3令制国と三陸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 01:39 UTC 版)
江戸時代には、現在の岩手県釜石市の石塚峠(北緯39度13分20.4秒 東経141度53分23.5秒 / 北緯39.222333度 東経141.889861度 / 39.222333; 141.889861 (石塚峠(南部盛岡藩と伊達仙台藩の藩境)))を境に、北側が南部氏の盛岡藩および八戸藩で、南側が仙台藩の知行域となっていた。江戸時代において、三陸沿岸全体を指す名称は不明である。ただし、地域名としては、南部藩領内を「三閉伊通」(さんへいどおり)あるいは「海辺道」と呼んでいたことが知られている。 1869年1月19日(明治元年12月7日)、戊辰戦争において賊軍となった奥羽越列藩同盟諸藩に対する処分が行われ、減封と領地換えによって三陸沿岸は従前のように八戸、盛岡、仙台各藩のみの領内ではなくなった。同日、太政官布告により、陸奥国が5つに分割され、おおむね3藩の旧知行域には陸奥国、陸中国、陸前国の3箇国が設置された。3つの「陸」の付いた国は「三陸」と総称されるようになり、3藩の旧知行域を指す言葉として用いられるようになった。 陸奥、陸中、陸前の3国の範囲を現代の地理で表すと次の通りである。 青森県全域。 岩手県全域。 宮城県のうち、亘理郡、伊具郡、刈田郡、角田市、白石市を除いた地域。 秋田県鹿角郡小坂町および鹿角市。
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