3歳時以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 01:35 UTC 版)
3歳では、ジュニアカップ、共同通信杯に出走も、6、5着。その後は、当初スプリングステークスを目指して調整されていたが、脚部不安のため吉澤ステーブルに放牧に出され、春は全休する。 休養を挟み、降級戦となった飯豊特別を勝ち、3勝目を挙げると、昇級2戦目の白秋ステークスも勝ち、オープンへ再び昇級。昇級初戦となったキャピタルステークスでは、エアシェイディの2着と健闘するが、その後尾張ステークス、東京新聞杯、京王杯スプリングカップをそれぞれ、6、12、12着としばらく不振が続く。そのため、CBC賞では10番人気と評価を落としたが、各馬が外に殺到する中、馬場の真ん中を突く、四位洋文の好騎乗もあって優勝し、これが重賞初制覇となった。 続く函館スプリントステークスでは3着、キーンランドカップでは4着に敗れた。その後はスプリンターズステークスを除外され、初のダートでのレースとなるペルセウスステークスに出走。直線では外からよく伸び2着に入った。しかし続いては再び芝のレースに戻り、スワンステークスに出走し5着に入る。続く京阪杯は、3番人気で4着だった。 2008年はオーシャンステークスから始動するが11着だった。その後の高松宮記念では8着だった。次走は谷川岳ステークスに出走を予定していたが、脚部不安を生じたため回避することになった。 1年間の長期休養を終えて2009年5月30日の欅ステークスで復帰したが、ブービーの15着と大敗した。続く函館スプリントステークスでは12番人気と低評価も4位に入線したが、3位入線のエーシンエフダンズが進路妨害により8着に降着となったため、3着に繰り上がった。続くUHB杯では終始後方のまま16着と殿負けに終わった。続く朱鷺ステークスでは中団待機も失速して15着、室町ステークスと京洛ステークスでも同様の競馬でそれぞれ10着、17着という結果に終わった。その後放牧に出されていたが、10月18日に放牧先で病気により死亡した。調教師の手塚はブログで病名をEPMと明かしている。
※この「3歳時以降」の解説は、「ブラックバースピン」の解説の一部です。
「3歳時以降」を含む「ブラックバースピン」の記事については、「ブラックバースピン」の概要を参照ください。
- 3歳時以降のページへのリンク