農業改革
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1730年に父王の後を襲ったクリスチャン6世の時代に農業危機が発生した。農繁期に若年の農民が民兵を嫌い逃亡したり、徴兵により十分な労働力を確保できなかったりしたため農業生産が不十分だったからである。対策として民兵制を廃止したところ、農民は土地から逃亡することとなった。逃亡する若年の農民は土地を持たないために生活のために地主に雇われるか、小作地を借り営農するしかないのだが、地主からの過重な賦役に耐えられず逃亡することが多かった。地主は効率的な農地経営のために、若年農民を確保するのに躍起となった。地主の要望にこたえるために1733年「土地緊縛制度(デンマーク語版)」が出され、農民の移動は制限されることとなった。そのほか、穀物輸出の保護貿易、西インドやアフリカの植民地、清との三角貿易による重商主義政策が採用された。この頃、ルズヴィ・ホルベアがデンマークの劇作家として活躍し、デンマークの知的生活の向上に貢献した。 1746年に後を継いだフレゼリク5世の時代には農業危機の克服と政府主導の文化政策が行われた。フレゼリク5世の侍従長としてアダム・ゴットロブ・モルトケが農業危機克服に乗り出した。当時のデンマーク農業の問題として非効率・非生産的な経営形態であったためその克服する必要があった。1757年から1764年に発表された『経済雑誌』("Økonomisk Magasin")には農業経営の全般にわたる改革が必要だということを示していた。当時のデンマーク農業は三圃制、狭小な農地の共有と農地の散在という状況であり非効率な経営形態であったため、改革としてホルシュタイン地方で行われていた輪作農業への転換が進められた。一方で、土地の整理集約と囲い込みといった土地所有形態の転換については土地制度専門委員会が1757年に設置されたものの、漸進的にとどまり、土地緊縛制度は規定対象を年齢から4歳から40歳まで拡張し残存し続けた。農業改革は漸進的であったものの、外相ヨハン・ベアンストーフの甥にあたるアンドレアス・ペーダー・ベアンストーフ等のように地主の中には局地的には重農主義政策を進めるものもいた。政府主導の文化政策として、フレゼリク5世は1754年にデンマーク王立美術院を創設し国内の美術家の育成に乗り出した。
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