HR100
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/31 21:33 UTC 版)
「レバーク・HR100」の記事における「HR100」の解説
レバーク・HR100はイギリスのプールで、ペンスキー・レーシングによって開発された。責任技術者はジェフ・フェリスであった。その後マシンの開発にはジョン・バーナードが加わった。ペンスキーのエンジニアがマシンの製作を引き継いだ。 HR100は多くの部分で成功したマシンを模倣していた。車の全体的なレイアウトはロータス・79と酷似していた。しかしながらサイドボックスの設計は1979年シーズンでかなりの成功を収めていたウィリアムズ・FW07の影響を受けていた。HR100はグラウンドエフェクトおよび現代的な空力コンポーネントを有していた。駆動部分では革新的なソリューションは無く、コンベンショナルなアルミモノコックにフォード コスワースDFV、ヒューランド製5速ギアボックスを搭載した。 HR100はイタリアグランプリでデビューし、ドライバーはレバーク自身であった。79年シーズン、自身の名を冠したマシンをドライブしたのはエマーソン・フィッティパルディ、アルトゥーロ・メルツァリオと彼のみであった。モンツァのポールポジションはジャン=ピエール・ジャブイーユが獲得したが、レバークの予選タイムはそれよりも8秒以上遅かった。レバークは予選を通過することはできなかった。続くカナダグランプリでは予選を22位で通過したが、決勝では31ラップ目にサスペンショントラブルでリタイアとなった。最終戦のアメリカグランプリでは再び予選落ちとなった。これがHR100にとっての最後のレースとなった。 レバークの最初の声明に反して、HR100の後継は製作されなかった。レバークは自らのチームで参戦するのを諦め、翌年はシーズン中盤にブラバムに加入した。
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