアの窒息(The Strangling of Persia)』はこれら諸事件の詳細を記述し、イギリスとロシアを厳しく批判している。

レザー・シャーの登極につながる1921年のクーデターにイギリスが関与したという大衆の見解を最初に裏付けたのは、ロンドンにおける外務省出先機関へのアメリカ大使館による通報であった[3][4][5]イギリス大使館は1932年になって、イギリスがレザー・シャーを「玉座に据えた」と認めている。アメリカはこの時期のイランに関する限り、イギリスの同盟国ではなかった。

モルガン・シャスターの後任にはアーサー・ミルスポー英語版が就任し、レザー・シャーにも総財務官として任命されている。続いてアーサー・ポープ英語版が就任、レザー・シャーのペルシア帝国復興政策の主要推進者の1人となっている。シャーはイランの「脱イスラム化」を押し進めるべく、1936年にはイスラム女性教徒衣装「チャードル」の着用禁止令を出し、代わりに洋服着用令を発令したりもした[6]。しかしアメリカ合衆国とイランの親密な関係は、1950年代初に転機を迎えることになる。

1950年代:石油国有化運動と転機

1952年から1953年に民主的に選出されたナショナリストモハンマド・モサッデク首相は急速に勢力を伸ばし、一時はモハンマド・レザー・シャーを短期亡命に陥れた(のちに帰国して権力を奪取した)。1952年の諸事件は石油国有化運動すなわちモサッデクによるアングロ・イラニアン石油会社英語版(現在のブリティッシュ・ペトロリアム)の国有化政策に端を発する。同社は20世紀初にイギリスによって設立され、イギリス85パーセント・イラン15パーセントの割合で利権を分割する協定を結んでいたが、イラン政府に財務報告を提出していなかった。アングロ・イラニアン石油会社による利権の独占の嫌疑により、イラン議会は同社の国有化を満場一致で可決した。この当時アングロ・イラニアン石油会社はイギリス帝国最大の企業であった。これに対抗するため、国際市場を支配していた米英の石油大手は報復としてイラン産原油を締め出した[7]

石油利権を渡さないため、アメリカとイギリスは、現在はCIAも認めている秘密作戦「アジャックス作戦」(英語: TPAJAX Project)を展開。これはテヘランのアメリカ大使館の指揮によるもので、反モサッデク勢力の組織化を援助し、シャーを帰国させるというものであった。当初作戦は失敗し、シャーはイタリアに亡命した。それでも、その後同様の試みが行われて1953年イランクーデターが成功。モサッデク政権は崩壊し、シャーは短期の亡命から帰国した。こののち政府に対するシャーの権限を制約する憲法上の規定を撤廃。シャーはアメリカの支援下で専制君主として急速な近代化政策を開始し、一方でイランにおける民主主義の萌芽は独裁のもとに潰えた。

事実上の傀儡政権であるモハンマド・レザー・シャーはその支配において、アメリカ合衆国から多大な支援を受け、アメリカから大量の兵器を購入した。自身はしばしばホワイトハウスを公式訪問し、歴代大統領からの賞賛を得ている。また、米ケネディ政権の要請によりイランの西欧化を図るべく、「白色革命」が実行された[8]。このシャーとワシントンの緊密な関係と大胆かつ急速な西洋化政策はイラン人の一部、特に強硬なイスラーム保守層の慷慨を招いていたが、秘密警察を用いて弾圧した[6]

1979年のイラン・イスラーム革命以前、イランはペルシャ湾岸における重要な親米国であり、イランはアメリカ合衆国における最大の留学生数を持つ国の1つであった。







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