デュナミス
デュナミス(希: dynamis, dunamis)とは、能力・可能態・潜勢態の意味を持つ、アリストテレスの哲学の中心をなす概念である[1]。
『自然学』などで解説された。事物の生成とは可能的なものが現実的なものに発展することであるとアリストテレスは考えた。たとえば、まだ花でないものとしての種子(可能的なもの)は、発展することで花(現実的なもの)となる。このような時に前者を「デュナミス」、後者を「エネルゲイア」と呼ぶ[2] [脚注 1][3]。この両概念は「質料」と「形相」の概念とも関係している[4]。形相と結びつきうるものとしての質料(可能態)は、すでに両者の結びついた個物(現実態)として現実に存在するものとなる。さらに、その可能性を完全に実現して、その目的に到っている状態のことを「エンテレケイア」と呼んだ [脚注 2][5]。可能性(可能態)に対する実現化ゆえ、これは「デュナミス」と対になる語である。即ち、デュナミスはエネルゲイアと、さらにはエンテレケイアと相対を成す概念であると言える[2]。
関連項目
脚注
出典
参考文献
- 青井和夫、青柳真知子、赤司道夫、秋間実、秋元寿恵夫、秋山邦晴、秋田光輝、東洋 ほか 著、林達夫、野田又男; 久野収 ほか 編『哲学事典』(第1版)平凡社、1971年4月10日。ISBN 4-582-10001-5。
- 青木国夫、青木保、青野太潮、赤城昭三、赤堀庸子、赤松昭彦、秋月觀暎、浅野守信 ほか 著、廣松渉、子安宣邦; 三島憲一 ほか 編『岩波 哲学・思想辞典』(第1版)岩波書店、1998年3月18日。ISBN 4-00-080089-2。
- 岩田圭一「エネルゲイアとエンテレケイア : アリストテレスの現実態優先論における目的論の意義」(PDF)『立正大学文学部論叢』第123号、立正大学文学部、日本、2013年12月18日、27-51頁、ISSN 0485215X、2024年9月27日閲覧。
- 茶谷直人「アリストテレス『形而上学』Θ巻におけるアナロギアと二つのデュナミス」(PDF)『哲学』第2004巻第55号、日本哲学会、日本、2009年7月23日、218-230頁、doi:10.11439/philosophy1952.2004.218、ISSN 1884-2380、2024年10月1日閲覧。
- 永井龍男「アリストテレスの魂論における「船と船員の比喩」と「エンテレケイア」の意味について―デカルトとライプニッツの心身論も視野に含めながら―」(PDF)『哲学誌』第61号、東京都立大学哲学会、日本、2020年6月9日、27-51頁、2024年9月27日閲覧。
可能態
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 08:40 UTC 版)
秋田方言の可能の形式には、動作の主体の持つ能力によって行為が可能である「能力可能」と、動作の主体を取り巻く状況によって行為が可能である「状況可能」の区別が見られることが特徴的である。全ての動詞を通じて、能力可能には可能動詞形が用いられ、五段動詞とサ変動詞には仮定形に「-ル」を接続し、一段動詞とカ変動詞動詞では未然形に「-レル」を接続して「カゲル」(書ける)、「ミレル」(見られる)、「コレル」(来られる)、「シェル」(できる、「*シレル」から)のように言う。また能力可能の否定も「カゲネァ」「ミレネァ」「コレネァ」「シェネァ」のように可能動詞の否定形を用いる。状況可能では、肯定では基本形に「-ニエー」を接続して「カグニエー」「ミルニエー」「クルニエー」「シルニエー」のように言い、否定では五段動詞とサ変動詞には未然形に「-レル」を、一段動詞とカ変動詞には未然形に「-ラレル」を接続した可能接辞形を用い、「カガレネァ」「ミラレネァ」「コラレネァ」「サレネァ」を用いる。 共通語では一段動詞やカ変動詞では「見られる」「来られる」のような可能接辞形が規範的で、「見れる」「来れる」のような可能動詞形は「ら抜き言葉」と呼ばれ非規範的なものとされているが、秋田方言では否定形において可能動詞形が能力可能、可能接辞形が状況可能として使い分けられる。例えば「着る」に対する「キレネァ」は「子供がまだ小さすぎて一人で服を着られない」のような文脈に用いられ、「キラレネァ」は「子供が大きくなったのでこの服はもう小さくて着られない」のような文脈に用いるというような区別がある。
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