基数的効用
(Cardinal Utility から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/07 15:13 UTC 版)
経済学 |
---|
![]() |
理論 |
ミクロ経済学 マクロ経済学 数理経済学 |
実証 |
計量経済学 実験経済学 経済史 |
応用 |
公共 医療 環境 天然資源 農業 開発 国際 都市 空間 地域 地理 労働 教育 人口 人事 産業 法 文化 金融 行動 |
一覧 |
経済学者 学術雑誌 重要書籍 カテゴリ 索引 概要 |
経済 |
![]() |
基数的効用(きすうてきこうよう、英: Cardinal utility)は、二つの結果のどちらを好むかだけでなく、その選好の「強さ」、すなわち一方の結果がもう一方と比べてどれだけ良い(または悪い)かも表す効用の概念のこと[1]。
消費者選択理論では、経済学者は当初、基数的効用を、より弱い概念に見える序数的効用で置き換えようとした。基数的効用は、間隔尺度としての絶対的満足度の水準が存在し、その増分の大きさを異なる状況間で比較できるという仮定を課しているように見える。しかし1940年代の経済学者は、緩やかな条件のもとでは序数効用が基数的効用を含意することを証明した。この結果は現在フォン・ノイマン=モルゲンシュテルンの効用定理として知られており、他の文脈でも同様の効用表現定理が多数存在する。
歴史
18世紀:ベルヌーイの端緒
1738年、ダニエル・ベルヌーイが貨幣の限界価値について最初に理論化した。彼は、追加額の価値は当人がすでに所有する金銭的保有に反比例すると仮定した。ベルヌーイは暗黙に、異なる人々の効用反応に対する人格間の測度が見いだせると仮定しており、これは早期の基数性の概念を用いていたことになる[2]。
ベルヌーイの想定した対数型効用関数とガブリエル・クラメールのU = W1/2は、需要理論のためではなく、サンクトペテルブルクのゲームを解くために考案されたものであった。ベルヌーイは「同じ利得であっても、貧者は富者より一般により多くの効用を得る」と仮定したが、これは単なる金銭の期待値よりも深いアプローチであり、道徳的期待の法則を含意する[3]。
ヴィクトリア時代と功利主義
初期の効用理論家は、効用には物理的に計量可能な属性があると考え、定規やストップウォッチで測れる距離や時間の大きさのように区別可能に測定できると見なした。効用尺度の単位には実際に「ユーティル(utils)」という名称が与えられた。
ヴィクトリア時代には生活の多くの側面が数量化に服していった[4]。効用理論はやがて道徳哲学の議論にも応用された。功利主義の本質は、人々の意思決定をユーティルの変化で評価し、より良くなったかどうかを測ることにある。18世紀末以来の功利主義の主唱者はジェレミー・ベンサムであり、彼は効用は複雑な内省により測定でき、社会政策や法の設計を導くべきだと考えた。ベンサムにとって快楽の尺度の単位は「快楽であると辛うじて識別できる最も弱い快楽の強度」であり[5]、強度が増すにつれより高い数で表せると述べた[5]。18〜19世紀の欧州の経済学派、とくに限界派(例:ウィリアム・ジェヴォンズ[6]、レオン・ワルラス、アルフレッド・マーシャル)は、効用の計量可能性に多くの注意を払ったが、その仮定を支持する強固な論拠は示せなかった。ジェヴォンズは、後の版で効用を正確に推定する難しさについて注記を加え[5]、ワルラスもまた、計量可能性の仮定を形式化しようと長年苦闘した[7]。マーシャルは快楽主義の心理的性質には与しつつも、その計量可能性の主張は「非現実的」であると述べ、曖昧な立場を取った[8]。
19世紀末:オーストリア学派の序数的転回と異説
19世紀の基数的効用の支持者は、市場価格が効用を反映すると示唆したが、(客観的な価格と主観的な効用の)整合性については多くを語らなかった。主観的な快楽(や苦痛)を正確に測るのは厄介であることは当時の思想家も自覚していた。彼らは効用を、主観的富、全体的幸福、道徳的価値、心理的満足、ophélimité など想像力豊かに呼び換えた。19世紀後半には、この仮想的な大きさ―効用―に関する多くの研究が行われたが、結論は常に同じだった。すなわち、ある財が一人にとって50か75か125ユーティルの価値か、あるいは二人の人にとってどうかを確定的に述べることはできなかった。さらに、快楽主義の概念に効用が依存していること自体が、この理論に対する学界の懐疑を招いた[9]。
フランシス・エッジワースも効用理論を現実世界に根拠づける必要性を認識していた。彼は、人が自身または他者の快楽をどの程度定量的に見積もれるかを論じ、快楽計測を研究する心理学の方法(精神物理学)を借用した。この分野はエルンスト・ウェーバーの仕事に基づくが、第一次大戦の頃には心理学者は落胆するに至った[10][11]。
19世紀末、カール・メンガーとオーストリア学派は、測定可能な効用からの最初の成功裏の離脱を、用途の順位づけという巧妙な形で試みた。計量可能な効用(実数への写像としての心理的満足)を捨てたにもかかわらず、メンガーは、財・サービスの可能な用途に対する選好の順位づけという少数の公理だけに依拠して、意思決定に関する仮説群を打ち立てた。彼の数値例は「基数ではなく序数の関係を例示している」[12]。
しかしメンガーの解釈には別説もある。アイヴァン・モスカティとJ・ヒューストン・マカロックは、メンガーは古典的基数主義者であり、彼の数値例は単なる例示ではなく、経済財間の価値の明示的な算術的比例を表していると主張する[13][14]。比例・加算・乗算といった算術は本質的に基数的であり、序数的パラダイムには存在しない。メンガーは次のようにも明言している。「直接かつ即時の重要性を持つのは、われわれの欲求の充足のみである。各具体的事例において、この重要性は、諸充足がわれわれの生命と幸福に対して有する重要性によって測定される。われわれは次に、この重要性の正確な量的規模を、当該の充足に直接依存すると自覚する特定の財に付与する」[15]。
20世紀前半:新古典派と序数効用の興隆
19世紀末頃には、新古典派は計量可能性の問題に対処する別の方法を採り始めた。1900年までに、ヴィルフレド・パレートは、快楽や苦痛を正確に測ることには慎重になっており、そのような自己申告の主観量には科学的妥当性が欠けると考えた。彼は感覚の不安定な知覚に依拠しない効用の扱いを求めた[16]。パレートの序数効用への主な貢献は、高い無差別曲線ほど高い効用を持つと仮定することにあり、どれほど高いかを特定せずとも、限界代替率逓減の結果を得られる点にあった。
パレート、エッジワース、アーヴィング・フィッシャー、エヴゲニー・スルツキーの業績や教科書は、基数的効用から離れて序数性の潮流を促した。ジェイコブ・ヴァイナーによれば[17]、彼らは需要曲線が右下がりであることを説明する理論を打ち立て、無差別曲線地図という抽象を構成することで、効用の計量可能性を回避した。
20世紀最初の30年間、イタリアとロシアの経済学者は、効用は基数である必要はないというパレート的考えに親しんだ。ヘンリー・シュルツによれば[18]、1931年時点ではアメリカの経済学者は序数効用をまだ受け入れていなかった。突破口は、ジョン・ヒックスとロイ・アレンが1934年に序数効用の理論をまとめたときに開かれた[19]。実際、この論文の54–55ページには「基数的効用」という用語の史上初の使用が含まれている[20]。ただし、アフィン変換で不変な効用関数のクラスの最初の取り扱いは、同じ1934年にオスカル・ランゲが行っている[21]。
20世紀後半以降:リスク・幸福研究と計量への回帰
1944年、フランク・ナイトは基数的効用を広範に擁護した。1960年代には アレン・パルデューシが大きさ判断を研究し、レンジ・フリークエンシー理論を提案した[22]。20世紀末以降、経済学者は幸福の経済学の測定問題に再び関心を寄せている[23][24]。この分野は幸福を測る方法・調査・指標を発展させている。
基数的効用関数のいくつかの性質は、測度論や集合論の手法を用いて導くことができる。
効用の測定可能性
効用関数は、ある財やサービスに対する選好の強さ(好ましさの強度)が、何らかの客観的基準によって厳密に決まる場合に、測定可能(measurable)であるとみなされる。たとえば、リンゴを食べることがミカンを食べることのちょうど半分の快楽を与えると仮定しよう。もしその快楽の大きさを直接に測るテストが、どの第三者でも正確に再現できる客観的基準に基づいているならば、これが測定可能効用であると言える[25]。この仮説的な方法の一つが、エッジワースが提案した、誤差法則に従って人々の快楽の高さを記録できるとされた装置、すなわちヘドノメーターである[10]。
1930年代以前、効用関数の「測定可能性」は、経済学者によって誤って「基数性(cardinality)」と呼ばれていた。これとは別の意味での基数性は、ヒックス=アレンの定式化に従う経済学者が用いたもので、正のアフィン変換まで一意に選好順序を保存する二つの効用関数を同一視する、というものである[26][27]。1940年代末には、フォン・ノイマン=モルゲンシュテルンの期待効用の公理化が、測定可能性を復活させたと性急に論じる経済学者さえ現れた[16]。
この「基数性」と「測定可能性」の混同は、アルメン・アルキアン[28]、ウィリアム・バウモル[29]、ジョン・チップマン[30]の仕事まで解けなかった。とりわけバウモルの論文「序数的である基的数効用(The cardinal utility which is ordinal)」という題名は、当時の文献が置かれていた意味論的混乱を的確に表していた[31]。
この問題は、自然科学の測定尺度の構成で現れる問題として考えると理解しやすい[32]。たとえば温度には測定の「二つの自由度」 – 単位の選択とゼロ点の選択 – がある。異なる温度目盛は、温度の強度を異なる方法で写像する。摂氏ではゼロは水の凝固点に置かれるが、同様に基数的効用論ではゼロの選択を「ちょうど 0 ユーティルの快楽」を与える財・サービスに対応させたくなるかもしれない。しかしこれは必ずしも真ではない。数学的な指数は、ゼロを恣意的に動かしても、尺度を変えても、あるいは両方を同時に変えても、なお基数的である。あらゆる測定可能な実体は基数関数に写像されるが、すべての基数関数が測定可能な実体の写像の結果であるとは限らない。この例の要点は、(温度と同じく)効用の二つの値の結合について、たとえユーティルが完全に別の数に線形変換されても、なお予測が可能であることを示す点にある。
フォン・ノイマンとモルゲンシュテルンは、物理量の測定可能性の問題は動学的だと述べた。たとえば温度は当初、任意の単調変換までしか定義されていなかったが、理想気体温度計の発展によって、絶対ゼロと絶対的単位を欠く変換が導入された。さらに熱力学の発展は絶対ゼロを固定し、熱力学の変換系は定数倍のみから成るようになった。彼ら(1944, p. 23)によれば、「効用の状況は[温度の]状況と類似の性質を持つように思われる」。
以下のアルチアンの引用は、効用関数の本質を最終的に明確にしたものとしてしばしば引かれる[要出典]。
さまざまな対象に数(測度)を割り当て、その割り当てた数(測度)が最大の対象が選ばれると予測できるだろうか。もしできるなら、この測度を「効用」と名づけ、選択は効用を最大化するように行われると主張できる。「あなたは効用を最大化している」という言い方は、ある割り当てた数の大きさに従って選択が予測可能だという以上の意味を持たない。分析上の便宜のために、人は何らかの制約の下で何かを最大化しようとする、と仮定するのが慣例である。人が最大化しようとする「何か」 – あるいはその数値的測度 – が「効用」と呼ばれる。効用が何らかの温もりや幸福のようなものかどうかは、ここでは無関係である。重要なのは、人が実現しようと努める諸状態に、数を割り当てられるということだけだ。そうすれば、人はそれらの数の関数を最大化しようとする、と言える。不幸なことに「効用」という語は、いまやあまりに多くの含意を帯びてしまっており、本稿の目的にとって効用がそれ以上の意味を持たないことを理解するのが難しくなっているのである。—アルメン・アルキアン、The Meaning of Utility Measurement[28]
選好の順序
1955年、パトリック・サップスとミュリエル・ウィネは、選好が基数的効用関数で表現可能である条件を解き、この効用指数が機能するために必要な公理と原始的特性の組を導出した[33]。
仮に、ある主体に A と B の選好、さらに B と C の選好を順位づけさせるとする。もし主体が、たとえば「A を B より好む程度が、B を C より好む程度を上回る」と答えられるなら、この情報は UA > UB > UC と UA − UB > UB − UC を満たす任意の数の三つ組で要約できる。
A と B が金額だとしよう。主体は B に対応する金額を調整し、A を B′ より好む程度が、B′ を C より好む程度と等しいと言えるようになるまで変えられる。もしそのような B′ が見つかれば、結果は UA > UB′ > UC かつ UA − UB′ = UB′ − UC を満たす任意の三つ組で表される。この関係を満たす二つの三つ組は、必ず線形変換で関係づけられる。すなわち、両者は尺度と原点が異なるだけの効用指数を表す。この文脈での「基数性」とは、まさにこれらの問いに一貫した回答が与えられること以上の意味を持たない。なお、この実験は効用の測定可能性を要請しない。イツァーク・ギルボアは、なぜ内省だけでは測定可能性に到達できないかを、次のように説明している。
紙や衣類の束を運んでいて、何枚か落としたのに気づかなかったことがあるかもしれない。あなたが運んでいた全体の重さの減少は、おそらく気づくには十分に大きくなかったのだ。二つの物体は、私たちが違いに気づけないほど、重さの点で近い場合がある。この問題は、私たちのあらゆる感覚に共通だ。二本の棒の長さが同じかどうかを尋ねても、違いが小さすぎて気づけないことがある。音(音量・音程)、光、温度など、同じことが当てはまる……。—Itzhak Gilboa、Theory of Decision under Uncertainty[34]
この見方によれば、ある人が A と B の違いをどうしても言い分けられない状況は、選好の整合性ゆえに無差別になるのではなく、感覚の誤認ゆえに無差別になる。また、人間の感覚は与えられた刺激水準に順応し、その基準線からの変化を記録する[35]。
基数的効用の構築方法
ある主体が、確率的結果(宝くじ)に対して選好順序を持っているとする。主体にその選好について質問できるなら、これらの選好を表す基数的効用関数を構成できる。これはフォン・ノイマン=モルゲンシュテルンの効用定理による。
応用
厚生経済学
功利主義系の厚生経済学者のあいだでは、厚生の単位として満足(場合によっては快楽)をとる傾向が一般的である。厚生経済学の機能が、厚生判断を下す社会哲学者や政治家に資するデータを提供することにあるならば、この傾向はおそらく快楽主義的倫理に導くことになる[36]。
この枠組みのもとでは、行為(財の生産やサービスの提供を含む)は、人々の主観的富への寄与によって評価される。言い換えれば、「最大多数の最大幸福」を判断する方法を与える。ある行為が一人の効用を 75 ユーティル減らし、同時に別の二人の効用をそれぞれ 50 ユーティル増やすなら、全体の効用は 25 ユーティル増えたことになり正の寄与である;一方で、最初の人に 125 ユーティルの損失を与え、他の二人に同じくそれぞれ 50 ユーティルの利益しか与えないなら、純計で 25 ユーティルの損失となる。
あるクラスの効用関数が基数的であれば、個人内の効用差の比較が許される。さらに、個人間のいくつかの効用比較に意味を持たせるなら、人々ごとに用いる線形変換には制約を課さねばならない。例として「単位の個人間比較可能性(cardinal unit comparability)」がある。この情報環境では、許容される変換は増加的アフィン関数であり、加えて尺度係数は全員で同じでなければならない。この仮定のもとでは個人間の効用差の比較は可能になるが、アフィン変換の切片が人によって異なりうるため、効用水準そのものの個人間比較はできない[37]。
限界主義(マージナリズム)
- 基数的効用理論のもとでは、ある財の限界効用の「符号」は、特定の選好構造を表すあらゆる数値的表示で不変である。
- 一方で、同じ選好構造を表す基数的効用指数どうしでも、限界効用の「大きさ」は同一である必要はない。
- 微分可能な基数的効用関数の二階微分の「符号」も、特定の選好構造のあらゆる数値的表示で不変である。通常この符号は負であるため、基数的効用理論には「限界効用逓減の法則」を成立させる余地がある。
- しかし二階微分の「大きさ」は、同じ選好構造を表す基数的効用指数の間で一致する必要はない。
期待効用理論
この種の指数はリスク下での選択を扱う。この場合、A, B, C は結果に対応するくじである。確実性のもとでの基数的効用理論では、選好から数量化された効用へ移ることはほとんど自明であったのに対し、ここでは選好を実数集合に写像して数学的な期待値演算を適用できることが極めて重要になる。写像が済めば、いくつかの追加仮定を導入することで、公平な賭けに関する人々の一貫した行動が導かれる。しかし「公平な賭け」とは定義上、期待値ゼロの賭けと別の賭けを比較した結果である。効用を数量化しなければリスク態度をモデル化することは不可能だが、この理論を、確実性のもとでの選好の強さを測るものと解釈すべきではない[38]。
効用関数の構築
特定の結果が三つの自然状態に対応し、x3 が x2 より好まれ、さらに x2 が x1 より好まれるとする。この結果の集合 X は、統制されたチャンスゲームにおける計算可能な金銭賞として考えられ、通貨単位に依存する正の比例定数を除いて一意とみなせる。
確率がそれぞれ p1, p2, p3 の二つのくじ L1 と L2 を
- Cardinal Utilityのページへのリンク