YMOとテクノ御三家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 20:42 UTC 版)
「テクノポップ」の記事における「YMOとテクノ御三家」の解説
1979年のYMOブームによりP-MODEL、ヒカシュー、プラスチックスの「テクノ御三家」が出て来たわけではなく、それぞれ源流も全く異なっている。P-MODELは平沢進が高校時代(1973年)から結成していたプログレッシブ・ロックバンドのマンドレイクが、電子音とバンドサウンドを同期させたスタイルに転じたものであったが、年代事にメンバーが変わり、ダークテクノ、ニューウェーブ、アジアンテクノと2000年に活動停止までテクノミュージックの追及を行った(現在はリーダーの平沢のみの核P-MODELと、元メンバー達が個々で活動している)。演劇畑出身の巻上公一を中心とし、劇団から転じて1978年に命名されたのがヒカシューであり、後に巻上公一とヒカシューはテクノ・ポップの枠にとどまらず、前衛音楽や前衛ロック、フリージャズの分野へと、大きく羽ばたいていった。プラスチックスは1976年に立花ハジメを中心としたファッションデザイナーらによって結成されたバンドで、のちのバブル期の日本を先取りしたような軽さをうち出し、米国にてツアーも行った。 ヒカシューの巻上公一曰く、YMOとテクノ御三家の明確な違いとして、YMOは松武秀樹がシンセのプログラムング等の機材セッティングを行い、機材もプロユースの物をリースしていたのに対し、テクノ御三家は自分達で購入可能な機材を揃え、全て自分達でやっていたとしている。また、YMOとテクノ御三家はライバル関係のような状態だった為、別に仲が悪い訳では無かったが、当時は時代背景もありインタビューでお互いに悪口を言い合っていたという(当時は巻上と平沢が特に仲が悪いとされていたが、巻上曰く実際は長年の友人同士である)。
※この「YMOとテクノ御三家」の解説は、「テクノポップ」の解説の一部です。
「YMOとテクノ御三家」を含む「テクノポップ」の記事については、「テクノポップ」の概要を参照ください。
- YMOとテクノ御三家のページへのリンク