ANRでの運用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 04:15 UTC 版)
「G.55 (航空機)」の記事における「ANRでの運用」の解説
ドイツ国防空軍に徴発されたり、イタリア社会共和国が入手したG.55の厳密なデータは未だに不明である。およそ18機がANRにとりこまれ、12から20機ないしいくつかの報告によると42機がドイツに徴発された。チェンタウロはANRで就役し、300機のG.55/Iと、機関銃は搭載ぜずに5門の20 mm MG 151/20機関砲(1門は機体中央に、2門が上部カウリング、2門を主翼に搭載)で武装した200機の第2シリーズ、G.55/IIの製造が決定された。148機だけがANRの部隊に納入され、G.55の数が減るに連れてさまざまな派生型のBf 109Gの配備が進んだが、イタリア人パイロットはG.55を好んだので生産中止は極めて不評だった。 ANRは2個戦闘機飛行団(イタリア語: Gruppi Caccia terrestre)を有し、第1飛行団は当初1943年11月から1944年5月の間はマッキ C.205を装備していたが、その後1944年6月にG.55/Iに装備を変更し、1944年11月にBf 109Gに切り替え始めるまで使用した。第2飛行団はG.55を装備した主力部隊で、1943年12月から1944年8月まで70機を使用していたがBf 109Gに装備を変更した。 ANRで1943年11月に最初にG.55を装備した部隊は、第1飛行団に交代されてヴェネト州に移動するまでピエモンテから1944年3月29日まで運用されたモンテフスコ=ボネット補完警備部隊(イタリア語版)だった。第2飛行団はブレッソで編成された。部隊は、初期にはアントーニオ・ヴィゾット中佐が指揮し、後にアルド・アレッサンドリーニ中佐に交代した。3個飛行隊(第4:ジジ・トレ・オセイ、第5:ディアヴォーリ・ロッシ、第6:ガンバ・ディ・フェッロ)を有していた。1944年4月まではミラノおよびヴァレーゼ近郊で運用され、その後、パルマとパヴィーアの近くに移り、さらにガルダ湖(ブレシアおよびヴェローナ近郊)に移転した。5月の終わりに、第2飛行団はG.55を第1飛行団に引き渡し、ドイツ軍第53戦闘航空団第I航空隊(I./JG 53)および第77戦闘航空団第II航空隊(II./JG 77)が使用していたBf 109G-6/R6に乗り換えた。 ANRにおいて、G.55はスピットファイアやマスタングといった連合軍戦闘機を相手に好成績をおさめた。
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